P--795 '要集C.txt P--796 P--797 #1往生要集 #2巻上    往生要集 巻上 [尽第四門半]                       天台首楞厳院沙門源信撰 【1】 それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざ るものあらん。ただし顕密の教法、その文、一にあらず。事理の業因、その行 これ多し。利智精進の人は、いまだ難しとなさず。予がごとき頑魯のもの、あ にあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を 集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。総べて十門あり。 分ちて三巻となす。一は厭離穢土、二は欣求浄土、三は極楽証拠、四は正修念 仏、五は助念方法、六は別時念仏、七は念仏利益、八は念仏証拠、九は往生諸 業、十は問答料簡なり。これを座右に置きて、廃忘に備へん。 【2】 大文第一に、厭離穢土といふは、それ三界は安きことなし、もつとも厭 離すべし。いまその相を明かすに、総べて七種あり。一は地獄、二は餓鬼、三 は畜生、四は阿修羅、五は人、六は天、七は総結なり。 P--798 【3】 第一の地獄に、また分ちて八となす。一は等活、二は黒縄、三は衆合、 四は叫喚、五は大叫喚、六は焦熱、七は大焦熱、八は無間なり。 【4】 初めに等活地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。縦広一万 由旬なり。このなかの罪人、たがひにつねに害心を懐けり。もしたまたまあひ 見れば、猟者の鹿に逢へるがごとくして、おのおの鉄の爪をもつてたがひに掴 み裂く。血肉すでに尽きて、ただ残骨のみあり。あるいは獄卒、手に鉄の杖・ 鉄の棒を執りて、頭より足に至るまで、あまねくみな打ち築くに、身体破砕す ること、なほ沙揣のごとし。あるいはきはめて利き刀をもつて分々に肉を割く こと、廚者の魚肉を屠るがごとし。涼風来りて吹くに、尋いで活ること故のご とし。&M016099;然としてまた起きて、前のごとく苦を受く。あるいはいはく、空中に 声ありていはく、「このもろもろの有情、また等しく活るべし、また等しく活 るべし」と。あるいはいはく、獄卒、鉄の叉をもつて地を打ちて、唱へて「活 活」といふ。かくのごとき等の苦、つぶさに述すべからず。[以上、『智度論』・ 『瑜伽論』・『諸経要集』によりて、これを撰す。]人間の五十年をもつて四天王天 の一日一夜となして、その寿五百歳なり。四天王天の寿をもつてこの地獄の一 P--799 日一夜となして、その寿五百歳なり。殺生せるもの、このなかに堕つ。[以上の 寿量は『倶舎』(倶舎論)による。業因は『正法念経』による。下の六もこれに同じ。] 『優婆塞戒経』には、初めの天(四天王天)の一年をもつて初めの地獄(等活地 獄)の日夜となせり。下去これに准へよ。  この地獄の四門のほかに、また十六の眷属の別処あり。一は屎泥処。いはく、 きはめて熱き屎泥あり。その味はひ、もつとも苦し。金剛の嘴ある虫、そのな かに充満せり。罪人、なかにありてこの熱屎を食らふ。もろもろの虫、聚集し て、一時に競ひ食らふ。皮を破りて肉を&M004299;らひ、骨を折りて髄を&M003780;ふ。昔、鹿 を殺し鳥を殺せるもの、このなかに堕つ。二は刀輪処。いはく、鉄の壁、周匝 して、高さ十由旬なり。猛火熾然として、つねにそのなかに満てり。人間の火 はこれに比ぶれば雪のごとし。わづかにその身に触るるに、砕くること芥子の ごとし。また熱鉄を雨らすこと、なほ盛りなる雨のごとし。また刀林あり。そ の刃はきはめて利し。また両刃ありて、雨のごとくして下る。もろもろの苦、 交はり至りて、堪忍すべからず。昔、物を貪りて殺生せるもの、このなかに堕 つ。三は瓮熟処。いはく、罪人を執りて鉄の瓮のなかに入れて、煎熟すること P--800 豆のごとし。昔、殺生して煮て食らへるもの、このなかに堕つ。四は多苦処。 いはく、この地獄に十千億種の無量の楚毒あり。つぶさに説くべからず。昔、 縄をもつて人を縛り、杖をもつて人を打ち、人を駆りて遠き路を行かしめ、嶮 しき処より人を落し、煙を薫べて人を悩まし、小児を怖れしむ。かくのごとき 等の、種々に人を悩ませるもの、みなこのなかに堕つ。五は闇冥処。いはく、 黒闇の処にありて、つねに闇火のために焼かる。大力の猛風、金剛山を吹きて、 合せ磨り、合せ砕くこと、なほ沙の散らすがごとし。熱風に吹かるるに、利き 刀の割くがごとし。昔、羊の口・鼻を&M003770;ぎ、二の&M005400;のなかに亀を置きて押し殺 せるもの、このなかに堕つ。六は不喜処。いはく、大きなる火炎ありて昼夜に 焚焼す。熱炎の嘴ある鳥・狗犬・野干の、その声極悪にしてはなはだ怖畏すべ し。つねに来りて食&M004299;す。骨肉狼藉たり。金剛の嘴ある虫、骨のなかに往来し て、その髄を食らふ。昔、貝を吹き、鼓を打ち、畏るべき声をなして鳥獣を 殺害せるもの、このなかに堕つ。七は極苦処。いはく、嶮岸の下にありて、つ ねに鉄火のために焼かる。昔、放逸にして殺生せるもの、このなかに堕つ。[以 上、『正法念経』による。自余の九処、『経』(同)のなかに説かず。] P--801 【5】 二に黒縄地獄といふは、等活の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒、罪人 を執りて熱鉄の地に臥せて、熱鉄の縄をもつて縦横に身に&M012236;ちて、熱鉄の斧を もつて縄に随ひて切り割く。あるいは鋸をもつて解き、あるいは刀をもつて屠 りて、百千段になして処々に散在す。また熱鉄の縄を懸けて、交へ横たふるこ と無数なり。罪人を駆りてそのなかに入れしむるに、悪風暴に吹きて、その身 に交絡して、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極まりなし。[以上、『瑜伽』(瑜伽論)・ 『智度論』。]また左右に大きなる鉄山あり。山の上におのおの鉄の幢を建て、幢 の頭に鉄の縄を張り、縄の下に多く熱&M040981;あり。罪人を駆りて、鉄の山を負はし め縄の上より行かしめ、はるかに鉄の&M040981;に落して摧き煮ること極まりなし。 [『観仏三昧経』意。]等活地獄および十六の別処の、一切のもろもろの苦を十倍し てかさねて受く。獄卒、罪人を呵責していはく、   「心はこれ第一の怨なり。この怨をもつとも悪となす。   この怨よく人を縛りて、送りて閻羅の処に到らしむ。   なんぢ独り地獄に焼かれて、悪業のために食せらる。   妻子・兄弟等の親属も救ふことあたはず」と。{乃至広説} P--802 後の五の地獄は、おのおの、前々の一切の地獄のあらゆるもろもろの苦をもつ て十倍して重く受くること、例してこれを知りぬべし。[以上、『正法念経』意。] 人間の一百歳をもつて&M010305;利天の一日一夜となして、その寿一千歳なり。&M010305;利天 の寿をもつて一日夜となして、この地獄の寿一千歳なり。殺生・偸盗せるもの、 このなかに堕つ。  また異処あり。等喚受苦処と名づく。いはく、嶮しき岸の無量由旬なるに挙 げ在きて、熱炎の黒縄をもつて束縛して、繋けをはりて、しかして後にこれを 推して、利き鉄の刀の熱地の上に堕す。鉄の炎の牙ある狗の&M004299;食するところな り。一切の身分、分々に分離す。声を唱へて吼喚すれども、救ふものあること なし。昔、説法せしに悪見の論によりてし、一切不実にして、一切を顧みず、 岸に投げて自殺せるもの、このなかに堕つ。また異処あり。畏鷲処と名づく。 [ある本、この四字なし。]いはく、獄卒杖を怒らかして急に打ち、昼夜につねに走 らしめ、手に火炎の鉄刀を執り、弓を挽き、箭を弩ち、後に随ひて走り逐ひ、 斫き打ち、これを射る。昔、物を貪ぜしがゆゑに人を殺し、人を縛りて食を奪 ひしもの、ここに堕つ。[『正法念経』略抄。] P--803 【6】 三に衆合地獄といふは、黒縄の下にあり。縦広、前に同じ。多く鉄山あ りて、両々あひ対へり。牛頭・馬頭等のもろもろの獄卒、手に器仗を執りて、 〔罪人を〕駆りて山のあひだに入らしむ。この時に両の山、迫め来りて合せ押 す。身体摧け砕け、血流れて地に満つ。あるいは鉄の山ありて空より落ちて、 罪人を打つに、砕くること沙揣のごとし。あるいは石の上に置きて巌をもつて これを押す。あるいは鉄の臼に入れて鉄の杵をもつて擣く。極悪の獄鬼、なら びに熱鉄の獅子・虎・狼等のもろもろの獣、烏・鷲等の鳥、競ひ来りて食&M004299;す。 [『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]また鉄炎の嘴ある鷲、その腸を取りを はりて樹の頭に掛け在きて、これを&M004299;食す。かしこに大きなる河あり。なかに 鉄鉤ありて、みなことごとく火に燃ゆ。獄卒、罪人を執へて、かの河のなかに 擲げて、鉄鉤の上に堕す。またかの河のなかに熱き赤銅の汁ありて、かの罪人 を漂はす。あるいは身、日のはじめて出づるがごときものあり。身沈没せるこ と、重き石のごときものあり。手を挙げて、天に向かひて号哭するものあり。 ともにあひ近づきてしかも号哭するものあり。久しく大苦を受けて、主もなく、 救もなし。また獄卒、地獄の人を取りて刀葉林に置く。かの樹の頭を見るに、 P--804 好き端正にして厳飾の婦女あり。かくのごとく見をはりて、すなはちかの樹に 上れば、樹の葉は刀のごとくして、その身肉を割く。次にはその筋を割く。か くのごとく一切の処を劈き割りをはりて、樹に上ることを得をはりて、かの婦 女を見れば、また地にあり。欲の媚たる眼をもつて、上に罪人を看て、かくの ごとき言をなさく、「なんぢを念ふ因縁をもつて、われこの処に到れり。なん ぢ、いまなんがゆゑぞ、来りてわれに近づかざる。なんぞわれを抱かざる」と。 罪人見をはりて、欲心熾盛にして、次第にまた下れば、刀葉、上に向かひて、 利きこと剃刀のごとくして、前のごとくあまねく一切の身分を割く。すでに地 に到りをはりぬれば、しかもかの婦女はまた樹の頭にあり。罪人見をはりて、 また樹に上る。かくのごとく無量百千億歳、自心に誑かされて、かの地獄の なかに、かくのごとく転行し、かくのごとく焼かるること、邪欲を因となす。 乃至、広く説く。獄卒、罪人を呵責して、偈を説きていはく、   「異人、悪をなして、異人、苦の報を受くるにあらず。   みづからの業をもつてみづから果を得。衆生みなかくのごとし」と。[『正   法念経』。] P--805 人間の二百歳をもつて夜摩天の一日夜となして、その寿二千歳なり。かの天の 寿をもつてこの獄の一日夜となして、その寿二千歳なり。殺生・偸盗・邪婬の もの、このなかに堕つ。  この大地獄にまた十六の別処あり。いはく、一処あり。悪見処と名づく。他 の児子を取りて、強ひ逼めて邪行して、号哭せしめたるもの、ここに堕ちて苦 を受く。いはく、罪人みづからの児子を見れば、地獄のなかにあり。獄卒、も しは鉄の杖をもつて、もしは鉄の錐をもつて、その〔児子の〕陰のなかを刺す。 もしは鉄鉤をもつて、その陰のなかに釘つ。すでにみづからの子のかくのごと き苦事を見て、愛心をもつて悲しみ絶ゆること堪忍すべからず。この愛心の苦 は、火焼の苦においていふに、十六分のなかにその一にも及ばず。かの人、か くのごとく心の苦に逼められをはりてまた身苦を受く。いはく、頭面を下に在 き、熱き銅の汁を盛りて、その糞門に灌ぐ。その身内に入るに、その熟臓・大 小腸等を焼く。次第に焼きをはりて、下にありて出づ。つぶさに身心の二の 苦を受くること、無量百千年のなかに止まず。また別処あり。多苦悩処と名 づく。いはく、男の、男において邪行を行ぜるもの、ここに堕ちて苦を受く。 P--806 いはく、本の男子を見るに、一切の身分、みなことごとく熱炎あり。来りてそ の身を抱くに、一切の身分、みなことごとく解散しぬ。死しをはりてまた活り、 きはめて怖畏をなして、走り避れて去るに、嶮しき岸より堕ち、炎の嘴ある烏、 炎の口の野干ありて、これを&M004299;食す。また別処あり。忍苦処と名づく。他の婦 女を取れるもの、ここに堕ちて苦を受く。いはく、獄卒これを樹の頭に懸けて、 頭面は下にあり、足は上にあり。下に大きなる炎を燃きて一切の身を焼く。焼 き尽せばまた生じぬ。唱喚して口を開けば、火口より入りて、その心・肺・ 生熟臓等を焼く。余は経に説くがごとし。[以上、『正法念経』よりこれを略抄 す。] 【7】 四に叫喚地獄といふは、衆合の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒の頭、 黄なること金のごとし。眼のなかより火出づ。赭き色の衣を着たり。手・足、 長大にして、疾く走ること風のごとし。口より悪声を出して罪人を射る。罪人 惶怖して、頭を叩きて、哀れみを求む。「願はくは慈愍を垂れて、少し放捨せ られよ」と。この言ありといへども、いよいよ瞋怒を増す。[『大論』(大智度論)。] あるいは鉄の棒をもつて頭を打ちて熱鉄の地よりして走らしめ、あるいは熱熬 P--807 に置きて反覆してこれを炙る。あるいは熱&M040981;に擲げてこれを煎り煮る。あるい は駆りて猛炎の鉄の室に入る。あるいは鉗をもつて口を開きて洋銅を灌ぎて、 五臓を焼爛して下よりただに出す。[『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]罪 人偈を説きて、閻羅人を傷恨していはく、   「なんぢ、なんぞ悲心なき、またなんぞ寂静ならざる。   われはこれ悲心の器なり。われにおいてなんぞ悲なき」と。 時に閻羅人、罪人に答へていはく、   「すでに愛の羂のために誑かされて、悪・不善の業をなして、   いま悪業の報を受く。なんがゆゑぞわれを瞋り恨むるや」と。 またいはく、   「なんぢ本悪業をなして、欲痴のために誑かされき。   かの時になんぞ悔いずして、いま悔ゆること、なんの及ぶところかあら   ん」と。[『正法念経』。] 人間の四百歳をもつて兜率天の一日夜となして、その寿四千歳なり。兜率天の 寿をもつてこの獄の一日夜となして、寿四千歳なり。殺・盗・婬・飲酒のもの、 P--808 このなかに堕つ。  また十六の別処あり。そのなかに一処あり。火末虫と名づく。昔、酒を売り しに、水を加へ益せるもの、このなかに堕つ。四百四病を具せり。[風黄冷雑に、 おのおの百一の病あり。合して四百四あり。]その一の病の力は、一日夜においてよ く四大洲のそこばくの人をしてみな死せしむ。また身より虫出でて、その皮・ 肉・骨・髄を破りて飲食す。また別処あり。雲火霧と名づく。昔、酒をもつて 人に与へて、酔はしめをはりて、調戯して、これを弄して、かれをして羞恥せ しめたるもの、ここに堕ちて苦を受く。いはく、獄火の満てること厚さ二百 肘なり。獄卒、罪人を捉へて火のなかに行かしめて、足より頭に至るまで一切 洋消せしむ。足を挙ぐれば還りて生じぬ。かくのごとく無量百千歳、苦を与 ふること止まず。余は経の文のごとし。また獄卒、罪人を呵嘖して、偈を説き ていはく、   「仏の所にして痴をなし、世・出世の事を壊り、   解脱を焼くこと火のごとくするは、いはゆる酒の一法なり」と。[『正法念   経』。] P--809 【8】 五に大叫喚地獄といふは、叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。苦の相ま た同じ。ただし前の四の地獄、およびもろもろの十六の別処の一切のもろもろ の苦を十倍して重く受く。人間の八百歳をもつて化楽天の一日夜となして、そ の寿八千歳なり。かの天の寿をもつてこの獄の一日夜となして、その寿八千歳 なり。殺・盗・婬・飲酒・妄語のもの、このなかに堕つ。獄卒、罪人を呵嘖し て、偈を説きていはく、   「妄語は第一の火なり。なほよく大海をすら焼きてん。   いはんや妄語の人を焼くこと、草木薪を焼くがごとし」と。{云々}  また十六の別処あり。そのなかの一処を受鋒苦と名づく。熱鉄の利き針、口 舌をともに刺して、啼哭することあたはず。また別処あり。受無辺苦と名づく。 獄卒、熱鉄の鉗をもつてその舌を抜き出す。抜きをはりぬればまた生じ、生じ ぬればすなはちまた抜く。眼を抜くこともまたしかなり。また刀をもつてその 身を削る。刀はなはだ薄く利きこと、剃頭刀のごとし。かくのごとき等の異類 のもろもろの苦を受くること、みなこれ妄語の果報なり。余は経に説くがごと し。[『正法念経』略抄。] P--810 【9】 六に焦熱地獄といふは、大叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。獄卒、罪 人を捉へて熱鉄の地の上に臥せ、あるいは仰むけ、あるいは覆せて、頭より足 に至るまで、大きなる熱鉄の棒をもつて、あるいは打ち、あるいは築きて、肉 摶のごとくならしむ。あるいは極熱の大きなる鉄熬の上に置きて、猛炎をもつ てこれを炙る。左右にこれを転じて、表裏焼薄す。あるいは大きなる鉄の串を もつて下よりこれを貫き、頭を徹して出し、反覆してこれを炙り、かの有情を して諸根・毛孔、および口のなかにことごとくみな炎起らしむ。あるいは熱&M040981; に入れ、あるいは鉄の楼に置くに、鉄火猛盛にして骨髄を徹す。[『瑜伽』(瑜伽 論)・『大論』(大智度論)。]もしこの獄の豆ばかりの火をもつて閻浮提に置かば、 一時に焚け尽きなん。いはんや罪人の身は軟らかなること生蘇のごとし。長時 に焚焼せんに、あに忍ぶべけんや。この地獄の人は、前の五の地獄の火を望み 見ること、なほ雪霜のごとし。[『正法念経』。]人間の千六百歳をもつて他化天 の一日夜となして、その寿万六千歳なり。他化天の寿をもつて日夜となして、 この獄の寿またしかなり。殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見のもの、このなかに 堕つ。 P--811  四門のほかにまた十六の別処あり。そのなかに一処あり。分荼離迦と名づく。 いはく、かの罪人の一切の身分に、芥子ばかりも火炎なき処なし。異の地獄の 人、かくのごとく説きていはく、「なんぢ、疾くすみやかに来れ。なんぢ、疾 くすみやかに来れ。ここに分荼離迦の池あり。水ありて飲みつべし、林に潤影 あり」と。随ひて走り趣くに、道の上に坑あり。なかに熾りなる火満てり。罪 人入りをはるに、一切の身分みなことごとく焼け尽きぬ。焼けをはればまた生 じ、生じをはればまた焼く。渇欲息まずして、すなはち前進みて入りぬ。すで にかの処に入れば、分荼離迦の炎の燃ゆること、高大なること五百由旬なり。 かの火に焼炙せられて、死してまた活る。もし人、みづから餓死して天に生る ることを得ることを望み、また他人を教へて邪見に住せしめたるもの、このな かに堕つ。また別処あり。闇火風と名づく。いはく、かの罪人、悪風に吹かれ て、虚空のなかにありて、所依の処なし。車輪のごとく疾く転じて、身見るべ からず。かくのごとく転じをはるに、異の刀風生じて、身を砕くこと沙のごと くして、十方に分散す。散じをはればまた生じ、生じをはればまた散ず。つね にかくのごとし。もし人、かくのごとき見をなさく、「一切の諸法に、常と無 P--812 常とあり。無常といふは身なり。常といふは四大なり」と。かの邪見の人、か くのごとき苦を受く。余は経に説くがごとし。[『正法念経』。] 【10】 七に大焦熱地獄といふは、焦熱の下にあり。縦広、前に同じ。苦の相ま た同じ。[『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]ただし前の六の地獄の根本と 別処との一切のもろもろの苦を十倍してつぶさに受く。つぶさに説くべからず。 その寿、半中劫なり。殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見、ならびに浄戒の尼を汚 せるもの、このなかに堕つ。この悪業の人は、先づ中有にして大地獄の相を見 る。閻羅人ありて、面に悪き状あり。手・足きはめて熱くして、身を捩かし、 肱を怒らかせり。罪人これを見て、きはめて大きに&M010620;怖す。その声、雷吼のご とし。罪人これを聞きて恐怖さらに増す。その手に利き刀を執り、腹肚はなは だ大にして、黒雲の色のごとし。眼の炎は灯のごとく、鉤れる牙、鋒のごと く利し。臂・手みな長く、揺動して勢ひをなすに、一切の身分、みなことごと く粗起す。かくのごとき種々の畏づべき形状をもつて、堅く罪人の咽を繋る。 かくのごとくして将て去ること、六十八百千由旬の地海洲城を過ぎて、海の 外辺にあり。また行くこと三十六億由旬にして、漸々に下に向かふこと十億由 P--813 旬なり。一切の風のなかには、業風第一なり。かくのごとき業風、悪業の人を 将て去りて、かの処に到らしむ。すでにかしこに到りをはりぬれば、閻魔羅王、 種々に呵責す。呵責すでに已れば、悪業の羂をもつて縛りて、出して地獄に向 かはしむ。遠く大焦熱地獄のあまねく大きなる炎の燃ゆるを見る。また地獄の 罪人の啼哭の声を聞く。悲しみ愁へ、恐魄して、無量の苦を受く。かくのごと く無量百千万億無数の年歳、啼哭の声を聞きて、十倍して恐魄し、心驚き 怖畏す。閻羅人、これを呵責していはく、   「なんぢ地獄の声を聞くに、すでにかくのごとく怖畏す。   いかにいはんや地獄にして焼かるることは、乾れたる薪草を焼くがごとし。   火の焼くはこれ焼くにあらず。悪業すなはちこれ焼くなり。   火の焼くはすなはち滅すべし。業の焼くをば滅すべからず」と。{云々} かくのごとくねんごろに呵責しをはりて、将て地獄に向かふに、大きなる火聚 あり。その聚、挙れること高さ五百由旬なり。その量、寛広なること二百由旬 なり。炎の燃ゆること熾盛なるは、かの人の所作の悪業の勢力なり。急にその 身を擲げて、かの火聚に堕すこと、大きなる山の岸より推して険しき岸に在く P--814 がごとし。[以上、『正法念経』よりこれを取意し略抄す。]  この大焦熱地獄の四門のほかに、十六の別処あり。そのなかに一処あり。一 切間なく、乃至虚空まで、みなことごとく炎燃して、針の孔ばかりも炎燃せざ る処なし。罪人、火のなかに声を発して唱へ喚ぶ。無量億歳、つねに焼くこと 止まず。清浄の優婆夷を犯せるもの、このなかに堕つ。また別処あり。普受 一切苦悩と名づく。いはく、炎刀をもつて一切の身の皮を剥ぎ割きて、その肉 をば侵さず。すでにその皮を剥ぎ、身とあひ連ねて熱の地に敷き在きて、火を もつてこれを焼き、熱鉄の沸けるをもつてその身体に灌ぐ。かくのごとく無量 億歳、大苦を受く。比丘の、酒をもつて持戒の婦女を誘へ誑かして、その心を 壊りをはりて、しかして後に、ともに行じ、あるいは財物を与へたるもの、こ のなかに堕つ。余は経に説くがごとし。[『正法念経』よりこれを略抄す。] 【11】 八に阿鼻地獄といふは、大焦熱の下にあり。欲界の最底の処なり。罪人、 かしこに趣向する時に、先づ中有の位にして、啼哭して、偈を説きていはく、   「一切はただ火炎なり。空に遍して中間もなし。   四方および四維、地界にも空しきところなし。 P--815   一切の地界処には、悪人みな遍満せり。   われいま帰するところなくして、孤独にして同伴なし。   悪処の闇のなかにありて、大きなる火炎の聚に入りぬ。   われ虚空のなかにして、日・月・星を見ず」と。{以上} 時に閻羅人、瞋怒の心をもつて答へていはく、   「あるいは増劫あるいは減劫に、大火なんぢが身を焼く。   痴人すでに悪をなしてき。いまなにをもつてか悔ゆることをなす。   これ天・修羅・健達婆・竜・鬼のするにもあらず。   業羅の繋縛するところなり。人のよくなんぢを救ふものなし。   大海のなかに、ただ一掬の水を取らんがごとし。   この苦は一掬のごとし、後の苦は大海のごとし」と。{以上} すでに呵責しをはれば、将て地獄に向かふ。かしこを去ること二万五千由旬に して、かの地獄の啼哭の声を聞きて、十倍して悶絶す。頭面は下にあり、足は 上にありて、二千年を経て、みな下に向かひて行く。[『正法念経』よりこれを略 抄す。]かの阿鼻城は、縦広八万由旬にして、七重の鉄の城、七層の鉄の網あり。 P--816 下に十八の隔ありて、刀林周匝せり。四角に四の銅の狗あり。身の長四十由 旬なり。眼は電のごとく、牙は剣のごとく、歯は刀山のごとく、舌は鉄刺のご とし。一切の毛孔よりみな猛火を出し、その煙臭悪にして世間に喩へなし。 十八の獄卒あり。頭は羅刹のごとく、口は夜叉のごとし。六十四の眼ありて、 鉄丸を迸り散らす。鉤れる牙は、上に出でたること高さ四由旬、牙の頭より火 流れて阿鼻城に満つ。頭の上に八の牛頭あり。一々の牛頭に十八の角ありて、 一々の角の頭よりみな猛火を出す。また七重の城のうちに七の鉄幢あり。幢の 頭より火涌くこと、なほ沸泉のごとし。その炎、流れ迸りて、また城のうちに 満つ。四門の&M041329;の上に八十の釜あり。沸銅涌出して、また城のうちに満つ。 一々の隔のあひだに、八万四千の鉄蟒・大蛇ありて、毒を吐き、火を吐きて、 身城のうちに満てり。その蛇の哮え吼ゆること、百千の雷のごとく、大鉄丸を 雨らして、また城のうちに満つ。五百億の虫あり。八万四千の嘴ありて、嘴の 頭より火流れ、雨のごとくして下る。この虫下る時に、獄火いよいよ盛りにし て、あまねく八万四千由旬を照らす。また八万億千の苦のなかの苦なるもの、 このなかに集在せり。[『観仏三昧経』よりこれを略抄す。]『瑜伽』(瑜伽論)の第 P--817 四にいはく、「東方の多百瑜繕那の三熱の大鉄地の上より、猛熾の火ありて、 焔を騰げて来りて、かの有情を刺す。皮を穿ちて肉に入り、筋を断ちて骨を破 り、またその髄に徹りて、焼くこと脂燭のごとし。かくのごとく、身を挙りて みな猛焔となりぬ。東方よりするがごとく、南西北方もまたかくのごとし。こ の因縁によりて、かのもろもろの有情、猛焔と和雑して、ただ火聚の、四方よ り来るを見る。火焔、和雑し、間隙あることなく、所受の苦痛また間隙なし。 ただ苦に逼められて号き叫ぶ声を聞きて、衆生ありといふことを知る。また鉄 の箕をもつて三熱の鉄の炭を盛り満てて、これを簸り揃へ、また熱鉄の地の上 に置きて、大熱鉄の山に登らしむ。上りてはまた下り、下りてはまた上る。そ の口のなかより、その舌を抜き出して、百の鉄の釘をもつて、これを張りて、 皺&M034347;なからしむること、牛の皮を張るがごとし。またさらに熱鉄の地の上に仰 むけ臥せて、熱鉄の&M040287;をもつて口を&M040287;みて開かしめ、三熱の鉄丸をもつてその 口のなかに置きて、すなはちその口および咽喉を焼き、腑臓を徹して下より出 す。また洋銅をもつてその口に灌ぎて、喉および口を焼き、腑臓を徹して下よ り流出す」と。[以上、『瑜伽』(瑜伽論)に、「三熱」といふは、「焼燃・極焼燃・遍 P--818 極焼燃」なり。]七の大地獄ならびに別処の一切のもろもろの苦を、もつて一分 となすに、阿鼻地獄は一千倍して勝れたり。かくのごとくして、阿鼻地獄の人 は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見るがごとし。四天下処、 欲界六天は、地獄の気を聞がば、すなはちみな消え尽きなん。なにをもつての ゆゑに。地獄の人はきはめて大きに臭きをもつてのゆゑに。地獄の臭き気、な んがゆゑぞ来らざる。二の大山ありて、一は出山と名づけ、二を没山と名づく。 かの臭き気を遮せり。もし人、一切の地獄のあらゆる苦悩を聞かば、みなこと ごとく堪へざらん。これを聞かばすなはち死せん。かくのごとくなるをもつて、 阿鼻大地獄処をば、千分のなかにおいて一分をも説かず。なにをもつてのゆゑ に。説き尽すべからず、聴くことを得べからず、譬喩すべからざるをもつてな り。もし人ありて説き、もし人ありて聴かば、かくのごとき人は血を吐きて死 せん。[『正法念経』より、取意略抄す。]この無間獄は寿一中劫なり。[『倶舎論』。] 五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく信施を食 らへるもの、このなかに堕つ。[『観仏三昧経』による。]  この無間獄の四門のほかに、また十六の眷属の別処あり。そのなかの一処を P--819 鉄野干食処と名づく。いはく、罪人の身の上に、火の燃えたること十由旬量 なり。もろもろの地獄のなかに、この苦もつとも勝れたり。また鉄の&M005400;を雨ら すこと、盛りなる夏の雨のごとく、身体破砕すること、なほ乾れたる脯のごと し。炎の牙ある野干、つねに来りて食&M004299;し、一切の時において苦を受くること 止まず。昔、仏像を焼き、僧房を焼き、僧の臥具を焼きしもの、このなかに堕 つ。また別処あり。黒肚処と名づく。いはく、飢渇身を焼きて、みづからその 肉を食らふ。食らひをはればまた生じ、生じをはればまた食らふ。黒肚の蛇あ りて、かの罪人を繞ひて、はじめ足の甲より漸々に齧み食らふ。あるいは猛火 に入れて焚焼し、あるいは鉄&M040981;に在きて煎煮す。無量億歳、かくのごとき苦を 受く。昔、仏の財物を取りて食用せるもの、ここに堕つ。また別処あり。雨山 聚処と名づく。いはく、一由旬量の鉄山、上より下りて、かの罪人を打つに、 砕くること沙揣のごとし。砕けをはればまた生じ、生じをはればまた砕く。ま た十一の炎ありて、周遍して身を焼く。また獄卒、刀をもつてあまねく身分を 割きて、極熱の白鑞の汁をその割ける処に入る。四百四病、具足してつねにあ り。長久に苦を受けて年歳あることなし。昔、辟支仏の食を取りて、みづから P--820 食してこれを与へざるもの、ここに堕つ。また別処あり。閻婆度処と名づく。 悪鳥あり、身大きなること象のごとし。名づけて閻婆といふ。嘴利くして炎 を生ぜり。罪人を執りて、はるかに空中に上りて、東西に遊行し、しかして後 にこれを放つに、石の地に堕つるがごとくして、砕けて百分となる。砕けをは りてはまた合し、合しをはればまた執る。また利き刃道に満ちて、その足脚を 割く。あるいは炎の歯ある狗ありて、来りてその身を齧む。長久の時に大苦悩 を受く。昔、人の用ゐる〔河を〕決断して、人をして渇死せしめたるもの、こ こに堕つ。余は経に説くがごとし。[以上『正法念経』。]『瑜伽』(瑜伽論)の第四 に、通じて八大地獄の近辺の別処を説きていはく、「いはく、かの一切のもろ もろの大那落迦に、みな四方に四岸・四門ありて、鉄の墻、囲繞せり。その四 方の四門より出でをはりて、その一々の門のほかに四の出園を置けり。いはく、 &M019269;&M019228;ありて膝に斉し。かのもろもろの有情、出でて舎宅を求めんとして遊行し て、ここに至りぬ。足を下す時には、皮肉および血、ならびにすなはち消爛し ぬ。足を挙ぐれば還りて生ず。次いでこの&M019269;&M019228;に間なくして、すなはち死屍糞 泥あり。このもろもろの有情、舎宅を求めんがために、かしこより出でをはり P--821 て、漸々に遊行して、そのなかに&M017624;ち入りて、首足ともに没しぬ。また、屍糞 泥のうちに、多くもろもろの虫あり。嬢矩&M003302;と名づく。皮を穿ちて肉に入り、 筋を断ちて骨を破り、髄を取りて食らふ。次に屍糞泥に間なくして、利き刀剣 あり。刃を仰むけて路となす。かのもろもろの有情、舎宅を求めんがために、 かしこより出でをはりて、遊行してここに至り、足を下す時には、皮・肉・ 筋・血ことごとくみな消え爛れぬ。足を挙ぐる時には、また復すること故のご とし。次に刀剣刃路に間なくして、刃葉林あり。かのもろもろの有情、舎宅を 求めんがために、かしこより出でをはりて、かの陰に往き趣きて、わづかにそ の下に坐するに、微風つひに起りて刃の葉堕落し、その身の一切の支節を斫截 して、すなはち地に躄れぬ。黒&M048131;の狗ありて、脊・胎を&M012601;掣して、これを&M004299;食 す。この刃葉林より間なくして、鉄設柆末梨林あり。かのもろもろの有情、舎 宅を求めんがために、すなはち来りてこれに趣きて、つひにその上に登る。ま さに登りぬる時には、一切の刺鋒、ことごとく回りて下に向かふ。下らんと欲 する時には、一切の刺鋒、また回りて上に向かふ。この因縁によりて、その身 を貫き刺して、もろもろの支節に遍す。その時に、すなはち鉄の嘴ある大きな P--822 る烏ありて、かの頭の上に上り、あるいはその&M045241;に上りて、眼精を探啄して、 しかもこれを&M004299;食す。鉄設柆末梨林より間なくして、広大なる河あり。沸きて 熱き灰の水、そのなかに弥満せり。かのもろもろの有情、舎宅を尋ね求めて、 かしこより出でをはりて、来りてこのなかに堕ちぬ。なほ豆をもつてこれを大 きなる&M040981;に置きて、猛く熾りなる火を燃きて、これを煎煮するがごとし。湯に 随ひて騰湧して、周旋して回復す。河の両の岸に、もろもろの獄卒あり。手に 杖索および大きなる網を執りて、行列して住して、かの有情を遮して出づるこ とを得しめず。あるいは索をもつて羂け、あるいは網をもつて漉ふ。また、 広大なる熱鉄の地の上に置きて、かの有情を仰むけて、これに問ひていはく、 〈なんぢら、いまなんの所須をか欲する〉と。かくのごとく答へていはく、〈わ れら、いまつひに覚知することなし。しかも種々の飢苦のために逼めらる〉と。 時にかの獄卒、すなはち鉄の&M040287;をもつて口を&M040287;みて開かしめて、すなはち極熱 の焼熱の鉄丸をもつてその口のなかに置く。余は前に説くがごとし。もしかれ 答へて、〈われいまただ渇苦のために逼めらる〉といへば、その時に、獄卒す なはち洋銅をもつてその口に灌ぐ。この因縁によりて長時に苦を受く。乃至、 P--823 先世に造れるところの一切の、よく那落迦を感じ、悪・不善の業いまだ尽きざ れば、いまだこのなかを出でず。もしは刀剣刃路、もしは刃葉林、もしは鉄設 柆末梨林、これを総べて一となす。ゆゑに四の園あり」と。[以上は『瑜伽』(瑜 伽論)ならびに『倶舎』(倶舎論)の意なり。一々の地獄の四門のほかにおのおのこの四 園あり。合して十六と名づく。『正法念経』の、八大地獄の十六の別処の名相の各別なる には同ぜず。]また&M043447;部陀等の八寒地獄あり。つぶさに経論のごとし。これを広 述するに遑あらず。 【12】 第二に餓鬼道を明かさば、住処に二あり。一には地の下五百由旬にあり。 閻魔王界なり。二には人天のあひだにあり。その相はなはだ多し。いま少分を 明かさん。あるいは身の長一尺なり。あるいは身量、人のごとし。あるいは千 踰繕那のごとし。あるいは雪山のごとし。[『大集経』。]あるいは鬼あり。&M040981;身と 名づく。その身長大にして、人に過ぎたること両倍なり。面・目あることなく、 手・足はなほ&M040981;の脚のごとし。熱火なかに満ちて、その身を焚焼す。昔、財を 貪じて屠殺せるもの、この報を受く。あるいは鬼あり。食吐と名づく。その身 広大にして、長半由旬なり。つねに嘔吐を求むるに、困みて得ることあたはず。 P--824 昔、あるいは丈夫の、みづから美食を&M004299;らひて妻子に与へず、あるいは婦人の、 みづから食らひて夫子に与へざるもの、この報を受く。あるいは鬼あり。食気 と名づく。世人の、病によりて、水の辺、林のなかに祭を設くるに、この香気 を臭ぎて、もつてみづから活命す。昔、妻子等の前にして独り美食を&M004299;らへる もの、この報を受く。あるいは鬼あり。食法と名づく。嶮難の処にして馳走し て食を求む。色は黒雲のごとく、涙の流るること雨のごとし。もし僧寺に至り て、人の呪願し説法することある時は、これによりて力を得て活命す。昔、名 利を貪ぜしがために不浄に説法せしもの、この報を受く。あるいは鬼あり。食 水と名づく。飢渇身を焼き、周&M011102;して水を求むるに、困みて得ることあたはず。 長き髪面を覆ひ、目見るところなし。走りて河の辺に趣きて、もし人、河を渡 りて、脚足の下より遺落せる余りの水あれば、速疾に接り取りて、もつてみづ から活命す。あるいは人の、水を掬ひて亡ぜる父母に施するに、すなはち少分 を得て、命、存立することを得。もしみづから水を取れば、水を守るもろもろ の鬼、杖をもつて&M012778;打す。昔、酒を沽るに水を加へ、あるいは蚓・蛾を沈め、 善法を修せざるもの、この報を受く。あるいは鬼あり。&M010661;望と名づく。世人の、 P--825 亡ぜる父母のために祀を設くる時にのみ、得てこれを食らふ。余をばことごと く食することあたはず。もし人、労しくして少物を得たるを、誑惑して取り用 ゐるもの、この報を受く。あるいは鬼あり。海渚のなかに生れたり。樹林・河 水あることなく、その処はなはだ熱し。かの冬の日をもつて人間の夏に比ぶる に、過ぎ踰えたること千倍なり。ただ朝の露をもつてみづから活命す。海渚に 住すといへども、海を見るに枯れ竭きぬ。昔、路を行く人の、病苦に疲極せる に、その賈を欺き取りて、直を与ふること薄少なるもの、この報を受く。ある いは鬼あり。つねに塚のあひだに至りて、焼屍の火を&M004299;らふに、なほ足ること あたはず。昔、刑獄を典主して、人の飲食を取れるもの、この報を受く。ある いは餓鬼あり。生れて樹のなかにありて、逼&M038801;して身を押さるること賊木虫の ごとくして、大苦悩を受く。昔、陰涼の樹を伐り、および衆僧の園林を伐れる もの、この報を受く。[『正法念経』。]あるいはまた鬼あり。頭の髪、垂れ下りて、 あまねく身体を纏へり。その髪刀のごとくして、その身を刺し切る。あるいは 変じて火となりて、〔身体を〕周匝して焚焼す。あるいは鬼あり。昼夜におの おの五の子を生む。生むに随ひてこれを食らふに、なほつねに飢乏す。[『六波 P--826 羅蜜経』。]あるいはまた鬼あり。一切の食をみな&M004299;らふことあたはず。ただみづ から頭を破り脳を取りて食らふ。あるいは鬼あり。火口より出づ。飛蛾の、火 に投ずるをもつて飲食となす。あるいは鬼あり。糞・涕・膿・血、器を洗へる 遺余を食らふ。[『大論』(大智度論)。]またほかの障によりて食を得ざる鬼あり。 いはく、飢渇つねに急にして、身体枯竭せり。たまたま清き流に望み、走りて かしこに向かひ赴けば、大力の鬼ありて、杖をもつて逆へ打つ。あるいは変じ て火となり、あるいはことごとく枯れ涸きぬ。あるいはうちの障によりて食を 得ざる鬼あり。いはく、口は針の孔のごとく、腹は大山のごとくして、たとひ 飲食に逢へどもこれを&M004299;らふに由なし。あるいは内外の障なけれども、しかも 用ゐることあたはざる鬼あり。いはく、たまたま少食に逢ひて食&M004299;すれば、変 じて猛焔となりて、身を焼きて出づ。[『瑜伽論』。]人間の一月をもつて一日夜 となして月・年をなし、寿五百歳なり。『正法念経』(意)にのたまはく、「慳 貪と嫉妬のもの、餓鬼道に堕つ」と。 【13】 第三に畜生道を明かさば、その住処に二あり。根本は大海に住し、支末 は人天に雑せり。別して論ずれば、三十四億の種類あり。総じて論ずれば、三 P--827 を出でず。一は鳥類、二は獣類、三は虫類なり。かくのごとき等の類、強弱あ ひ害す。もしは飲、もしは食、いまだかつてしばらくも安らかならず。昼夜の うちに、つねに怖懼を懐けり。いはんやまた、もろもろの水性の属は漁るもの のために害せられ、もろもろの陸行の類は、猟るもののために害せらる。もし は象・馬・牛・驢・駱駝・騾等のごときは、あるいは鉄鉤をもつてその脳を&M013585; ち、あるいは鼻のなかに穿し、あるいは轡をもつて首に繋く。身につねに重 きものを負ひて、もろもろの杖捶を加へらる。ただ水・草を念じて、余は知る ところなし。また蚰蜒・鼠狼等は、闇のなかに生れて闇のなかに死ぬ。&M033596;蝨・ 蚤等は、人身によりて生じて、還りて人によりて死ぬ。またもろもろの竜衆は、 三熱の苦を受けて昼夜に休むことなし。あるいはまた蟒蛇は、その身長大なれ ども、聾&M044780;にして足なく、宛転腹行して、もろもろの小虫のために&M003780;食せら る。あるいはまた一の毛の百分のごときもの、あるいは窓のなかの遊塵のごと きもの、あるいは十五由旬のごときものあり。かくのごときもろもろの畜生は、 あるいは一時を経るあひだ、あるいは七時のあひだ、あるいは一劫・百劫乃至 千万億劫に無量の苦を受くるあり。あるときにはもろもろの違縁に遇ひて、し P--828 ばしば残害せらる。これらのもろもろの苦、勝げて計ふべからず。愚痴・無慚 にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、この報を受く。[以上 諸文、経論に散在せり。] 【14】 第四に阿修羅道を明かさば、二あり。根本の勝れたるものは、須弥山の 北、巨海の底に住せり。支流の劣なるものは、四大洲のあひだの山巌のなかに あり。雲雷もし鳴れば、これ天の鼓と謂ひて怖畏周章して、心大きに戦悼す。 またつねに諸天のために侵害せられて、あるいは身体を破り、あるいはその命 を夭す。また日々三時に、苦具おのづから来りて逼害す。種々の憂苦、勝げて 説くべからず。 【15】 第五に人道を明かさば、略して三の相あり。つまびらかに観察すべし。 一には不浄の相、二には苦の相、三には無常の相なり。 【16】 一に不浄の相といふは、おほよそ人の身のなかに三百六十の骨ありて、 節々あひ柱へたり。いはく、指の骨は足の骨を柱へ、足の骨は踝の骨を柱へ、 踝の骨は&M037809;の骨を柱へ、&M037809;の骨は膝の骨を柱へ、膝の骨は&M029524;の骨を柱へ、&M029524; の骨は&M030006;の骨を柱へ、&M030006;の骨は腰の骨を柱へ、腰の骨は脊の骨を柱へ、脊の P--829 骨は勒の骨を柱へ、また脊の骨は項の骨を柱へ、項の骨は頷の骨を柱へ、頷 の骨は牙歯を柱へ、上に髑髏あり。また項の骨は肩の骨を柱へたり。肩の骨 は臂の骨を柱へたり。臂の骨は腕の骨を柱へたり。腕の骨は掌の骨を柱へた り。掌の骨は指の骨を柱へたり。かくのごとく展転して次第に鎖成せり。[『大 経』(大般涅槃経)の意。]「三百六十の骨の、聚まりて成ぜるところなり。朽ち 壊れたる舎のごとし。もろもろの節をもつて支え持ち、四の細脈をもつて周匝 して弥布せり。五百分の肉、なほ泥の塗れるがごとく、六の脈あひ繋ぎ、五百 の筋纏へり。七百の細脈、もつて編絡をなし、十六の粗き脈、鉤け帯りてあひ 連なれり。二の肉縄あり。長さ三尋半なり。うちにして纏ひ結せり。十六の 腸・胃、生熟臓を繞れり。二十五の気脈、なほ窓の隙のごとし。一百七の関、 あたかも破砕せる器のごとし。八万の毛孔、乱れたる草の覆へるがごとし。五 根・七竅は不浄にて盈満せり。七重の皮にて裹み、六味にて長養すること、な ほ祠火の、呑受して厭ふことなきがごとし。かくのごとき身は、一切臭穢にし て、自性&M016571;爛せり。たれかまさにここにおいて愛重し驕慢せん」と。[『宝積 経』九十六。]あるいはいはく、九百の臠、その上に覆ひ、九百の筋、そのあひ P--830 だに連なれり。三万六千の脈ありて、三升の血、なかにありて流注す。九十九 万の毛孔ありて、もろもろの汗つねに出づ。九十九重の皮、しかもその上を裹 めり。[以上、身中の骨肉等なり。]また腹のなかに五臓あり。葉々あひ覆ひて、靡 靡として下に向かへり。状、蓮華のごとし。孔竅は空疎にして、内外にあひ通 じ、おのおの九十重あり。肺臓は上にありて、その色白し。肝臓はその色青 し。心臓は中央にありて、その色赤し。脾臓はその色黄なり。腎臓は下にあり て、その色黒し。また六腑あり。いはく、大腸をば伝送の腑となす。また肺腑 たり。長さ三尋半、その色白し。胆をば清浄の腑となす。また肝腑たり。そ の色青し。小腸をば受盛の腑となす。また心腑たり。長さ十六尋、その色赤 し。胃をば五穀の腑となす。また脾の腑たり。三升の糞、なかにありて、その 色黄なり。膀胱をば津液の腑となす。また腎腑たり。一斗の尿、なかにあり て、その色黒し。三&M029890;をば中涜の腑となす。かくのごとき等の物、縦横に分布 せり。大小の二腸、赤白、色を交へたり。十八に周転せること、毒蛇の蟠れ るがごとし。[以上、腹中の腑臓なり。]また頂より趺に至るまで、髄より膚に至る まで、八万戸の虫あり。四の頭、四の口、九十九の尾ありて、形相一にあら P--831 ず。一々の戸にまた九万の細虫ありて、秋の毫よりも小さし。[『禅経』・『次第禅 門』等。]『宝積経』にのたまはく、「はじめて胎を出づる時に、七日を経て、 八万戸の虫、身より生じて、縦横に食&M004299;す。二戸の虫あり。名づけて舐髪とな す。髪の根によりて住して、つねにその髪を食す。二戸の虫を繞眼と名づく。 眼によりて住して、つねに眼を食す。四戸は脳によりて脳を食す。一戸を稲葉 と名づく。耳によりて耳を食す。一戸を蔵口と名づく。鼻によりて鼻を食す。 二戸を、一を遙擲と名づけ、二を遍擲と名づく。唇によりて唇を食す。一戸を ば針口と名づく。舌によりて舌を食す。五百の戸は左辺によりて左辺を食す。 右辺もまたしかなり。四戸は生臓を食し、二戸は熟臓を食す。四戸は小便の道 によりて、尿を食らひて住し、四戸は大便の道によりて、糞を食らひて住す。 乃至、一戸を黒頭と名づく。脚によりて脚を食す。かくのごとき八万、この 身に依止して、昼夜に食&M004299;して、身をして熱悩せしめて、心に憂愁あらしむ。 衆病現前するに良医としてよくために除療するあることなし」と。[第五十七 に出でたり。これを略抄す。]『僧伽&M003302;経』に説きてのたまはく、「人まさに死な んとする時には、もろもろの虫怖畏して、たがひにあひ&M004299;食するに、もろもろ P--832 の苦痛を受く。男女眷属、大悲悩をなす。もろもろの虫、あひ食す。ただ二の 虫ありて、七日のあひだ闘諍す。七日を過ぎをはりて、一の虫は命尽きて、一 の虫はなほ存ぜり」と。[以上、虫蛆。]たとひ上&M044390;の衆味を食すれども、宿を経 るあひだにみな不浄となりぬ。たとへば、糞穢の大小ともに臭きがごとく、こ の身もまたしかり。少より老に至るまで、ただこれ不浄なり。海水を傾けて洗 ふとも、浄潔ならしむべからず。外には端厳の相を施せりといへども、内には ただもろもろの不浄を裹めること、なほ画せる瓶に、しかも糞穢を盛れたるが ごとし。[『大論』(大智度論)・『止観』等の意を取る。]ゆゑに『禅経』の偈にのたま はく、   「身の臭くして不浄なることを知れども、愚者はなほ愛惜す。   外に好しき顔色を視て、内の不浄をば観ぜず」と。[以上、体の不浄を挙ぐ。] いはんやまた命終の後に、塚のあひだに捐捨てられて、一・二日、乃至七日 を経るに、その身&M029820;脹して、色青&M022292;に変ず。臭り爛れ、皮は穿げて、膿血流 れ出づ。&M047012;・鷲・鵄・梟・野干・狗等の種々の禽獣、〓掣して食&M004299;す。禽獣食 らひをはりて、不浄潰爛せり。無量種の虫蛆ありて、臭き処に雑はり出づ。 P--833 悪むべきこと、死にたる狗よりも過ぎたり。乃至、白骨となりをはれば、支節 分散して、手・足・髑髏おのおの異処にあり。風吹き、日曝し、雨灌ぎ、霜封 じて、積むこと歳年あれば、色相変異し、つひに腐朽砕末して、塵土とあひ和 しぬ。[以上、究竟不浄なり。『大般若』・『止観』等に見えたり。]まさに知るべし。こ の身は始終不浄なり。所愛の男女みなまたかくのごとし。いづれの有智のもの か、さらに楽着を生ぜんや。ゆゑに『止観』にいはく、「いまだこの相を見 ざるときは、愛染はなはだ強し。もしこれを見をはれば、欲心すべて罷む。は るかにしても忍び耐へざることは、糞を見ざればなほよく飯を&M004299;らへども、た ちまちに臭き気を聞ぎつれば、すなはち嘔吐するがごとし」と。またいはく (同)、「もしこの相を証しつれば、また高き眉、翠き眼、皓き歯、丹き唇なり といへども、一聚の屎に、粉をもつてその上を覆へるがごとし。また爛れたる 屍に、仮りて&M027888;綵を着せたらんがごとし。なほ眼にすら見ず、いはんやまさに 身に近づくべけんや。鹿杖を雇ひて自害すべし。いはんや&M016168;ひ抱きて婬楽せん をや。かくのごとき想は、これ婬欲の病の大黄湯なり」と。{以上} 【17】 二に苦といふは、この身は初生の時より、つねに苦悩を受く。『宝積 P--834 経』に説くがごとし。「もしは男、もしは女、たまたま生じて地に堕つるに、 あるいは手をもつて捧げ、あるいは衣をもつて承接し、あるいは冬夏の時に、 冷熱の風触るるに、大苦悩を受くること、牛を生剥ぎにして、墻壁に触れしむ るがごとし」と。{取意}長大の後にまた苦悩多し。同経に説かく、「この身を受 けて二種の苦あり。いはゆる眼・耳・鼻・舌・咽喉・牙歯・胸・腹・手・足に、 もろもろの病、生ずることあり。かくのごとき四百四病、その身に逼切するを、 名づけて内の苦となす。また外の苦あり。いはゆる、あるいは牢獄にありて、 &M012778;打楚撻せられ、あるいは耳・鼻を&M002249;られ、および手・足を削らる。もろもろ の悪鬼神、しかもその便りを得。また蚊・虻・蜂等の毒虫のために&M003780;食せらる。 寒熱・飢渇・風雨ならびに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す。この五陰の 身は、一々の威儀、行住坐臥、みな苦にあらずといふことなし。もし長時に 行きて、しばらくも休息せざれば、これを名づけて外苦となす。住および坐・ 臥またみな苦なり」と。{略抄}諸余の苦相は眼の前に見つべし。説くことを俟つ べからず。 【18】 三に無常といふは、『涅槃経』にのたまはく、「人の命は停まらざるこ P--835 と、山の水よりも過ぎたり。今日は存ぜりといへども、明くればまた保ちがた し。いかんぞ心をほしいままにして、悪法に住せしめんや」と。『出曜経』 にのたまはく、   「この日すでに過ぐれば、命すなはち減少す。   少水の魚のごとし。これなんの楽しみかあらん」と。 『摩耶経』の偈にのたまはく、   「たとへば旃陀羅の、牛を駆りて屠所に至るに、   歩々に死の地に近づくがごとく、人の命もまたかくのごとし」と。{以上} たとひ長寿の業ありといへども、つひに無常を免れず。たとひ富貴の報を感ぜ りといへども、かならず衰患の期あり。『涅槃経』の偈にのたまふがごとし。   「一切のもろもろの世間に、生ぜるものはみな死に帰す。   寿命、無量なりといへども、かならず終尽することあり。   それ盛りなるはかならず衰することあり、合会するは別離あり。   壮年は久しく停まらず、盛りなる色は病に侵さる。   命は死のために呑まれ、法として常なるものあることなし」と。 P--836 また『罪業応報経』の偈にのたまはく、   「水渚はつねに満たず。火の盛りなれば久しく燃えず。   日は出でて須臾に没しぬ。月は満ちをはりてまた欠けぬ。   尊栄高貴なるものも、無常のすみやかなることこれに過ぎたり。   いままさにつとめて精進して、無上の尊を頂礼すべし」と。{以上} ただもろもろの凡下のみ、この怖畏あるにあらず。仙に登り、通を得たるもの、 またかくのごとし。『法句譬喩経』の偈にのたまふがごとし。   「空にもあらず海のなかにもあらず。山石のあひだに入るにもあらず。   地の方処として、脱止して死を受けざるはあることなし」と。[空に騰り、   海に入り、巌に隠るる三人の因縁、『経』(同)に広く説くがごとし。] まさに知るべし。諸余の苦患は、あるいは免るるものあるも、無常の一事はつ ひに避るる処なし。すべからく説のごとく修行して、常楽の果を欣求すべし。 『止観』にいふがごとし。「無常の殺鬼は豪賢をも択ばず。危脆にして堅から ず、恃怙すべきこと難し。いかんぞ安然として百歳を規望せん。四方に馳求し て、貯積聚斂すれども、聚斂いまだ足らざるに、溘然として長く往きぬれば、 P--837 あらゆる産貨はいたづらに他の有となりぬ。冥々として独り逝くに、たれか 是非を訪はんや。もし無常の、暴水・猛風・掣電よりも過ぎたることを覚らん も、山・海・空・市に、逃げ避くる処なし。かくのごとく観じをはりて、心大 きに怖畏して、眠りは席を安くせず、食は哺を甘くせず、頭燃を救はんがごと くして、もつて出要を求めよ」と。またいはく(止観)、「たとへば、野干の 耳・尾・牙を失ふまでは、詐り眠りして脱るることを望めども、たちまちに頭 を断ることを聞きては、心大きに驚怖するがごとし。生老病に遭ひては、な ほ急なりとなさざらんも、死の事は奢にせず。いかんぞ怖ぢざることを得ん。 怖心起る時に、湯火を履まんがごとし。五塵・六欲も貪染するに暇あらず」と。 {以上略抄}人道かくのごとし、実に厭離すべし。 【19】 第六に天道を明かさば、三あり。一には欲界、二には色界、三には無色 界なり。その相すでに広し。つぶさに述すべきこと難し。しばらく一処を挙げ て、もつてその余を例せん。かの&M010305;利天のごときは、快楽極まりなしといへど も、命終の時に臨みて五衰の相現ず。一は頭の上の華鬘たちまちに萎む。二 は天衣、塵垢に着せらる。三は腋の下より汗出づ。四は両の目しばしば&M023307;ぐ。 P--838 五は本居を楽はず。この相現ずる時に、天女・眷属みなことごとく遠離して、 これを棄つること草のごとし。林のあひだに偃臥して、悲泣して嘆きていはく、 「このもろもろの天女をば、われつねに憐愍しつ。いかんぞ一旦にわれを棄つ ること草のごとくする。われいま依なく怙なし。たれかわれを救ふものあらん。 善見宮城は、いまよりはまさに絶えなんとす。帝釈の宝座、朝謁するに由なし。 殊勝殿のなかには、永く瞻望を断つ。釈天の宝象には、いづれの日か同じく乗 らん。衆車苑のなかには、またよく見ることなからん。粗渋苑のうちには、介 冑長く辞しつ。雑林苑のなかには、宴会するに日なし。歓喜苑のなかには、遊 止するに期なし。劫波樹の下の白玉の軟石には、さらに坐する時なし。曼陀 枳尼の殊勝池の水には、沐浴せんに由なし。四種の甘露はたちまちに食するこ とを得がたく、五妙の音楽はにはかに聴聞を絶つ。悲しきかな、この身独りこ の苦に嬰れり。願はくは慈愍を垂れてわが寿命を救ひて、さらに少しき日を延 ばしめば、また楽しからざらんや。かの馬頭の山・沃焦の海に堕せしむること なかれ」と。この言をなすといへども、あへて救ふものなし。[『六波羅蜜経』。] まさに知るべし、この苦は地獄よりもはなはだし。ゆゑに『正法念経』の偈 P--839 にのたまはく、   「天上より退せんと欲する時には、心に大苦悩を生ず。   地獄のもろもろの苦毒は、十六にして一にも及ばず」と。{以上} また大徳の天すでに生れて後には、旧き天の眷属は、捨ててかれに従ふ。ある いは威徳の天ありて、心に順ぜざる時には、駆りて宮を出し、住することを得 ることあたはざらしむ。[『瑜伽』(瑜伽論)。]余の五の欲天ことごとくこの苦あ り。上二界(色界・無色界)のなかにはかくのごとき事なしといへども、つひに 退没の苦あり。乃至、非想も阿鼻をば免れず。まさに知るべし、天上また楽し むべからず。[以上、天道。] 【20】 第七に総じて厭相を結せば、いはく、一篋、ひとへに苦し。耽荒すべき にあらず。四の山合せ来らば、避れ遁るところなし。しかも、もろもろの衆生 は貪愛をもつてみづから蔽ひて、深く五欲に着せり。常にあらざるを常といひ、 楽にあらざるを楽といへり。かの、癰を洗ひ睫を置くがごとき、なほいかんぞ 厭はざらん。いはんやまた刀山・火湯、やうやくまさに至りなんとす。いづれ の有智のものか、この身を宝玩せんや。ゆゑに『正法念経』の偈にのたまは P--840 く、   「智者のつねに憂ひを懐くこと、なほ獄のなかに囚はれたるに似たり。   愚人のつねに歓楽すること、なほ光音天のごとし」と。 『宝積経』の偈にのたまはく、   「種々の悪業をもつて財物を求めて、妻子を養育して歓娯すと謂へども、   命終の時に臨みて、苦、身に逼り、妻子もよくあひ救ふものなし。   かの三途の怖畏のなかにおいては、妻子および親識を見ず。   車馬・財宝は他人に属しぬ。苦を受くるに、たれかよくともにして分つも   のあらん。   父母・兄弟および妻子、朋友・僮僕ならびに珍財も、   死して去りぬれば、一として来りあひ親しむものなし。ただ黒業のみあり   てつねに随逐せり。{乃至}   閻羅つねにかの罪人に告ぐ。〈少罪もわがよく加ふることあることなし。   なんぢみづから罪を作りて、いまみづから来れり。業報みづから招く、代   るものなし。 P--841   父母・妻子もよく救ふことなし。ただまさに出離の因を勤修すべし〉と。   このゆゑに枷鎖の業を捨てて、よく遠離を知りて安楽を求むべし」と。 また『大集経』の偈にのたまはく、   「妻子・珍宝および王位も、命終の時に臨みては、随はざるものなり。   ただ戒とおよび施と不放逸と、今世・後世に伴侶となる」と。 かくのごとく展転して、悪を作りて苦を受け、いたづらに生じいたづらに死し て、輪転際なし。『経』(雑阿含経)の偈にのたまふがごとし。   「一人一劫のなかに受けたるところのもろもろの身骨を、   つねに積みて腐敗せずは、毘布羅山のごとし」と。 一劫すらなほしかなり。いはんや無量劫をや。われらいまだかつて道を修せざ るがゆゑに、いたづらに無辺劫を歴たり。いまもし勤修せずは、未来もまたし かるべし。かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。 たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。たとひ諸根を 具すれども、仏教に遇ふことまた難し。たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすこ とまた難し。ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「人趣に生るる P--842 ものは爪の上の土のごとし。三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。『法 華経』の偈にのたまはく、   「無量無数劫にも、この法を聞くことまた難し。   よくこの法を聴くもの、この人また難し」と。 しかるをいま、たまたまこれらの縁を具せり。まさに知るべし、苦海を離れて 浄土に往生すべきこと、ただ今生にのみあり。しかるをわれら、頭に霜雪を戴 きて、心は俗塵に染めり。一生は尽きぬといへども、&M010661;望は尽きず。つひに白 日の下を辞して、独り黄泉の底に入る時、多百踰繕那の洞然たる猛火のなか に堕ちて、天に呼ばはり地を扣くといへども、さらになんの益かあらんや。願 はくはもろもろの行者、疾く厭離の心を生じて、すみやかに出要の路に随ふべ し。宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。  問ふ、なんらの相をもつてか厭心をなすべき。答ふ、もし広く観ぜんと欲は ば、前の所説のごとし。六道の因果、不浄・苦等なり。あるいはまた龍樹菩薩 の、禅陀迦王を勧発する偈(龍樹為王説法要偈)にいはく、   「この身は、不浄、九の孔より流れて、窮まり已むことあることなきこと、 P--843   河海のごとし。   薄き皮、覆ひ蔽して清浄なるに似たれども、瓔珞を仮りてみづから荘厳   せるがごとし。   もろもろの有智の人はすなはち分別して、その虚誑なるを知りてすなはち   棄捨す。   たとへば疥者の、猛焔に近づきて、初めはしばらく悦ぶといへども、後に   は苦を増すがごとし。   貪欲の想もまたしかなり。始め楽着すといへども、つひには患ひ多し。   身の実相はみな不浄なりと見る。すなはちこれ空・無我を観ずるなり。   もしよくこの観を修習するものは、利益のなかにおいてもつとも無上なり。   色・族および多聞ありといへども、もし戒・智なければ禽獣のごとし。   醜賤に処し、聞見少なしといへども、よく戒・智を修するを勝上と名づ   く。   利衰の八法、よく免るることなし。もし除断することあるは、まことに匹   なし。 P--844   もろもろの沙門・婆羅門・父母・妻子および眷属の、   かの意のためにその言を受けて、広く不善・非法の行を造ることなかれ。   たとひこれらがためにもろもろの過を起せども、未来の大苦はただ身に受   く。   それ衆悪を造れども、ただちに報いず。刀剣のこもごも傷割するがごとく   にはあらず。   終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの   苦に嬰る。   信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく。   真実にして無比の牟尼の説なり。世間のもろもろの珍宝に超越せり。   足ることを知りぬれば、貧しといへども富めりと名づくべし。財あれども   欲多きは、これを貧と名づく。   もし財業に豊かなれば、もろもろの苦を増すこと、竜の首多きは酸毒を益   すがごとし。   まさに観ずべし、美き味はひは毒薬のごとし。智慧の水をもつて灑ぎて浄 P--845   からしめよ。   この身を存ぜんがために食すべしといへども、色味を貪じて驕慢を長ずる   ことなかれ。   もろもろの欲染においてまさに厭ふことをなして、つとめて無上涅槃の道   を求むべし。   この身を調和して安穏ならしめて、しかして後によろしく斎戒を修すべし。   一夜を分別するに五時あり。二時のなかにまさに眠息すべし。   初・中・後夜には生死を観じて、よろしくつとめて度を求めて空しく過ぐ   すことなかれ。   たとへば少塩を恒河に置けるに、水をして鹹味あらしむることあたはざる   がごとく、   微細の悪は衆善に遇ひぬれば、消滅散壊すること、またかくのごとし。   梵天の離欲の娯しみを受くといへども、還りて無間の熾然の苦に墜つ。   天宮に居して光明を具せりといへども、後には地獄の黒闇のなかに入る。   いはゆる黒縄・活地獄の、焼・割・剥・刺および無間なり。 P--846   この八の地獄はつねに熾然なり。みなこれ衆生の悪業の報なり。   もし図画を見、他の言を聞き、あるいは経書に随ひてみづから憶念し、か   くのごとくして知る時にすらもつて忍びがたし。いはんやまたおのが身に   みづから経歴せんをや。   もしまた人ありて一日のうちに、三百の矛をもつてその体を鑚さんも、   阿鼻獄の一念の苦に比ぶるに、百千万分にして一にも及ばず。   畜生のなかにおいても、苦は無量なり。あるいは繋縛および鞭撻せらるる   ことあり。   あるいは明珠・羽・角・牙、骨・毛皮・肉のために残害せらるることを致   す。   餓鬼道のなかの苦もまたしかなり。もろもろの所須の欲意に随はず。   飢渇に逼せられて寒熱に困しむ。疲乏等の苦、はなはだ無量なり。   屎尿糞穢のもろもろの不浄すら、百千万劫によく得ることなし。   たとひまた推し求めて少分を得れども、さらにあひ劫奪して、尋いで散失   しぬ。 P--847   清冷の秋の月にも焔熱を患へ、温和の春の日にもうたた寒苦す。   もし園林に趣けば、衆菓尽き、たとひ清流に至れども変じて枯竭しぬ。   罪業の縁のゆゑに、寿、長遠にして、経ること一万五千歳あり。   もろもろの楚毒を受くるに空しく欠くることなし。みなこれ餓鬼の果報な   り。   煩悩の&M044625;き河、衆生を漂はし、深き怖畏、熾然の苦となる。   かくのごときもろもろの塵労を滅せんと欲はば、真実の解脱の諦を修すべ   し。   もろもろの世間の仮名の法を離れて、すなはち清浄の不動の処を得よ」   と。[以上、百十行の偈あり。いま略してこれを抄す。] もし略を存ぜば、馬鳴菩薩の、頼&M003302;和羅の伎声に唱へていふがごとし。   「有為の諸法は、幻のごとく化のごとし。   三界の獄縛は、一としても楽しむべきことなし。   王位高顕にして、勢力自在なれども、   無常すでに至りぬれば、たれか存ずることを得るものあらん。 P--848   空中の雲の、須臾に散滅するがごとし。   この身は虚偽なること、なほ芭蕉のごとし。   怨たり賊たり、親近すべからず。   毒蛇の篋のごとし。たれかまさに愛楽すべき。   このゆゑに諸仏、つねにこの身を呵したまふ」(付法蔵因縁伝)と。{以上} このなかにつぶさに無常・苦・空を演ぶ。聞くもの道を悟る。あるいはまた堅 牢比丘の壁の上の偈(宝積経)にのたまはく、   「生死の断絶せざるは、貪欲嗜味なるがゆゑなり。   怨を養ひて丘塚に入りて、虚しくもろもろの辛苦を受く。   身の臭きこと死屍のごとし。九の孔より不浄を流す。   廁の虫の、糞を楽しむがごとく、愚にして身を貪ずるも異なることなし。   憶想して妄りに分別する、すなはちこれ五欲の本なり。   智者は分別せざれば、五欲すなはち断滅す。   邪念より貪着を生じ、貪着より煩悩を生ず。   正念にして貪欲なければ、余の煩悩また尽きぬ」と。{以上} P--849 過去の弥楼&M020078;駄仏の滅後に、正法滅せし時に、陀摩尸利菩薩、この偈を求め得 て仏法を弘宣し、無量の衆生を利益せり。あるいはまた『仁王経』に四非常の 偈あり。見つべし。もし極略を楽はば、『金剛経』にのたまふがごとし。   「一切有為の法は、夢と幻と泡と影とのごとし。   露のごとくまた電のごとし。かくのごとき観をなすべし」と。 あるいはまた『大経』(大般涅槃経)の偈にのたまはく、   「諸行は無常なり。これ生滅の法なり。   生滅滅しをはりて、寂滅なるを楽となす」と。{以上} 祇園寺の無常堂の四の隅に、頗梨の鐘あり。鐘の音のなかにまたこの偈を説く。 病僧音を聞きて、苦悩すなはち除こりて、清涼の楽を得ること、三禅に入り 浄土に生れなんとするがごとし。いはんやまた、雪山の大士、全身を捨ててこ の偈を得たり。行者よく思念して、これを忽爾にすることを得ざれ。説のごと く観察して、まさに貪・瞋・痴等の惑業を離るること、獅子の、人を追ふがご とくにすべし。外道の無益の苦行をなして、痴ななる狗の、塊を追ふがごとく すべからず。 P--850  問ふ。不浄・苦・無常、その義了りやすし。現に法体あるをば見るに、なん ぞ説きて空となす。答ふ。あに『経』(金剛経)に説かずや、「夢・幻・化の ごとし」と。ゆゑに夢の境に例して、まさに空の義を観ずべし。『西域の記』 (大唐西域記)にいふがごとし。「婆羅&M022129;斯国の施鹿林の東、行くこと二三里に して、涸れたる池あり。昔、一の隠士ありて、この池の側にして廬を結び迹を 屏てて、博く伎術を習ひ、神理を究極して、よく瓦礫をして宝となし、人畜 をして形を易へしむ。ただしいまだ風雲に馭りて仙駕に陪することあたはず。 図を閲き、古を考へて、さらに仙術を求む。その方にいはく、一の烈士に命じ て、長き刀を執りて壇の隅に立ち、息を屏て言を絶ちて、昏より旦に逮ばしむ。 仙を求むるものは中壇に坐し、手に長き刀を接り、口に神呪を誦し、視を収め 聴を反じて、遅明に仙に登ると。つひに仙の方によりて一の烈士を求めて、し ばしば重貽を加へ、潜かに陰徳を行じき。隠士のいはく、〈願はくは、一夕、 声せざらんのみ〉と。烈士のいはく、〈死すらなほ辞せじ。あにいたづらに息 を屏てんをや〉と。ここにおいて壇場を設け、仙の法を受け、方によりて行事 して、坐して日の&M014224;るるを待つ。&M014224;暮の後におのおのその務を司どる。隠士は P--851 神呪を誦し、烈士は銛刀を按ぜり。ほとほとまさに暁けなんとするに、たちま ちに声を発して叫ぶ。時に隠士問ひていはく、〈子に声することなかれと誡め つ。なにをもつてか驚き叫ぶ〉と。烈士のいはく、〈命を受けて後、夜分に至 るに、&M010812;然として夢のごとくして、変異さらに起れり。見れば、昔、事へし主、 みづから来りて慰謝す。厚恩を荷へることを感じて、忍びて報語せず。かの人 震怒して、つひに殺害せられぬ。中陰の身を受けて、屍を顧みて嘆惜す。なほ 願はくは、世を歴とも言はずしてもつて厚徳を報ぜんと。つひに見れば、南印 度の大婆羅門の家に託生す。乃至、胎を受け胎を出づるに、つぶさに苦厄を経 れども、恩を荷ひ徳を荷ひてかつて声を出さず。業を受け、冠婚し、親を喪ひ、 子をなすに&M017369;ぶまで、つねに前の恩を念ひて忍びて語らず。宗親戚属ことごと く見て怪異す。年六十有五に過ぎて、わが妻謂りていはく、《なんぢ、言ふべ し。もし語らずは、まさになんぢが子を殺すべし》と。われ時に惟念すらく、 《すでに生世を隔つ。みづから顧みるに、衰老して、ただこの稚子のみありと。 よりてその妻を止めて、殺害することなからしめん》と。つひにこの声を発せ るのみ〉と。隠士のいはく、〈わが過なり。これ魔の&M006734;ませるのみ〉と。烈士、 P--852 恩を感じて、事のならざるを悲しみて、憤恚して死せり」と。{以上略抄}夢の境、 かくのごとし。諸法もまたしかなり。妄想の夢、いまだ覚めざれば、空におい て、いひて有となす。ゆゑに『唯識論』(意)にいはく、「いまだ真の覚を得ざ るときは、つねに夢のなかに処せり。ゆゑに仏説きて、生死の長夜となしたま ふ」と。  問ふ。もし無常・苦・空等の観をなさば、あに小乗の自調・自度に異なら んや。答ふ。この観は小に局らず。また通じて大乗にもあり。『法華』にのた まふがごとし。   「大慈悲を室となす。柔和忍辱は衣なり。   諸法の空を座となす。ここに処してために法を説け」と。{以上} 諸法の空の観、なほ大慈悲心を妨げず、いかにいはんや苦・無常等は菩薩の悲 願を催すをや。このゆゑに『大般若』等の経に、不浄等の観をもつてまた菩薩 の法となす。もし知らんと欲はば、さらに経の文を読め。  問ふ。かくのごとき観念は、なんの利益かある。答ふ。もしつねにかくのご とく心を調伏すれば、五欲微薄にして、乃至、臨終には正念にして乱れず、悪 P--853 処に堕ちざるなり。『大荘厳論』の勧進繋念の偈にいふがごとし。   「盛年にして患ひなき時には、懈怠にして精進せず。   もろもろの事務を貪営して、施と戒と禅とを修せず。   死のために呑まるるに臨みて、まさに悔いて善を修することを求む。   智者は観察して、五欲の想を断除すべし。   精勤習心のものは、終時に悔恨なし。   心意すでに専至なれば、錯乱の念あることなし。   智者はつとめて心を捉れば、終りに臨みて意散ぜず。   習心専至ならざれば、終りに臨みてかならず散乱す」と。{以上} また『宝積経』の五十七の偈にのたまはく、   「この身を観ずべし。筋脈たがひに纏繞せり。   湿へる皮あひ裹み覆ひて、九の処に瘡門あり。   周遍してつねに屎尿のもろもろの不浄を流溢せり。   たとへば舎と&M026255;とに、もろもろの穀麦等を盛れるがごとく、   この身もまたかくのごとし。雑穢そのなかに満てり。 P--854   骨の機関を運動するに、危脆にして堅実にあらず。   愚夫はつねに愛楽すれども、智者は染着することなし。   洟・唾・汗つねに流れ、膿血つねに充満せり。   黄なる脂は乳汁に雑はり、脳は髑髏のなかに満つ。   胸鬲には痰&M022480;流れ、うちに生熟臓あり。   肪膏と皮膜と、五臓のもろもろの腹胃とあり。   かくのごとき臭爛等の、もろもろの不浄と同じく居せり。   罪の身は深く畏づべし。これはすなはちこれ怨家なり。   無識耽欲の人は、愚痴にしてつねに保ちて護れども、   かくのごとき臭穢の身は、なほ朽ちたる城廓のごとし。   日夜に煩悩に逼められて、遷流してしばらくも停まることなし。   身の城、骨の墻壁、血肉をもつて塗泥となし、   画彩の貪・瞋・痴、処に随ひて枉飾せり。   悪むべし骨身の城、血肉あひ連合し、   つねに悪知識に内外の苦をもつてあひ煎ぜらる。 P--855   難陀、なんぢまさに知るべし。わが所説のごとく、   昼夜つねに繋念して、欲境を思ふことなかれ。   もし遠離せんと欲はば、つねにかくのごとき観をなし、   解脱の処を勤求せば、すみやかに生死の海を超えん」と。{以上} 諸余の利益は『大論』(大智度論)・『止観』等を見るべし。 【21】 大文第二に、欣求浄土といふは、極楽の依正は功徳無量なり。百劫・千 劫に説くとも尽すことあたはじ。算分・喩分もまた知るところにあらず。しか も『群疑論』には三十種の益を明かし、『安国の抄』には二十四の楽を&M012651;せり。 すでに知りぬ。称揚はただ人の心にあり。いま十の楽を挙げて浄土を讃ずるこ と、なほ一毛をもつて大海を&M017772;らすがごとし。一には聖衆来迎の楽、二には蓮 華初開の楽、三には身相神通の楽、四には五妙境界の楽、五には快楽無退の 楽、六には引接結縁の楽、七には聖衆倶会の楽、八には見仏聞法の楽、九には 随心供仏の楽、十には増進仏道の楽なり。 【22】 第一に聖衆来迎の楽といふは、おほよそ悪業の人は、命尽くる時に、 風・火先づ去る。ゆゑに動熱して苦多し。善行の人は、命尽くる時に、地・水 P--856 先づ去る。ゆゑに緩慢として苦なし。いかにいはんや念仏の功積り、運心年深 きものは、命終の時に臨みて大喜おのづから生ず。しかる所以は、弥陀如来、 本願をもつてのゆゑに、もろもろの菩薩、百千の比丘衆と、大光明を放ちて、 皓然として目の前にまします。時に大悲観世音、百福荘厳の手を申べ、宝の 蓮台を&M012808;げて行者の前に至りたまひ、大勢至菩薩、無量の聖衆と、同時に讃嘆 して手を授けて引接したまふ。この時に行者、まのあたりみづからこれを見て、 心中に歓喜し、身心安楽なること禅定に入るがごとし。まさに知るべし、草菴 に瞑目のあひだはすなはちこれ蓮台結跏の程なり。すなはち弥陀仏の後に従ひ、 菩薩衆のなかにありて、一念のあひだに、西方の極楽世界に生ずることを得。 [『観経』・『平等覚経』、ならびに伝記等の意による。]かの&M010305;利天上の億千歳の楽も、 大梵王宮の深禅定の楽も、これらのもろもろの楽は、いまだ楽となすに足らず。 輪転無際にして三途を免れず。しかもいま、観音の掌に処し、宝の蓮華胎に 託して、永く苦海を越過してはじめて浄土に往生しぬ。その時の歓喜の心、言 をもつて宣ぶべからず。龍樹の偈(易行品)にいはく、   「もし人、命終の時に、かの国に生るることを得るものは、 P--857   すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる」と。 【23】 第二に蓮華初開の楽といふは、行者かの国に生じをはりて、蓮華はじめ て開くる時に、あらゆる歓楽、前に倍せること百千なり。なほ盲者の、はじめ て明眼を得たるがごとし。また辺鄙のたみの、たちまちに王宮に入れるがごと し。みづからその身を見れば、身はすでに紫磨金色の体となり、また自然の宝 衣ありて、鐶・釧・宝冠、荘厳無量なり。仏の光明を見て清浄の眼を得、前 の宿習によりてもろもろの法音を聞く。色に触れ声に触れて、奇妙ならずと いふことなし。尽虚空界の荘厳は、眼、雲路に迷ひ、転妙法輪の音声は、聴き、 宝刹に満てり。楼殿・林池は表裏照曜し、鳧・雁・鴛鴦は遠近に群がり飛ぶ。 あるいは衆生の、&M044625;き雨のごとくして十方世界より生ずるを見、あるいは聖衆 の、恒沙のごとくして無数の仏土より来るを見る。あるいは楼台に登りて十方 を望むものあり。あるいは宮殿に乗りて虚空に住するものあり。あるいは空中 に住して経を誦し法を説くものあり。あるいは空中に住して坐禅入定するも のあり。地の上、林のあひだにも、またかくのごとし。処々にまた河を渉り流 に濯ぎ、楽を奏し華を散じ、楼殿に往来して、如来を礼讃したてまつるものあ P--858 り。かくのごとき無量の天・人聖衆、心に随ひて遊戯す。いはんや化仏・菩薩、 香雲・華雲、国界に充満して、つぶさに名づくべからず。またやうやく眸を回 らしてはるかにもつて瞻望すれば、弥陀如来は金山王のごとくして宝蓮華の上 に坐し、宝池の中央に処したまへり。観音・勢至は威儀尊重にして、また宝華 に坐し、仏の左右に侍らひたまふ。無量の聖衆、恭敬し囲繞せり。また宝地の 上に宝樹行列し、宝樹の下におのおの一仏二菩薩ましまして、光明をもつて厳 飾し、流璃の地に遍したまへること、夜闇のなかに大きなる炬火を燃せるがご とし。時に観音・勢至、行者の前に来至して、大悲の音を出して種々に慰喩し たまふ。行者、蓮台より下りて五体を地に投げて、頭面をもつて敬礼す。すな はち菩薩に従ひて、やうやく仏の所に至りぬ。七宝の階に跪きて万徳の尊容を 瞻り、一実の道を聞きて普賢の願海に入る。歓喜して涙を雨らし、渇仰して骨 に徹る。はじめて仏界に入りて未曾有なることを得つ。行者、昔、娑婆にして わづかに教文を読みしも、いままさしくこの事を見る。歓喜の心いくばくぞや。 [多く『観経』等の意による。]龍樹の偈(易行品)にいはく、   「もし人、善根を種ゑたるに、疑へばすなはち華開けず。 P--859   信心清浄なるものは、華開けてすなはち仏を見たてまつる」と。 【24】 第三に身相神通の楽といふは、かの土の衆生はその身真金の色なり。内 外ともに清浄にして、つねに光明ありて彼此たがひに照らす。三十二相具足 して荘厳せり。端正殊妙にして世間に比なし。もろもろの声聞衆は、身光一 尋なり。菩薩の光明は百由旬を照らす。あるいは十万由旬といふ。第六の天の 主をもつてかの土の衆生に比ぶるに、なほ乞丐の、帝王の辺にあらんがごとし。 またかのもろもろの衆生は、みな五神通を具して、妙用測りがたくして、心に 随ひて自在なり。もし十方界の色を見んと欲へば、歩みを運ばずしてすなはち 見、十方界の声を聞かんと欲へば、座を起たずしてすなはち聞く。無量の宿命 の事は今日聞くところのごとく、六道衆生の心はあきらかなる鏡に像を見ると ころのごとし。無央数の仏刹に只尺のごとく往来し、おほよそ横に百千万億那 由他の国において、竪に百千万億那由他の劫において、一念のうちに自在無礙 なり。いまこの界の衆生は、三十二相において、たれか一相をも得たる、五神 通においてたれか一通をも得たる。灯・日にあらずはもつて照らすことなく、 行歩にあらずはもつて至ることなし。一紙なりといへどもそのほかを見ず。一 P--860 念なりといへどもその後を知らず。&M019421;籠いまだ出でずして、事に随ひて礙あり。 しかるをかの土の衆生は、一人もこの徳を具せずといふことあることなし。百 大劫のうちにおいて相好の業をも種ゑず。四静慮のうちにおいて神通の因をも 修せざれども、ただこれかの土の任運生得の果報なり。また楽しからざらんや。 [多く『双巻経』(大経)・『平等覚経』等による。]龍樹の偈(易行品)にいはく、   「人天の身相同じくして、なほ金山の頂のごとし。   諸勝の所帰の処なり。このゆゑに頭面をもつて礼す。   それかの国に生るることあるは、天眼耳通を具して、   十方ならびに無礙なり。聖中の尊を稽首したてまつる。   その国のもろもろの衆生は、神変および心の通あり。   また宿命智を具せり。このゆゑに帰命し礼したてまつる」と。 【25】 第四に五妙境界の楽といふは、四十八の願をもつて浄土を荘厳したま へば、一切の万物、美を窮め極妙なり。見るところはことごとくこれ浄妙の 色にして、聞くところは解脱の声にあらずといふことなし。香・味・触の境、 またかくのごとし。いはく、かの世界は琉璃をもつて地となして、金縄その道 P--861 を界へり。坦然平正にして高下あることなく、恢廓曠蕩にして辺際あること なし。晃耀微妙にして奇麗清浄なり。もろもろの妙衣をもつてあまねくその 地に布き、一切の天・人、これを践みて行く。[以上、地相。]衆宝の国土の一々 の界の上に、五百億の七宝所成の宮殿・楼閣あり。高下、心に随ひ、広狭、念 に応ず。もろもろの宝の床座には妙衣をもつて上に敷き、七重の欄楯、百億の 華幢ありて、珠の瓔珞を垂れ、宝の幡蓋を懸けたり。殿のうち、楼の上には、 もろもろの天人ありて、つねに伎楽をなして、如来を歌詠したてまつる。[以上、 宮殿。]講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外左右にもろもろの浴池あり。黄金の池の 底には白銀の沙あり。白銀の池の底には黄金の沙あり。水精の池の底には瑠璃 の沙あり。瑠璃の池の底には水精の沙あり。珊瑚・虎魄・車&M021123;・馬瑙・白玉・ 紫金、またかくのごとし。八功徳の水、そのなかに充満し、宝沙映徹して、深 く照らさずといふことなし。[「八功徳」とは、一には澄浄、二には清冷、三には甘 美、四には軽軟、五には潤沢、六には安和、七には飲時に飢渇等無量の過患を除き、八に は飲みをはりて、さだめてよく諸根・四大を長養し、種々の殊勝の善根を増益するなり。 『称讃浄土経』に出づ。]四辺の階道は衆宝をもつて合成し、種々の宝華は池の P--862 なかに弥覆せり。青蓮には青光あり。黄蓮には黄光あり。赤蓮・白蓮もおのお のその光あり。微風吹き来りて、華の光乱転す。一々の華のなかにおのおの菩 薩あり。一々の光のなかにもろもろの化仏まします。微瀾、回流してうたたあ ひ灌ぎ注ぐ。安詳としてやうやく逝きて、遅からず疾からず。その声微妙にし て仏法にあらずといふことなし。あるいは苦・空・無我、もろもろの波羅蜜を 演説し、あるいは十力・無畏・不共の法音を流出す。あるいは大慈悲の声、あ るいは無生忍の声あり。その所聞に随ひて歓喜すること無量なり。清浄・寂 滅・真実の義に随順し、菩薩・声聞所行の道に随順せり。また、鳧・雁・鴛 鴦・&M047094;・鷺・鵝・鶴・孔雀・鸚鵡・伽陵頻迦等の百宝色の鳥、昼夜六時に和雅 の音を出して、念仏・念法・念比丘僧を讃嘆し、五根・五力・七菩提分を演暢 す。三塗苦難の名あることなくして、ただ自然快楽の音のみあり。かのもろも ろの菩薩および声聞衆、宝池に入りて洗浴する時は、浅深、念に随ひ、その心 に違はず。心垢を蕩除して、清明澄潔なり。洗浴しをはれば、おのおのみづ から去りて、あるいは空中にあり、あるいは樹下にありて、経を講じ経を誦す るものあり、経を受け経を聴くものあり、坐禅するものあり、経行するもの P--863 あり。そのなかに、いまだ須陀&M017421;を得ざるものはすなはち須陀&M017421;を得、乃至、 いまだ阿羅漢を得ざるものは阿羅漢を得、いまだ阿惟越致を得ざるものはすな はち阿惟越致を得。みなことごとく道を得て歓喜せずといふことなし。また清 き河あり。底に金沙を布き、浅深寒温、つぶさに人の好みに従へり。衆人、遊 覧して、同じく河浜に萃まる。[以上、水相。]池の畔、河の岸に、栴檀の樹あり。 行々あひ当り、葉々あひ次げり。紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の華、車&M021123;の実あ り。一宝・七宝、あるいは純、あるいは雑の、枝・葉・華・菓、荘厳し映飾せ り。和らかなる風、時に来りてもろもろの宝樹を吹くに、羅網微し動じて妙華 やうやく落つ。風に随ひて馥を散じ、水に雑はりて芬りを流す。いはんや微妙 の音を出して宮商あひ和せること、たとへば百千種の楽を同時にともになす がごとし。聞くもの、自然に仏法僧を念ず。かの第六天の万種の音楽も、この 樹の一種の音声にはしかず。葉のあひだに華を生じ、華の上に菓あり。みな光 明を放ちて、化して宝蓋となる。一切の仏事、蓋のなかに映現す。乃至、十方 の厳浄の仏土を見んと欲へば、宝樹のあひだにおいて、みなことごとく照見す。 樹の上に七重の宝網あり。宝網のあひだに五百億の妙華の宮殿あり。宮殿のな P--864 かに諸天の童子あり。瓔珞光耀して自在に遊楽す。かくのごとく七宝のもろも ろの樹、世界に周遍せり。名華・軟草また処に随ひてあり、柔軟・香潔にして、 触るるもの楽をなす。[以上、樹相。]衆宝の羅網、虚空に弥満して、もろもろの 宝鈴を懸けて、妙法の音を宣ぶ。天華妙色は繽粉として乱れ墜ち、宝衣・厳具 は旋転して来下す。鳥の、空を飛びて下るがごとくして、諸仏に供散したてま つる。また無量の楽器ありて虚空に懸処せり。鼓たざるにおのづから鳴りて、 みな妙法を説く。[以上、虚空。]また如意の妙香・塗香・末香、無量の香、芬馥 として、世界に遍満せり。もし聞ぐことあるものは、塵労垢習、自然に起らず。 おほよそ地より空に至るまで、宮殿・華樹、一切の万物は、みな無量の雑宝、 百千種の香をもつて、ともに合成せり。その香り、あまねく十方世界に薫ず。 菩薩、聞ぐものみな仏の行を修す。またかの国の菩薩・羅漢、もろもろの衆生 等、もし食せんと欲する時には、七宝の机、自然に現前し、七宝の鉢には妙な る味はひ、なかに満てり。世間の味はひに類せず、また天上の味はひにあらず。 香味なること比なくして、甜酢、意に随ふ。色を見、香りを聞ぐに、身心清潔 なり。すなはち食しをはるに同じくして、色力増長す。事已れば化し去り、時 P--865 至ればまた現ず。またかの土の衆生は、衣服を得んと欲へば、念に随ひてすな はち至る。仏の所讃のごとき法に応ぜる妙服、自然に身にあり。裁縫・染治・ 浣濯を求めず。また光明周遍して日・月・灯燭を用ゐず。冷暖調和して、 春秋冬夏あることなし。自然の徳風は温冷調適し、衆生の身に触るるに、 みな快楽を得ること、たとへば比丘の、滅尽三昧を得たるがごとし。毎日の晨 朝に、妙華を吹散して、仏土に遍満し、馨香芬烈して、微妙柔軟なること兜 羅綿のごとし。足をもつてその上を履むに、蹈み下ること四寸、随ひて足を挙 げをはりぬれば、また復すること故のごとし。晨朝を過ぎをはれば、その華地 に没す。旧き華すでに没しぬれば、さらに新しき華を雨らす。中時・&M013952;時、 初・中・後夜、またかくのごとし。これらのあらゆる微妙の五境、見聞覚者を して身心適悦せしむといへども、しかも有情の貪着を増長せず、さらに無量の 殊勝の功徳を増す。おほよそ八方上下の無央数の諸仏の国のなかに、極楽世界 の所有の功徳もつとも第一たり。二百一十億の諸仏の浄土の厳浄なる妙事をも つて、みなこのなかに摂在せり。もしかくのごとき国土の相を観ずるものは、 無量億劫の極重の悪業を除きて、命終の後にかならずかの国に生る。[二種の P--866 『観経』・『阿弥陀経』・『称讃浄土経』・『宝積経』・『平等覚経』・『思惟経』等の意によ りて、これを記す。]世親の偈(浄土論)にいはく、   「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。   究竟して虚空のごとし。広大にして辺際なし。   宝華千万種にして、池・流・泉に弥覆せり。   微風華葉を動かすに、交錯して光乱転す。   宮殿・もろもろの楼閣にして、十方を観ること無礙なり。   雑樹に異の光色あり。宝欄あまねく囲繞せり。   無量の宝交絡して、羅網虚空にあまねし。   種々の鈴響きを発して、妙法の音を宣べ吐く。   衆生の願楽するところ、一切みな満足す。   ゆゑにわれかの阿弥陀仏の国に生れんと願ず」と。 【26】 第五に快楽無退の楽といふは、いまこの娑婆世界は耽玩すべきことなし。 輪王(転輪王)の位も七宝久しからず。天上の楽も五衰早く来る。乃至、有頂も 輪廻、期なし。いはんや余の世人をや。事と願と違ひ、楽と苦とともなり。富 P--867 めるものは、いまだかならずしも寿あらず。寿あるものは、いまだかならずし も富まず。あるいは昨は富みて、今は貧し。あるいは朝には生れて、暮には死 ぬ。ゆゑに経にのたまはく、「出息は入息を待たず、入息は出息を待たず。た だ眼の前に楽しみ去りて哀しみ来るのみにあらず。また命終に臨みて、罪に 随ひて苦に堕つ」と。かの西方世界は、楽を受くること無窮なり。人天交接 して、両ながらあひ見ることを得。慈悲、心に薫じて、たがひに一子のごとし。 ともに琉璃の地の上を経行し、同じく栴檀の林のあひだに遊戯す。宮殿より 宮殿に至り、林池より林池に至る。もし寂ならんと欲する時には、風浪、絃管、 おのづから耳の下を隔つ。もし見んと欲する時には、山・川・渓・谷、なほ眼 の前に現ず。香・味・触・法、念に随ひてまたしかなり。あるいは飛梯を渡り て伎楽をなし、あるいは虚空に騰りて神通を現ず。あるいは他方の大士に従ひ て迎送し、あるいは天・人聖衆に伴ひてもつて遊覧す。あるいは宝池の辺に至 りて、新生の人を慰問す。「なんぢ知るやいなや。この処を極楽世界と名づけ、 この界の主を弥陀仏と号したてまつる。いままさに帰依すべし」と。あるいは 同じく宝池のなかにありて、おのおの蓮台の上に坐して、たがひに宿命の事 P--868 を説く。「われ本、その国にありて、心を発し道を求めし時、その経典を持ち、 その戒行を護り、その善法をなし、その布施を修しき」と。おのおの好喜せし ところの功徳を語らひ、つぶさに来生せるところの本末を陳ぶ。あるいはとも に十方の諸仏の利生の方便を語らひ、あるいはともに三有の衆生の抜苦の因縁 を議す。議しをはれば縁を追ひてあひ去り、語らひをはれば楽に随ひてともに 往く。あるいはまた、七宝の山[七宝の山、七宝の塔、七宝の坊、『十往生経』に出 でたり。]に登り、八功の池に浴み、寂然として宴黙し、読誦・解説す。かくの ごとく遊楽すること、相続して間なし。処はこれ不退なれば、永く三途・八難 の畏れを免れ、寿もまた無量なれば、つひに生老病死の苦なし。心・事相応 すれば愛別離苦なく、慈眼をもつて等しく視れば怨憎会苦もなし。白業の報な れば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。一たび七宝荘厳の台に託 しぬれば、長く三界苦輪の海と別れぬ。もし別願あれば、他方に生ずといへど も、これ自在の生滅にして、業報の生滅にはあらず。なほ不苦・不楽の名すら なし。いかにいはんやもろもろの苦をや。龍樹の偈(易行品)にいはく、   「もし人、かの国に生れぬれば、つひに悪趣および、 P--869   阿修羅とに堕ちず。われいま帰命して礼す」と。 【27】 第六に引接結縁の楽といふは、人の世にあるに、求むるところ、意のご とくならず。樹、静かならんと欲へども、風停まず。子、養せんと欲へども、 親待たず。志、肝胆を舂くといへども、力水菽に堪へず。君臣・師弟・妻 子・朋友、一切の恩所、一切の知識、みなまたかくのごとし。空しく痴愛の心 を労らかして、いよいよ輪廻の業を増す。いはんやまた業果推し遷りて、生処 あひ隔たぬれば、六趣・四生いづれの処といふことを知らず。野の獣、山の禽、 たれか旧親を弁へん。『心地観経』の偈にのたまふがごとし。   「世人、子のためにもろもろの罪を造りて、三途に堕在して長く苦を受く   れども、   男女聖にあらずして神通なければ、輪廻を見ずして報ずべきこと難し。   有情、輪廻して六道に生ずること、なほ車輪のごとくして始終なし。   あるいは父母となり男女となり、世々生々にたがひに恩あり」と。 もし人、極楽に生じぬれば、智慧高明にして神通洞達し、世々生々の恩所・ 知識をば心に随ひて引接す。天眼をもつて生処を見、天耳をもつて言音を聞く。 P--870 宿命智をもつてその恩を憶し、他心智をもつてその心を了る。神境通をもつ て随逐し変現し、方便力をもつて教誡示道す。『平等経』(一・三意)にのた まふがごとし。「かの土の衆生は、みなみづからその前世に従来せしところの 生を知り、および八方上下、去・来・現在の事を知れり。かの諸天・人民、&M033699; 飛・蠕動の類の、心意に念ずるところ、口にいはんと欲ふところを知る。いづ れの歳いづれの劫に、まさにこの国に生れて菩薩の道をなし、阿羅漢を得べし といふことを、みなあらかじめこれを知る」と。また『華厳経』の普賢の願に のたまはく、   「願はくは、われ、命終せんと欲する時に臨みて、ことごとく一切のも   ろもろの障礙を除きて、   まのあたり、かの仏、阿弥陀を見たてまつりて、すなはち安楽刹に往生す   ることを得ん。   われすでにかの国に往生しをはれば、現前にこの大願を成就し、   一切円満してことごとく余すことなく、一切衆生界を利楽せん」と。 無縁すらなほしかり。いはんや結縁をや。龍樹の偈にいはく、 P--871   「無垢荘厳の光、一念および一時に、   あまねく諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す」と。 【28】 第七に聖衆倶会の楽といふは、『経』(小経)にのたまふがごとし。「衆 生聞くものは、まさに願を発して、かの国に生れんと願ずべし。所以はいか ん。かくのごときもろもろの上善の人と、倶に一処に会することを得ればな り」と。{以上}かのもろもろの菩薩聖衆の徳行は、不可思議なり。普賢菩薩のい はく、「もし衆生ありて、いまだ善根を種ゑざるもの、および少善を種ゑたる 声聞・菩薩は、なほわが名字を聞くことを得じ。いはんやわが身を見んや。も し衆生ありてわが名を聞くことを得ては、阿耨菩提においてまた退転せじ。乃 至、夢のうちに、われを見、聞くものも、またかくのごとし」と。[『華厳経』の 意。]またのたまはく、   「われつねにもろもろの衆生に随順して、未来の一切の劫を尽すまで、   つねに普賢の広大の行を修し、無上大菩提を円満せんと。   普賢の身相は虚空のごとし。真によりて住して、国土にはあらず。   もろもろの衆生の心の欲するところに随ひて、普身を示現して一切に等し P--872   くす。   一切の刹のなかの諸仏の所に、種々の三昧をもつて神通を現ず。   一々の神通はことごとく十方の国土に周遍して、遺すものなし。   一切の刹の如来の所のごとく、かの刹の塵のなかにもことごとくまたしか   なり」と。[同経の偈。]   「文殊師利大聖尊をば、三世の諸仏もつて母となしたまふ。   十方の如来の、はじめて心を発すことは、みなこれ文殊の教化の力なり。   一切世界のもろもろの有情、名を聞き、身および光相を見、   ならびに随類のもろもろの化現を見るは、みな仏道を成ずること思議しが   たし」と。[『心地観経』の偈。] もしただ〔文殊師利の〕名を聞くものは、十二億劫の生死の罪を除く。もし礼 拝・供養するものはつねに仏家に生る。もし名字を称すること一日七日すれば、 文殊かならず来りたまふ。もし宿障あるものは、夢のうちに見ることを得て、 所求円満す。もし形像を見るものは、百千劫のうちに悪道に堕ちず。もし慈心 を行ずるものは、すなはち文殊を見たてまつることを得。もし名を受持し読誦 P--873 することあるものは、たとひ重障あれども阿鼻の極悪猛火に堕ちずして、つね に他方の清浄の仏土に生る。[『文殊般涅槃経』の意。かの形像、『経』(同)に広く 説くがごとし。]また百千億那由他の仏の利益衆生は、文殊師利の、一劫のうち においてなせるところの利益には及ばず。ゆゑにもし文殊師利菩薩の名を称す るものは、福はかの百千億の諸仏の名号を受持するよりも多し。[『宝積経』の 意。]弥勒菩薩は功徳無量なり。もしただ名を聞くものは黒闇処に堕ちず。一念 も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。帰依することあるものは、 無上道において不退転を得。[『上生経』の意。]称讃・礼拝するものは、百千万 億阿僧祇劫の生死の罪を除く。[『虚空蔵経』・『仏名経』の意。]   「無量千万劫に修せるところの願・智・行、   広大にして不可量なり。称揚すともよく尽すことなからん」と。[『華厳経』   の偈。以上の三の菩薩、つねに極楽世界にまします。『四十華厳経』に出でたり。] 地蔵菩薩は、毎日の晨朝に恒沙の定に入りて、法界に周遍して苦の衆生を抜き たまふ。所有の悲願、余の大士に超えたり。[『十輪経』の意。]かの『経』(同) の偈にのたまはく、 P--874   「一日も地蔵の功徳、大名聞を称せんは、   倶胝劫のうちに、余の智者を称する徳に勝れたり。   たとひ百劫のうちに、その功徳を讃説すとも、   なほ尽すことあたはじ。ゆゑにみなまさに供養すべし」と。{以上} 観世音菩薩のいはく、「衆生、苦ありて、三たびわが名を称せんに、往きて救 はずといはば、正覚を取らじ」と。[『弘猛海慧経』。]「もし百千倶胝那由他の諸 仏の名号を称念することあらん。またしばらくの時もわが名号において、心を 至して称念することあらん。かの二の功徳は平等平等ならん。もろもろのわ が名号を称念することあるものは、一切みな不退転の地を得てん」と。[『十一 面経』(意)。]   「衆生もし名を聞かば、苦を離れて解脱を得てん。   また地獄に遊戯して、大悲代りて苦を受けん」と。[『請観音経』の偈。]   「弘誓の深きこと海のごとし。劫を歴とも思議すまじ。   多千億の仏に侍へて、大清浄の願を発せり。   神通力を具足し、広く智の方便を修して、 P--875   十方のもろもろの国土に、刹として身を現ぜずといふことなし。   念々に疑をなすことなかれ。観世音の浄聖は、   苦悩死厄において、よくために依怙となりたまふ。   一切の功徳を具して、慈眼をもつて衆生を視たまふ。   福聚の海無量なり。このゆゑに頂礼したてまつるべし」と。[『法華経』。] 大勢至菩薩のいはく、「われよくもろもろの悪趣の、未度の衆生を度するに堪 任せり」と。[『宝積経』。]「智慧の光をもつて、あまねく一切を照らして、三 塗を離れしむるに、無上の力を得たり。ゆゑにこの菩薩を大勢至と名づく。こ の菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除き、胞胎に処せずして、 つねに諸仏の浄妙国土に遊ぶ」と。[『観経』の意。]   「無量無辺無数劫に、広く願力を修して弥陀を助け、   つねに大衆に処して法言を宣ぶ。衆生の聞くものは浄眼を得。   神通をもつて十方の国に周遍して、あまねく一切衆生の前に現ず。   衆生もしよく心を至して念ずれば、みなことごとく導きて安楽に至らし   む」と。[龍樹の讃。] P--876 またいはく、   「観音・勢至は大名称まします。功徳・智慧、ともに無量なり。   慈悲を具足して世間を救ひ、あまねく一切衆生海に遊びたまふ。   かくのごとき勝れたる人は、はなはだ遇ふこと難し。一心に恭敬して頭面   をもつて礼したてまつる」と。{以上} かくのごとき一生補処の大菩薩、その数恒沙のごとし。色相端厳にして、功徳 具足し、つねに極楽国にましまして弥陀仏を囲繞したまへり。またもろもろの 声聞衆、その数量りがたし。神智洞達し、威力自在なり。よく掌のなかに一 切の世界を持つ。たとひ大目連のごときもの、百千万億無量無数にして、阿僧 祇の劫に、ことごとくともに、かの初会の声聞を計校せんに、知るところの数 はなほ一&M017772;のごとく、その知らざるところは大海の水のごとし。そのなかに、 般泥&M017421;して去るもの無央数なり。新たに阿羅漢を得るもの、また無央数なり。 しかれどもすべて増減をなさず。たとへば大海の、恒水を減ずといへども、恒 水を加ふといへども、しかも増なくまた減なきがごとし。もろもろの菩薩衆は、 また上の数に倍せり。『大論』(大智度論)にいふがごとし。「弥陀仏の国には、 P--877 菩薩僧は多く声聞僧は少なし」と。{以上}かくのごとき聖衆、その国に充満せり。 たがひにはるかにあひ見、はるかにあひ瞻望し、はるかに語声を聞きて、同一 に道を求めて、異類あることなし。いかにいはんや、また十方恒沙の仏土の無 量塵数の菩薩聖衆、おのおの神通を現じて安楽国に至りて、尊顔を瞻仰して恭 敬し供養したてまつる。あるいは天の妙華を齎し、あるいは妙宝の香を焼き、 あるいは無価の衣を献り、あるいは天の妓楽を奏し、和雅の音を発して、世尊 を歌嘆し、経法を聴受し、道化を宣布す。かくのごとく往来すること、昼夜に 絶えず。東方に去れば、西方より来り、西方に去れば、北方より来り、北方に 去れば、南方より来る。四維・上下もたがひにまたかくのごとし。かはるがは るあひ開避すること、なほ盛りなる市のごとし。これらの大士は、一たびその 名を聞くすら、なほ少縁にあらず。いはんや百千万劫にも、たれかあひ見るこ とを得るものあらん。しかもかの国土の衆生はつねに一処に会して、たがひに 言語を交へ、問訊し恭敬し、親近し承習す。また楽しからざらんや。[以上、 『双巻経』(大経)・『観経』・『平等経』等の意。]龍樹の偈(易行品)にいはく、   「かの土のもろもろの菩薩は、もろもろの相好を具足して、 P--878   みなみづから身を荘厳せり。われいま帰命して礼す。   三界の獄を超出して、目は蓮華葉のごとし。   声聞衆無量なり。このゆゑに稽首して礼す」と。 またいはく(十二礼)、   「十方より来るところのもろもろの仏子、神通を顕現して安楽に至りて、   尊顔を瞻仰してつねに恭敬したてまつる。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼す。   願はくは、もろもろの衆生とともに安楽国に往生せん」と。 【29】 第八に見仏聞法の楽といふは、いまこの娑婆世界は、仏を見、法を聞く ことはなはだ難し。師子吼菩薩のいはく(心地観経)、   「われら無数百千劫に、四無量・三解脱を修して、   いま大聖牟尼尊(釈尊)を見たてまつること、なほ盲ひたる亀の浮木に値   へるがごとし」と。 また儒童は全身を捨ててはじめて半偈を得たり。常啼は肝腑を割きて遠く般若 を求めたり。菩薩すらなほしかり、いかにいはんや凡夫をや。仏(釈尊)、舎衛 にましますこと二十五年、かしこに九億の家あり。三億は仏を見たてまつり、 P--879 三億はわづかに聞き、その余の三億は見ず聞かず。在世すらなほしかり、いか にいはんや滅後をや。ゆゑに『法華』にのたまはく、   「このもろもろの罪の衆生は、悪業の因縁をもつて、   阿僧祇の劫を過ぐれども、三宝の名をも聞かず」と。 しかるをかの国の衆生は、つねに弥陀仏を見たてまつり、つねに深妙の法を聞 く。いはく、厳浄の地の上には菩提樹あり、枝葉四もに布き、衆宝をもつて合 成せり。樹の上には宝の羅網を覆ひ、条のあひだには珠の瓔珞を垂れたり。風、 枝葉を動かすに、声妙法を演べ、その声流布して諸仏の国に遍す。その聞くこ とあるものは深法忍を得、不退転に住し、耳根清徹なり。樹の色を覩、樹の香 りを聞ぎ、樹の味を嘗め、樹の光に触れ、樹の相を縁ずるも、一切またしかな り。仏道を成ずるに至るまで六根清徹なり。樹下に座あり、荘厳無量なり。座 の上には仏ましまし、相好無辺なり。烏瑟高く顕れて、晴天の翠濃く、白毫右 に旋りて、秋月の光満てり。青蓮の眼、丹菓の唇、迦陵頻の声、獅子相の胸、 仙鹿王の&M029685;、千輻輪の趺、かくのごとき八万四千の相好、紫磨金の身に纏絡し、 無量塵数の光明は、億千の日月を集めたるがごとし。時ありて、七宝の講堂に P--880 ましまして妙法を演暢したまふに、梵音深妙にして、衆の心を悦可したまふ。 菩薩・声聞・天・人大衆、一心に合掌して尊顔を瞻仰したてまつる。即時に、 自然の微風、七宝の樹を吹くに、無量の妙華、風に随ひて四もに散ず。一切の 諸天、もろもろの音楽を奏す。この時に当りて、熙怡快楽、勝げていふべから ず。あるいはまた広大の身を現じ、あるいは丈六・八尺の身を現じ、あるいは 宝樹の下にましまし、あるいは宝池の上にまします。衆生の本の宿命により、 求道の時、心に喜願せしところに随ひて、大小意に随ひて、ために経法を説 き、それをして疾く開解し、得道せしめたまふ。かくのごとく種々の機に随ひ て、種々の法を説きたまふ。また観音・勢至の両の菩薩、つねに仏の左右の辺 にありて、坐侍して政論す。仏つねにこの両の菩薩とともに対坐して、八方上 下、去・来・現在の事を議したまふ。ある時には、東方の恒沙の仏国の無量無 数のもろもろの菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養 して、もろもろの菩薩・声聞の衆までに及ぼす。南西北方・四維・上下もまた かくのごとし。かの厳浄の土の微妙難思議なるを見て、よりて無量の心を発し て、わが国もまたしからんと願ず。時に応じて、世尊、容を動かして微笑し、 P--881 口より無数の光を出して、あまねく十方の国を照らしたまふ。回光、身を囲る こと三匝して頂に入る。一切の天・人衆、踊躍してみな歓喜す。大士観世音、 服を整へて〔無量寿仏に〕稽首して問ひたてまつる。「仏、なんの縁ありてか笑 みたまふ。やや、しかなり。願はくは説きたまへ」と。時に梵の声、雷のごと くして八音をもつて妙響を暢べたまひ、「まさに菩薩に記を授くべし」と。告 げてのたまはく、「なんぢ、あきらかに聴け。十方より来れる正士、われこと ごとくかの願を知れり。厳浄の土を志求し、決を受けてまさに仏に作るべし。 一切の法はなほ夢・幻・響のごとしと覚了するも、もろもろの妙願を満足して、 かならずかくのごとき刹を成ぜん。法は電・影のごとしと知るも、菩薩の道を 究竟し、もろもろの功徳の本を具して、決を受けてまさに仏に作るべし。諸法 の性は一切、空・無我なりと通達するも、もつぱら浄仏土を求めて、かならず かくのごとき刹を成ぜん」と。{以上}いはんやまた、水・鳥・樹林みな妙法を演 ぶ。おほよそ聞かんと欲するところをば、自然に聞くことを得。かくのごとき 法楽は、またいづれの処にかあらんや。[このなかは多く『双巻経』(大経)・『平等 経』等によれり。]龍樹の讃(十二礼)にいはく、 P--882   「金を底とし、宝間はりたる池に生ぜる華、善根の成ぜるところの妙台座な   り。   かの座の上において山王のごとし。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼したてまつる。   諸有は無常・無我等なり。また水月・電・影・露のごとし。   衆のために法に名字なきことを説きたまふ。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼した   てまつる。   願はくはもろもろの衆生とともに安楽国に往生せん」と。 【30】 第九に随心供仏の楽といふは、かの土の衆生は、昼夜六時に、つねに種 種の天華を持ちて、無量寿仏を供養したてまつる。また、意に他方の諸仏を供 養したてまつらんと欲ふことあれば、すなはち前みて長跪して、手を叉へて仏 にまうす。仏すなはちこれを可したまふに、みな大きに歓喜して、千億万の人、 おのおのみづから翻り飛び、等輩あひ追ひ、ともに散飛して、八方上下の無央 数の諸仏の所に到りて、みな前みて礼をなし、供養し恭敬したてまつる。かく のごとく毎日晨朝に、おのおの衣&M034301;をもつてもろもろの妙華を盛れて、他方の 十万億の仏に供養したてまつる。およびもろもろの衣服・妓楽、一切の供具、 P--883 意に随ひて出生して、供養し恭敬す。すなはち食時をもつて本国に還り到り て、飯食し経行して、もろもろの法楽を受く。あるいはいはく、毎日三時に 諸仏を供養したてまつると。行者、いま遺教に従ひて、十方の仏土の種々の功 徳を聞くことを得たり。見るに随ひ、聞くに随ひて、はるかに恋慕を生ず。お のおのあひ謂りていはく、「われら、いづれの時にか、十方の浄土を見ること を得、諸仏・菩薩に値ふことを得ん」と。教文に対ふごとに、嗟嘆せずといふ ことなし。しかるを、もしたまたま極楽国に生るることを得ば、あるいは自力 により、あるいは仏力を承けて、朝に往き暮に来り、須臾に去り須臾に還らん。 あまねく十方の一切の仏刹に至りて、まのあたり諸仏に奉へたてまつり、もろ もろの大士に値遇し、つねに正法を聞き、大菩提の記を受けん。乃至、あまね く一切の塵刹に入りて、もろもろの仏事をなし、普賢の行を修せん。また楽し からずや。[『阿弥陀経』・『平等覚経』・『双巻経』(大経)の意。]龍樹の偈(易行品) にいはく、   「かの土の大菩薩は、日々三時に、   十方の仏を供養したてまつる。このゆゑに稽首して礼したてまつる」と。 P--884 【31】 第十に増進仏道の楽といふは、いまこの娑婆世界は、道を修して果を得 ることはなはだ難し。いかんとなれば、苦を受くるものはつねに憂へ、楽を受 くるものはつねに着す。苦といひ楽といひ、解脱を遠離す。もしは昇もしは沈、 輪廻にあらずといふことなし。たまたま発心して修行するものありといへども、 また成就しがたし。煩悩内に催し、悪縁外に牽きて、あるいは二乗の心を発し、 あるいは三悪道に還りぬ。たとへば、水のなかの月の、波に随ひて動きやすく、 陣の前の軍の、刃に臨みてすなはち還るがごとし。魚子長じがたく、菴菓熟す ること少なし。かの身子(舎利弗)等の、六十劫に退せるもののごとき、これな り。ただ釈迦如来、無量劫に難行苦行し、功を積み、徳を累ねて、菩薩の道を 求めて、いまだかつて止息したまはず。三千大千世界を観ずるに、乃至、芥子 ばかりのごときも、この菩薩の身命を捨てたる処にあらざること、あることな し。衆生のためのゆゑなり。しかして後に、すなはち菩提の道を成ずることを 得たまへり。その余の衆生はおのが智分にあらず。象の子は力微ければ、身は 刀箭に歿す。ゆゑに龍樹菩薩のいはく(大智度論・意)、「たとへば四十里の氷 に、もし一人ありて一升の熱湯をもつてこれに投るれば、当時は氷減ずるに似 P--885 たれども、夜を経て明に至れば、すなはち余のものよりも高きがごとし。凡夫 のここにありて発心して、苦を救はんとするもまたかくのごとし。貪瞋の境、 順違多きをもつてのゆゑに、みづから煩悩を起して、かへりて悪道に堕しぬ」 と。{以上}かの極楽国土の衆生は、多くの因縁あるがゆゑに、畢竟じて退せずし て、仏道に増進す。一には、仏の悲願力つねに摂持するがゆゑに。二には、仏 の光つねに照らして菩提心を増するがゆゑに。三には、水・鳥・樹林・風鈴等 の声、つねに念仏・念法・念僧の心を生ぜしむるがゆゑに。四には、もつぱら もろもろの菩薩を、もつて善友となして、外に悪縁なく、内に重惑を伏せるが ゆゑに。五には、寿命永劫にして、仏とともに斉等にして、仏道を修習するに、 生死の間隔あることなきがゆゑに。『華厳』の偈にのたまはく、   「もし衆生ありて一たび仏を見たてまつれば、かならずもろもろの業障を   浄除せしむ」と。 一たび見たてまつるすら、なほしかなり。いかにいはんやつねに見たてまつる をや。この因縁によりて、かの土の衆生は、あらゆる万物において、我・我所 の心なし。去来進止に心係くるところなし。もろもろの衆生において大悲心を P--886 得、自然に増進して、無生忍を悟り、究竟してかならず一生補処に至り、乃至、 すみやかに無上菩提を証す。衆生のためのゆゑに、八相を示現し、縁に随ひ、 厳浄の国土にありて妙法輪を転じ、もろもろの衆生を度す。もろもろの衆生を してその国を欣求せしむること、わが今日、極楽を志願するがごとくす。また 十方に往きて衆生を引接すること、弥陀仏の大悲の本願のごとくあらん。かく のごとき利益、また楽しからずや。一世の勤修は、これ須臾のあひだなり。な んぞ衆事を棄てて浄土を求めざらんや。願はくはもろもろの行者、ゆめ懈るこ となかれ。[多くは『双巻経』(大経)、ならびに天台『十疑』等の意による。]龍樹の偈 (十二礼)にいはく、   「かの尊の無量方便の境には、諸趣と悪知識とあることなし。   往生しぬれば退せずして菩提に至る。ゆゑにわれ、弥陀仏を頂礼したてま   つる。   われかの尊の功徳の事を説くに、衆善無辺なること海水のごとし。   所獲の善根清浄なるものをもつて、願はくは衆生とともにかの国に生れ   ん。 P--887   願はくはもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん」と。 【32】 大文第三に、極楽証拠を明かさば、二あり。一は十方に対す。二は兜率 に対す。 【33】 初めに十方に対すとは、問はく、十方に浄土あり。なんぞただ極楽にの み生ぜんと願ふや。答ふ。天台大師(智&M043614;)のいはく(十疑論・意)、「もろもろ の経論、処々にただ衆生を勧めてひとへに阿弥陀仏を念じ、西方の極楽世界を 求めしめたまへり。『無量寿経』・『観経』・『往生論』(天親の浄土論)等の数十 余部の経論の文に、慇懃に指授して西方に生ずることを勧めたり。ここをもつ てひとへに念ず」と。{以上}大師(智&M043614;)、一切の経論を披閲したまへること、お ほよそ十五遍。知るべし、述べたまへるところ、信ぜずはあるべからず。迦才 師の三巻『浄土論』に、十二経七論を引けり。一には『無量寿経』、二には 『観経』、三には『小阿弥陀経』、四には『鼓音声経』、五には『称揚諸仏功徳 経』、六には『発覚浄心経』、七には『大集経』、八には『十往生経』、九には 『薬師経』、十には『般舟三昧経』、十一には『大阿弥陀経』、十二には『無量 清浄平等覚経』なり。[以上、『双巻無量寿経』・『清浄覚経』・『大阿弥陀経』は P--888 同本異訳なり。]一には『往生論』、二には『起信論』、三には『十住毘婆沙論』、 四には一切経のなかの弥陀の偈、五には『宝性論』、六には龍樹の『十二礼』 の偈、七には『摂大乗論』の弥陀の偈なり。[以上、智憬師これに同じ。]わたくし に加へていはく、『法華経』の「薬王品」、『四十華厳経』の普賢願、『目連所 問経』・『三千仏名経』・『無字宝篋経』・『千手陀羅尼経』・『十一面経』・『不 空羂索』・『如意輪』・『随求』・『尊勝』・『無垢浄光』・『光明』・『阿弥陀』等の もろもろの顕・密教のなかに、もつぱら極楽を勧めたること、称計すべからず。 ゆゑにひとへに願求す。  問ふ。仏ののたまはく、「諸仏の浄土は実に差別なし」と。なんがゆゑぞ如 来はひとへに西方を讃じたまふ。答ふ。『随願往生経』に、仏、この疑を決し てのたまはく、「娑婆世界は、人、貪濁多くして、信向のものは少なく、習邪 のものは多くして正法を信ぜず、専一なることあたはざれば、心乱れて志な し。実には差別なけれども、もろもろの衆生をして専心にあることあらしむ。 このゆゑにかの国土を讃嘆したまふのみ。もろもろの往生人、ことごとくかの 願に随ひて果を獲ずといふことなし」と。また『心地観経』にのたまはく、 P--889 「もろもろの仏子等、まさに心を至して一仏および一菩薩を見んと求むべし。 かくのごときを名づけて出世の法要となす」と。{云々}このゆゑに、もつぱら一 仏の国を求めしむるなり。  問ふ。その心をもつぱらにせんがために、なんがゆゑぞ中においてただ極楽 をしも勧むる。答ふ。たとひ余の浄土を勧むとも、またこの難を避らじ。仏意、 測りがたし。ただ仰ぎて信ずべし。たとへば、痴人の、火坑に堕ちてみづから 出づることあたはざらんに、知識これを救ふに一の方便をもつてせば、痴人、 力を得て、務ぎてすみやかに出づべし。なんの暇ありてか、縦横に余の術計を 論ぜんや。行者もまたしかり。他念を生ずることなかれ。『目連所問経』にの たまふがごとし。「たとへば、万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧 ず、後は前を顧ず、すべて大海に会まるがごとく、世間もまたしかり。豪貴・ 富楽、自在なることありといへども、ことごとく生老病死を免るることを得 ず。ただ仏経を信ぜざるによるに、後世に人となれども、さらにはなはだしく 困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説く。 〈無量寿仏の国は、往きやすく取りやすし。しかるを人、修行して往生するこ P--890 とあたはずして、かへりて九十五種の邪道に事ふ〉と。われ説きて、この人を 無眼の人と名づけ、無耳の人と名づく」と。{以上}『阿弥陀経』(意)にのたまは く、「われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし信ずることあるものは、 まさに願を発して、かの国土に生るべし」と。{以上}仏の誡め、慇懃なり。ただ 仰ぎて信ずべし。いはんやまた機縁なきにあらず。なんぞ強ひてこれを拒まん。 天台(智&M043614;)の『十疑』(意)にいふがごとし。「阿弥陀仏、別に大悲の四十八 願ましまして、衆生を接引したまふ。またかの仏の光明、あまねく法界の念仏 の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。十方各恒河沙の諸仏、舌を舒べて 三千界を覆ひ、一切衆生の、阿弥陀仏を念じ、仏の大悲本願力に乗じて、決定 して極楽世界に生るることを得ることを証成したまへり。また『無量寿経』 にのたまはく、〈末後法滅の時に、ことにこの経を留めて、百年世にあらしめ て、衆生を接引して、かの国土に生れしめん〉と。ゆゑに知りぬ、阿弥陀仏 と、この世界の極悪の衆生とは、ひとへに因縁ありといふことを」と。{以上}慈 恩(窺基)のいはく(西方要決)、「末法万年に、余経はことごとく滅して、弥陀 の一教は物を利することひとへに増せらん。大聖(釈尊)ことに留めたまふこ P--891 と百歳なり。時に末法を経ること一万年に満たば、一切の諸経はならびに従ひ て滅没せん。釈迦の恩重くして、教を留めたまへること百年なり」と。{以上}ま た懐感禅師のいはく(群疑論)、「『般舟三昧経』に説かく、〈跋陀和菩薩、釈迦 牟尼仏を請じてまうさく、《未来の衆生は、いかんしてか十方の諸仏を見たて まつることを得ん》と。仏教へて、阿弥陀を念ぜしめたまふに、すなはち十方 一切の仏を見たてまつる〉と。この仏、ことに娑婆の衆生と縁あるをもつて、 先づこの仏において心をもつぱらにして称念すれば、三昧成じやすきなり」と。 {以上}また観音・勢至は、本はこの土にして菩薩の行を修して、転じてかの国に 生じたまへり。宿縁の追ふところ、あに機応なからんや。 【34】 第二に兜率に対すとは、問はく、玄奘三蔵のいはく、「西方の道俗なら びに弥勒の業をなす。同じく欲界にしてその行成じやすきがためなり。大小 乗の師、みなこの法を許す。弥陀の浄土は、おそらくは凡鄙穢れて修行成じ がたからん。旧き経論のごときは、七地以上の菩薩、分に随ひて報仏の浄土を 見ると。新論の意によらば、三地の菩薩、はじめて報仏の浄土を見ることを得 べし。あに下品の凡夫、すなはち往生することを得べけんや」と。{以上}天竺 P--892 (印度)すでにしかり。いまなんぞ極楽を勧むるや。答ふ。中国・辺州、その 処異なりといへども、顕密の教門は、その理これ同じ。いま引くところのごと き証拠、すでに多し。いかんぞ仏教の明らかなる文に背きて、天竺の風聞に従 ふべけんや。いかにいはんや、祇園精舎の無常院には、病者をして西に面かへ て、仏(阿弥陀仏)の浄刹に往く想をなさしめんや。つぶさには、下の臨終の行 儀のごとし。あきらかに知りぬ、仏意ひとへに極楽を勧むるにあり。西域の風 俗、あにこれに乖かんや。また懐感禅師の『群疑論』には、極楽・兜率におい て十二の勝劣を立てたり。「一には化主の仏と菩薩と別なるがゆゑに。二には 浄・穢土の別。三には女人の有無。四には寿命の長短。五には内・外の有無。 [兜率は、内院は退せず、外院は退あり。西方は内・外なし、また退なし。]六には五衰の 有無。七には相好の有無。八には五通の有無。九には不善心の起・不起。十に は滅罪の多少。いはく、弥勒の名を称するには千二百劫の罪を除く。弥陀の名 を称するには八十億劫の罪を滅す。十一には苦受の有無。十二には受生の異。 兜率は男女の膝の下、懐のなかにあり。西方は華のうち、殿のなかにあり。二 処の勝劣、その義かくのごとしといへども、しかもならびに仏は勧め讃じたま P--893 へり。あひ是非することなかれ」(意)と。[以上、おほよそ二界勝劣・差別を立つ。] 慈恩(窺基)は十の異を立てたり。前の八は感禅師(懐感)の所立を出でず。ゆ ゑにさらに抄せず。その第九にいはく(西方要決・意)、「西方は、仏、来迎した まふ。兜率はしからず」と。感師は「来迎は同じ」(群疑論・意)といふ。第十 にいはく(西方要決・意)、「西方は、経論に慇懃に勧めたまふこときはめて多し。 兜率は多からず、また慇懃にあらず」と。{云々}感師(懐感)また往生の難易に おいて、十五の同の義、八の異の義を立てたり。八の異の義とは(群疑論・意)、 「一には本願の異。いはく、弥陀には引摂の願あり。弥勒には願なし。願なき は、みづから浮ぎて水を度るがごとし。願あるは、舟に乗りて水に遊ぶがごと し。二には光明の異。いはく、弥陀仏の光は、念仏の衆生を照らして、摂取し て捨てたまはず。弥勒はしからず。光の照らすは、昼日の遊びのごとく、光な きは、暗のなかに来往するに似たり。三には守護の異。いはく、無数の化仏・ 観音・勢至、つねに行者の所に至りたまふ。また『称讃浄土経』にのたまは く、〈十方の十恒河沙の諸仏の、摂受するところなり〉と。また『十往生経』 にのたまはく、〈仏、二十五の菩薩を遣はして、つねに行人を守護せしむ〉と。 P--894 兜率はしからず。護りあるは、多くの人ともに遊ぶに、強賊に逼めらるること を畏ぢざるがごとし。護りなきは、孤り嶮径に遊ぶに、かならず暴客のために 侵さるるに似たり。四には舒舌の異。いはく、十方の仏、舌を舒べて証成し たまふ。兜率はしからず。五には衆聖の異。いはく、華聚菩薩・山海慧菩薩、 弘誓願を発さく、〈もし一衆生として、西方に生るること尽きざることあらん に、われもし先づ去らば、正覚を取らじ〉と。六には滅罪の多少。{同前}七には 重悪の異。いはく、五逆罪を造れるものも、また西方に生るることを得。兜率 はしからず。八には教説の異。いはく、『無量寿経』にのたまはく、〈横に五 の悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。往きやすくして人 なし〉と。兜率はしからず。十五の同の義あらん。なほ生じがたしと説くべか らず。いはんや、異に八の門あり。しかるをすなはち説きて、往きがたしとい はんや。請ふ、もろもろの学者、理および教を尋ねて、その難易の二の門を鑑 みて、永くその惑ひを除くべし」と。[以上略抄。ただ十五の同の義、かの『論』 (群疑論)を見るべし。]  問はく、玄奘の伝ふるところ、会せずはあるべからず。答ふ。西域の行法、 P--895 暗ければ決しがたきも、いま試みに会していはく、かの土の行者、多く小乗 にあり。[相伝にいはく、「十五国は大乗を学し、十五国は大小兼学す。四十一国は小乗 を学す」と。]兜率に上生することをば、大小ともに許せり。他方の仏土に往く ことをば、大は許して小は許さず。かれをばともに許せるがゆゑに、ならびに 兜率といふか。流沙以東盛りに大乗を興す。かの西域の雑行には同ずべからず。 いかにいはんや、諸教の興隆はかならずしも一時ならず。就中、念仏の教は、 多く末代の、経道滅して後の濁悪の衆生を利す。はかりみるに、かの時には、 天竺(印度)にいまだ興盛ならざりしか。もししからずは、上足の基師、あに 別に『西方要決』を著して、十の勝劣を立てて、自他を勧むべけんや。  問ふ。『心地観経』にのたまはく、「われいまの弟子をば弥勒に付く。竜華 会のなかに解脱を得ん」と。あに如来(釈尊)の、兜率を勧進めたまふにあら ずや。答ふ。これまた違することなし。たれか、『上生』・『心地』等の両三 の経をば遮せん。しかも極楽の文の、顕密に且千なるにはしかず。また『大悲 経』の第三(意)にのたまはく、「当来の世に、法の滅せんと欲する時に、ま さに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得をはり、手に児の臂 P--896 を牽きてともに遊行し、酒家より酒家に至りて、わが法のなかにおいて非梵行 をなすべし。{乃至}ただ性はこれ沙門なれども、沙門の行を汚してみづから沙門 と称し、形は沙門に似て、まさに袈裟衣を被着することあるべきものは、この 賢劫において、弥勒を首めとなし、乃至、最後の盧遮仏の所にして般涅槃に入 りて、遺余あることなからん。なにをもつてのゆゑに。かくのごとく一切のも ろもろの沙門のなかに、乃至、一たびも仏の名を称し、一たびも信をなすもの は、所作の功徳つひに虚設ならざればなり」と。{以上}『心地観経』の意、また かくのごとし。ゆゑにかの『経』(同)に、「竜華」とのたまひて「兜率」とは のたまはず。いまこれを案ずるに、釈尊の入滅より慈尊(弥勒)の出世に至るま で、五十七倶胝六十百千歳を隔てたり。[『新婆沙』の意。]そのあひだの輪廻、劇 苦いくばくぞ。なんぞ、終焉の暮、すなはち蓮胎に託することを願はずして、 悠々たる生死に留まりて、竜華会に至ることを期せんや。いかにいはんや、も したまたま極楽に生れなば、昼夜に、念に随ひて兜率宮に往来し、乃至、竜華 会のなかに、新たに対揚の首となること、なほ富貴にして故郷に帰るがごとし。 いづれの人か、この事を欣楽せざらんや。もし別縁あるものは、余方もまた佳 P--897 し。おほよそ意楽に随ふべし。異執を生ずることなかれ。ゆゑに感法師(懐感) のいはく(群疑論)、「兜率を志求するものは、西方の行人を毀ることなかれ。 西方に生れんと願ずるものは、兜率の業を毀ることなかれ。おのおの性欲に随 ひて、情に任せて修学せよ。あひ是非することなかれ。なんぞただ勝処に生れ ざるのみならん。またすなはち三途に輪転しなん」と。{云々} 【35】 大文第四に、正修念仏といふは、これにまた五あり。世親菩薩の『往生 論』(浄土論)にいふがごとし。「五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて 安楽国土に生れて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。一には礼拝門、二 には讃嘆門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり」と。{云々}この なかに、作願・回向の二門は、もろもろの行業において、通じてこれを用ゐる べし。 【36】 初めに礼拝門といふは、これすなはち三業相応の身業なり。一心に帰命 して五体を地に投げて、はるかに西方の阿弥陀仏を礼するなり。多少をば論ぜ ず、ただ誠心を用ゐよ。あるいは『観仏三昧経』の文を念ふべし。「われいま、 一仏を礼するは、すなはち一切の仏を礼するなり。もし一仏を思惟すれば、す P--898 なはち一切の仏を見たてまつるなり。一々の仏の前に一の行者ありて、接足し て礼をなすは、みなこれおのが身なり」と。[わたくしにいはく、「一切仏」とは、 これ弥陀の分身なり。あるいはこれ十方の一切の諸仏なり。]あるいは念ふべし。   「能礼・所礼、性空寂なり。自身・他身、体無二なり。   願はくは衆生とともに道を体解して、無上の意を発して真際に帰せん」と。 あるいは『心地観経』の六種の功徳によるべし。「一には無上大功徳田なり。 二には無上大恩徳なり。三には無足・二足および多足の衆生のなかの尊たり。 四にはきはめて値遇しがたきこと優曇華のごとし。五には独り三千大千世界に 出でたまふ。六には世・出世間の功徳円満して、一切の義の依たり。かくのご とき等の六種の功徳を具して、つねによく一切衆生を利益したまふ」と。{以上} 経の文は、きはめて略なり。いますべからく言を加へて、もつて礼の法をなさ ん。一には念ふべし。   一たび「南無仏」と称するものは、みなすでに仏道を成ず。   ゆゑにわれ、無上功徳田を帰命し礼したてまつる。 二には念ふべし。 P--899   慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。   ゆゑにわれ、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。 三には念ふべし。   十方のもろもろの大士、弥陀尊を恭敬したてまつる。   ゆゑにわれ、無上両足の尊を帰命し礼したてまつる。 四には念ふべし。   一たび仏の名を聞くことを得ることは、優曇華よりも過ぎたり。   ゆゑにわれ、きはめて値遇しがたきものを帰命し礼したてまつる。 五には念ふべし。   一百倶胝の界には、二尊並び出でたまはず。   ゆゑにわれ、希有の大法王を帰命し礼したてまつる。 六には念ふべし。   仏法のもろもろの徳海は、三世同じく一体なり。   ゆゑにわれ、円融万徳の尊を帰命し礼したてまつる。 もし広く行ずることを楽はば、龍樹菩薩の『十二礼』によるべし。また善導和 P--900 尚の『六時の礼法』あり。つぶさに出すべからず。たとひ余行なくとも、ただ 礼拝によりてまた往生することを得。『観虚空蔵菩薩仏名経』にのたまふが ごとし。「阿弥陀仏を心を至して敬礼すれば、三悪道を離れて、後にその国に 生るることを得」と。{以上} 【37】 第二に讃嘆門といふは、これ三業相応の口業なり。『十住婆沙』の第三 にいふがごとし。「阿弥陀仏の本願、かくのごとし。〈もし人、われを念じ、 名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨菩提を得〉と。この ゆゑにつねに憶念すべし。偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。   無量の光明慧あり。身は真金山のごとし。   われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。   十方現在の仏、種々の因縁をもつて、   かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつる。   仏の足には千輻輪ありて、柔軟にして蓮華の色なり。   見るものみな歓喜す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。   眉間の白毫の光は、なほ清浄なる月のごとし。 P--901   面の光色を増益す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。   かの仏の言説したまふところ、もろもろの罪根を破除す。   美言にして益するところ多し。われいま稽首して礼したてまつる。   一切の賢聖衆、およびもろもろの人天衆、   ことごとくみなともに帰命す。このゆゑにわれもまた礼したてまつる。   かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。   みづから度し、またかれを度す。われ自在者を礼したてまつる。   諸仏、無量劫に、その功徳を讃揚せんに、   なほ尽すことあたはず。清浄の人を帰命したてまつる。   われいままたかくのごとく、無量の徳を称讃す。   この福の因縁をもつて、願はくは仏つねにわれを念じたまへ。   この福の因縁をもつて、獲るところの上妙の徳、   願はくはもろもろの衆生の類も、みなまたことごとくまさに得べし」と。 かの『論』(易行品)に三十二の偈あり。いま略して要を抄す。あるいはまた 『往生論』(天親の浄土論)の偈、真言教の仏讃、阿弥陀の別讃あり。これらの P--902 文、一遍・多遍、一行・多行、ただ至誠をもつてすべし。多少を論ぜず。たと ひ余行なくとも、ただ讃嘆によりて、また願に随ひてかならず往生することを 得つべし。『法華』の偈にのたまふがごとし。   「あるいは歓喜の心をもつて、歌唄して仏徳を頌し、   乃至一の小音をもつてせるも、みなすでに仏道を成ぜり」と。 一音すでにしかり。いかにいはんや、つねに讃ぜんをや。仏果なほしかり。い かにいはんや往生をや。真言の讃仏、利益はなはだ深し。顕露することあたは ず。 【38】 第三に作願門といふは、以下の三の門は、これ三業相応の意業なり。綽 禅師(道綽)の『安楽集』(上)にいはく、「『大経』にのたまはく、〈おほよそ 浄土に往生せんと欲はば、かならずすべからく菩提心を発すをもつて源となす べし〉と。いかんとなれば、菩提といふはすなはちこれ無上仏道の名なり。も し心を発して仏に作らんと欲すれば、この心は広大にして法界に遍周せり。こ の心は長遠にして未来際を尽す。この心あまねくつぶさに二乗の障を離る。も しよく一たびこの心を発せば、無始生死の有淪を傾く。『浄土論』にいはく、 P--903 〈菩提心を発すといふは、まさしくこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなは ちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはちこれ衆生を摂受して有仏の国土 に生ぜしむる心なり。いますでに浄土に生ぜんと願ず、ゆゑに先づすべからく 菩提心を発すべし〉」と。{以上}まさに知るべし、菩提心は、これ浄土菩提の綱要 なり。ゆゑにいささか三の門をもつてその義を決択せん。行者、繁きを厭ふこ となかれ。一には菩提心の行相を明かす。二には利益を明かす。三には料簡せ ん。 【39】 初めに行相とは、総じてこれをいはば願作仏心なり。また、上求菩提・ 下化衆生の心と名づく。別してこれをいはば四弘誓願なり。これに二種あり。 一には縁事の四弘願なり。これすなはち衆生縁の慈なり。あるいはまた法縁の 慈なり。二には縁理の四弘なり。これ無縁の慈悲なり。縁事の四弘といふは、 一には衆生無辺誓願度。念ずべし、「一切衆生にことごとく仏性あり。われみ な無余涅槃に入らしむべし」と。この心はすなはちこれ饒益有情戒なり。また これ恩徳の心なり。またこれ縁因仏性なり。応身の菩提の因なり。二には煩悩 無辺誓願断。これはこれ摂律儀戒なり。またこれ断徳の心なり。またこれ正因 P--904 仏性なり。法身の菩提の因なり。三には法門無尽誓願知。これはこれ摂善法 戒なり。またこれ智徳の心なり。またこれ了因仏性なり。報身の菩提の因な り。四には無上菩提誓願証。これはこれ仏果菩提を願求するなり。いはく、前 の三の行願を具足するによりて、三身円満の菩提を証得して、還りてまた広く 一切衆生を度するなり。二に縁理の願とは、一切の諸法は、本来寂静なり。 有にあらず無にあらず、常にあらず断にあらず、生ぜず滅せず、垢れず浄から ず。一色・一香も、中道にあらずといふことなし。生死即涅槃、煩悩即菩提な り。一々の塵労門を翻ずれば、すなはちこれ八万四千の諸波羅蜜なり。無明変 じて明となる、氷融けて水となるがごとし。さらに遠き物にあらず。余処より 来るにもあらず。ただ一念の心にあまねくみな具足せること、如意珠のごとし。 宝あるにもあらず、宝なきにもあらず。もし「なし」といはばすなはち妄語な り。もし「あり」といはばすなはち邪見なり。心をもつて知るべからず。言を もつて弁ずべからず。衆生、この不思議・不縛の法のなかにおいて、しかも思 想して縛をなし、無脱の法のなかにおいて、しかも脱を求む。このゆゑにあま ねく法界の一切衆生において、大慈悲を起し、四弘誓を興す。これを順理の発 P--905 心と名づく。これ最上の菩提心なり。[『止観』の第一を見るべし。]また『思益経』 にのたまはく、「一切の法は法にあらずと知り、一切の衆生は衆生にあらずと 知る。これを菩薩の、無上菩提心を発すと名づく」と。また『荘厳菩提心経』 にのたまはく、「菩提心とは、有にあらず造にあらず、文字を離れたり。菩提 はすなはちこれ心なり。心はすなはちこれ衆生なり。もしよくかくのごとく解 するを、これを、菩薩の菩提を修すと名づく。菩提は過去・未来・現在にあら ず。かくのごとく、心と衆生と、また過去・未来・現在にあらず。よくかくの ごとく解するを名づけて菩薩となす。しかもこのなかにおいて、実に所得なし。 所得なきをもつてのゆゑに得。もし一切の法において所得なくは、これを菩提 を得と名づく。始行の衆生のためのゆゑに、菩提ありと説く。{乃至}しかもこの なかにおいて、また心もあることなく、また造心のものもなし。また菩提もあ ることなく、また造菩提のものもなし。また衆生もあることなく、また造衆生 のものもなし」と。{乃至云々}この二の四弘におのおの二の義あり。一にはいはく、 初めの二の願は衆生の苦・集二諦の苦を抜く。後の二の願は衆生に道・滅二諦 の楽を与ふ。二にはいはく、初めの一は他に約す。後の三は自に約す。いはく、 P--906 衆生の二諦の苦を抜き、衆生に二諦の楽を与ふることは、総じて初めの願のな かにあり。この願を究竟円満せんと欲ふがために、さらに自身に約して後の三 の願を発す。『大般若経』(意)にのたまふがごとし。「有情を利せんがために 大菩提を求む。ゆゑに菩薩と名づく。しかも依着せず。ゆゑに摩訶薩と名づ く」と。{以上}また前の三はこれ因にして、これ別なり。第四はこれ果にして、 これ総なり。四弘已りて後は、いふべし、   「自他法界同利益 共生極楽成仏道」と。 心のなかに念ふべし、「われと衆生と、ともに極楽に生れて、前の四弘願を円 満究竟せん」と。もし別願あるものは、四弘の前にこれを唱へよ。もし心不浄 なるは、正道の因にあらず。もし心に限ることあるは、大菩提にあらず。もし 誠を至すことなくは、その力強からず。このゆゑに、かならず清浄にして深 広なる誠の心を須ゐよ。勝他・名利等の事のためにせざれ。しかも仏眼の照ら すところの無尽法界の一切の衆生、一切の煩悩、一切の法門、一切の仏徳にお いて、この四種の願と行とを発せ。  問ふ。なんの法のなかにおいてか、無上道を求むる。答ふ。これに利・鈍の P--907 二種の差別あり。『大論』(大智度論)にいふがごとし。「黄石のなかに金の性 あり、白石のなかに銀の性あるがごとく、かくのごとく一切世間の法のなか に、みな涅槃の性あり。諸仏・賢聖は、智慧・方便・持戒・禅定をもつて引導 して、この涅槃の法性を得しめたまふ。利根のものは、すなはちこの諸法はみ なこれ法性なりと知ること、たとへば、神通の人の、よく瓦石を変じてみな金 となさしむるがごとし。鈍根のものは、方便・分別してこれを求めて、すなは ち法性を得。たとへば、大きに石を冶し鼓して、しかして後に金を得るがごと し」と。{以上}またいはく(同)、「苦行・頭陀し、初・中・後夜に勤心に観禅し て、苦しくして道を得るは声聞の教なり。諸法の相は無縛無解なりと観じて、 心、清浄なることを得るは菩薩の教なり。文殊師利の本縁のごとし」と。{以上} すなはち、『無行経』の喜根菩薩の偈を引きていはく(大智度論)、   「婬欲はすなはちこれ道なり。恚・痴もまたしかなり。   かくのごとき三事のなかに、無量の諸仏の道あり。   もし人ありて、婬・怒・痴とおよび道とを分別するは、   この人は仏道を去ること、たとへば天と地とのごとし」と。 P--908 かくのごとく七十余の偈あり。また同論にいはく、「一切の法の不可得なる、 これを仏道と名づく。すなはちこれ諸法の実相なり。この不可得もまた不可得 なり」と。{略抄}また迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく(涅槃経)、   「一切諸法のなかに、ことごとく安楽の性あり。   ただ願はくは大世尊、わがために分別して説きたまへ」と。 また『般若経』にのたまはく、「一切有情はみな如来蔵なり。普賢菩薩の自体、 遍せるがゆゑに」と。『法句経』にのたまはく、   「諸仏は貪瞋によりて、道場に処したまふ。   塵労は諸仏の種なり。もとよりこのかた所動なし。   五蓋および五欲を、諸仏の種性となす。   つねにこれをもつて荘厳せり。もとよりこのかた所動なし。   諸法はもとよりこのかた、是もなくまた非もなし。   是非の性、寂滅せり。もとよりこのかた所動なし」と。[以上四文、これ利根   の人の菩提心なるのみ。]  問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。答 P--909 ふ。かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。もつぱら仏 弟子にあらず。いま反質していはく、なんぢ、もし煩悩即菩提なるがゆゑに欣 ひて煩悩・悪業を起さば、また生死即涅槃なるがゆゑに欣ひて生死の猛苦を受 くべし。なんがゆゑぞ、刹那の苦果においては、なほ堪へがたきことを厭ひ、 永劫の苦因においては、みづからほしいままに作ることを欣ふや。このゆゑに、 まさに知るべし、煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・用異なるがゆゑ に染・浄不同なり。水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。その体これ一 なれども、時に随ひて用異なるなり。これによりて、道を修するものは本有の 仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。『涅槃経』の 三十二にのたまふがごとし。「善男子、もし人ありて問はく、〈この種子のな かに果ありや、果なきや〉と。さだめて答へていふべし、〈またはあり、また はなし〉と。なにをもつてのゆゑに。子を離れてほかに果を生ずることあたは ず。このゆゑに〈あり〉と名づく。子いまだ芽を出さず。このゆゑに〈なし〉 と名づく。この義をもつてのゆゑに、〈またはあり、またはなし〉と。所以は いかん。時節は異なることあれども、その体はこれ一なり。衆生の仏性もまた P--910 かくのごとし。もし衆生のなかに、別に仏性ありといはば、この義しからず。 なにをもつてのゆゑに。衆生すなはち仏性なり、仏性すなはち衆生なり。ただ 時の異なるをもつて、浄・不浄あり。善男子、もしあるが問ひていはく、〈こ の子はよく果をなすやいなや、この果はよく子をなすやいなや〉と。さだめて 答へていふべし、〈または生じ、生ぜず〉」と。{以上}  問ふ。凡夫は勤修するに堪へず。なんぞ虚しく弘願を発さんや。答ふ。たと ひ勤修に堪へずとも、なほすべからく悲願を発すべし。その益、無量なり。前 後に明かすがごとし。調達(提婆達多)は六万蔵の経を誦せしも、なほ那落を 免れず。慈童は一念の悲願を発して、たちまちに兜率に生るることを得たり。 すなはち知りぬ。昇沈の差別は心にありて、行にあらず。いかにいはんや、い づれの人か、一生のうちに、一たびも「南無仏」と称せず、一食をも衆生に施 さざるものあらん。すべからくこれらの微少の善根をもつて、みな四弘の願行 に摂入すべし。ゆゑに行願相応して、虚妄の願とならじ。『優婆塞戒経』の 第一にのたまふがごとし。「もし人、一心に生死の過咎、涅槃の安楽を観察す ることあたはずは、かくのごとき人は、また恵施・持戒・多聞なりといへども、 P--911 つひに解脱分の法を得ることあたはず。もしよく生死の過咎を厭患し、深く涅 槃の功徳と安楽とを見ば、かくのごとき人は、また少施・少戒・少聞なりとい へども、すなはちよく解脱分の法を獲得せん」と。[以上、無量世において、無量 の財をもつて無量の人に施し、無量仏の所にして禁戒を受持し、無量世に無量の仏の所に して十二部経を受持・読誦せるを、名づけて多の施・戒・聞となす。一把の&M047733;をもつて、 一の乞人に施し、一日一夜、八戒を受持し、一の四句偈を読むを、少の施・戒・聞と名づ く。『経』(優婆塞戒経)に広く説くがごとし。]このゆゑに、行者、事に随ひて用 心すれば、乃至一善をも空しく過ぐすものなし。『大般若経』にのたまふがご とし。「もしもろもろの菩薩の、深般若波羅蜜多の方便善巧を行ずるは、一 心・一行として空しく過ぐして、一切智に回向せざるものはあることなし」と。 {以上}  問ふ。いかんが用心する。答ふ。『宝積経』の九十三にのたまふがごとし。 「食を須つものには食を施せ、一切智の力を具足せんがためのゆゑなり。飲を 須つものには飲を施せ、渇愛の力を断ぜんがためのゆゑなり。衣を須つものに は衣を施せ、無上の慚愧の衣を得んがためのゆゑなり。坐処を施すは、菩提樹 P--912 下に坐せんがためのゆゑなり。灯明を施すは、仏眼の明を得んがためのゆゑな り。紙墨等を施すは、大智慧を得んがためのゆゑなり。薬を施すは、衆生の結 使の病を除かんがためのゆゑなり。かくのごとく、乃至、あるいはみづから財 なくは、まさに心の施をなすべし。無量無辺の一切衆生を開示することを得ん と欲せば、力あるも力なきも、上のごとく布施すべし。これわが善行なり」と。 [以上、『経』(宝積経)の文はなはだ広し。いま略してこれを抄す。見つべし。]かくの ごとく事に随ひて、つねに心願を発せ。「願はくは、この衆生をしてすみやか に無上道を成ぜしめん。願はくは、われかくのごとく漸々に第一の願行を成就 し、檀度を円満して、すみやかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。一の愛 語を発し、一の利行を施し、一の善事を同ぜんにも、これに准じて知りぬべし。 もししばらくも一念の悪を制伏する時には、この念をなすべし。「願はくは、 われかくのごとく漸々に第二の願行を成就し、もろもろの惑業を断じて、すみ やかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。もし一文一義を読誦修習する時に は、この念をなすべし。「願はくは、われかくのごとく漸々に第三の願行を成 就し、諸仏の法を学してすみやかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。一切 P--913 の事に触れて、つねに用心をなせ。「われ今身より漸々に修学して、乃至、極 楽に生れて自在に仏道を学し、すみやかに菩提を証して、究竟して生を利せ ん」と。もしつねにこの念を懐きて、力に随ひて修行するものは、&M017772;りの微な りといへども、やうやく大なる器に盈つがごとし。この心よく巨細の万善を持 ちて、漏落せしめずして、かならず菩提に至る。『華厳経』の「入法界品」に のたまふがごとし。「たとへば、金剛の、よく大地を持ちて墜没せしめざるが ごとく、菩提の心もまたかくのごとし。よく菩薩の一切の願行を持ちて、墜落 して三界に没せしめず」と。{云々}  問はく、凡夫は常途の用心に堪へず。その時の善根は唐捐なりとやせん。答 ふ。もし至誠心をもつて、心に念ひ口にいはく、「われ今日よりは、乃至一善 をも己身の有漏の果報のためにせず、ことごとく極楽のためにせん、ことごと く菩提のためにせん」と。この心を発しつる後には、あらゆるもろもろの善は、 もしは覚し、覚せざるも、自然に無上菩提に趣向す。一たび渠溝を穿りつれば、 もろもろの水おのづから流入して、転じて江河に至り、つひに大海に会するが ごとし。行者もまたしかり。一たび発心しつる後には、もろもろの善根の水も P--914 自然に四弘願の渠に流入して、転じて極楽に生じ、つひに菩提の薩婆若海に会 す。いかにいはんや、時々に前の願を憶念せんをや。つぶさには下の回向門の ごとし。  問ふ。凡夫は力なければ、よく捨てんとして捨てがたし。あるいはまた貧乏 なり。なんの方便をもつてか、心をして理に順ぜしめん。答ふ。『宝積経』 にのたまはく、「かくのごとく布施せんに、もし力あることなくしてこれを学 するにあたはず、財を捨つることあたはずは、この菩薩はかくのごとく思惟す べし。〈われ、いままさにつとめて精進を加へ、時々漸々に慳貪・吝惜の垢を 断除すべし。われ、まさにつとめて精進を加へ、時々漸々に財を捨てて施与す ることを学して、つねにわが施心をして増長し広大ならしむべし〉」と。また 『因果経』の偈にのたまはく、   「もし貧窮の人ありて、財の布施すべきものなくは、   他の施を修するを見る時に、しかも随喜の心をなせ。   随喜の福報は、施と等しくして異なることなし」と。 『十住毘婆沙』の偈にいはく、 P--915   「われ、いまこれ新学なり。善根いまだ成就せず。   心いまだ自在を得ず。願はくは後にまさにあひ与ふべし」と。{以上} 行者、まさにかくのごとく用心すべし。  問ふ。このなかに、理を縁じて菩提心を発すも、また因果を信じて、つとめ て道を修行すべきや。答ふ。理、かならずしかるべし。『浄名経』(維摩経) の偈にのたまふがごとし。   「諸仏の国と、および衆生との空なることを観ずといへども、   しかもつねに浄土を修し、もろもろの群生を教化す」と。 『中論』の偈にいはく、   「空なりといへどもまた断ぜず。有なりといへどもしかも常ならず。   業と果報とは失せず。これを仏の所説と名づく」と。 また『大論』(大智度論)にいはく、「もし諸法皆空ならばすなはち衆生なし。 たれか度すべきものあらん。この時は悲心、すなはち弱し。あるいは時に衆生 の愍れむべきをもつてせば、諸法の空観において弱し。もし方便力を得つれば、 この二法において等しくして偏党なし。大悲心は、諸法の実相を妨げず。諸法 P--916 の実相を得れども、大悲を妨げず。かくのごとき方便を生ずる、この時、すな はち菩薩の法位に入り、阿&M042889;跋致地に住することを得」と。{略抄}  問ふ。もし偏して解をなさば、その過いかんぞ。答ふ。『無上依経』の上巻 に、空見を明かしてのたまはく、「もし人ありて、我見を執すること須弥山の 大きさのごとくせんをば、われ驚怖せず、また毀呰せず。増上慢の人の、空見 に執着すること一髦髪を十六分になさんがごとくせんをば、われ許可さず」 と。また『中論』の第二の偈にいはく、   「大聖(釈尊)の、空法を説きたまふことは、諸見を離れしめんがための   ゆゑなり。   もしまた空ありと見るは、諸仏化せざるところなり」と。 『仏蔵経』の「念僧品」に、有所得の執を破してのたまはく、「有所得のもの は、我・人・寿者・命者ありと説き、無所有の法を憶念し分別して、あるいは 断・常と説き、あるいは有作と説き、あるいは無作と説く。わが清浄の法、 この因縁をもつて漸々に滅尽せん。われ、久しく生死にありて、もろもろの苦 悩を受けて成ぜるところの菩提をば、このもろもろの悪人、その時に毀壊せ P--917 ん」と。{略抄}また同経の「浄戒品」にのたまはく、「我見・人見・衆生見のも のは、多く邪見に堕つ。断滅見のものは、多く疾く道を得。なにをもつてのゆ ゑに。これをば捨てやすきがゆゑに。このゆゑにまさに知るべし、この人はむ しろみづから利き刀をもつて舌を割くとも、衆のなかにして不浄に説法すべか らず」と。[有所得執を名づけて不浄となす。]『大論』(大智度論)の第一に、並べ て二執の過を明かしていはく、「たとへば、人の、狭き道を行くに、一辺は深 水、一辺は大火にして、二辺ともに死するがごとし。有に着するも、無に着す るも、二事ともに失す」と。{以上}このゆゑに、行者、つねに諸法の本来空寂な るを観じ、またつねに四弘の願行を修習せよ。空と地とによりて宮舎を造立せ んとするも、ただ地、ただ空にしては、つひに成ずることあたはざるがごとし。 これはこれ諸法の三諦相即せるによるがゆゑなり。『中論』の偈にいふがごと し。   「因縁所生の法をば、われすなはちこれ空なりと説く。   また名づけて仮名となす。またこれ中道の義なり」と。{云々} さらに『止観』を&M012779;へよ。 P--918  問ふ。執有の見、罪過すでに重くは、縁事の菩提心、あに勝利あらんや。答 ふ。堅く有を執する時に、過失すなはち生ず。いふところの縁事とは、かなら ずしも堅執にあらず。もししからずは、見有得道の類なかるべし。見空もまた しかり。たとへば、火を用ゐるに、手触るれば害をなし、触れざれば益あるが ごとし。空・有もまたしかり。 【40】 二に利益を明かさば、もし人、説のごとくして菩提心を発さば、たとひ 余の行を少くとも、願に随ひて決定して極楽に往生しなん。上品下生の類これ なり。かくのごとき利益、無量なり。いま略して一端を示さん。『止観』にい はく、「『宝梁経』にのたまはく、〈比丘の、比丘の法を修せざるは、大千に 唾する処なし。いはんや、人の供養を受けんをや。六十の比丘、悲泣して仏に まうさく、《われら、たちまちに死すとも、人の供養を受くることあたはじ》 と。仏ののたまはく、《なんぢ、慚愧の心を起せり。善きかな、善きかな》と。 一の比丘、仏にまうしてまうさく、《なんらの比丘か、よく供養を受くる》と。 仏ののたまはく、《もし比丘の数にありて、僧の業を修し、僧の利を得たるも の、この人よく供養を受く。四果の向はこれ僧の数なり。三十七品はこれ僧の P--919 業なり。四果はこれ僧の利なり》と。比丘、かさねて仏にまうさく、《もし大 乗の心を発すものは、またいかんぞ》と。仏ののたまはく、《もし大乗の心を 発して一切智を求むるは、数に堕せず、業を修せず、利を得ずとも、よく供養 を受けてん》と。比丘驚きて問ひたてまつる。《いかんが、この人よく供養を 受くる》と。仏ののたまはく、《この人、衣を受けて用ゐて大地に敷き、揣食 を受くること須弥山のごとくすとも、またよくつひに施主の恩を報じてん》〉 と。まさに知るべし、小乗の極果は、大乗の初心に及ばず」と。[以上、信施を 消す。]  またいはく(摩訶止観)、「『如来密蔵経』に説かく、〈もし人、父の縁覚とな りしを害し、三宝の物を盗み、母の羅漢となりしを汚し、不実の事をもつて仏 を謗り、両舌して賢聖を間て、悪口して聖人を罵り、求法のものを壊乱し、五 逆の初業の瞋りと、持戒の人の物を奪ふ貪りと、辺見の痴とあらば、これを十 悪のものとなす。もしよく、如来の、因縁の法は我・人・衆生・寿命なく、生 なく滅なく染なく着なく、本性清浄なりと説きたまふことを知り、また一切 法において本性清浄なりと知りて、解知し信入せば、われ、この人は地獄お P--920 よびもろもろの悪道に趣向すと説かず。なにをもつてのゆゑに。法は積聚なく、 法は集悩なし。一切の法は、生ぜず住せず、因縁和合して生起することを得。 生じをはれば、還りて滅しぬ。もし心、生じをはりて滅すれば、一切の結使も また生じをはりて滅しぬ。かくのごとく解すれば、犯処なし。もし犯あり住あ りといはば、この処あることなし。百年の闇室に、もし灯を燃す時には、闇、 《われはこれ室の主なり。ここに住すること久しく、しかもあへて去らじ》と いふべからず。灯もし生じぬれば、闇すなはち滅しぬるがごとし〉と。その義 またかくのごとし。この経は、つぶさに前の四の菩提心を指す」と。[以上、か の『経』(如来秘密蔵経)の下巻にあり。「前の四」といふは、四教の菩提心を指す。] 『華厳経』の「入法界品」(意)にのたまはく、「たとへば、善見薬王の、一切 の病を滅するがごとく、菩提心の薬も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す。 たとへば、牛・馬・羊の乳を合して一器に在きて、獅子の乳をもつてかの器の なかに投るれば、余の乳は消尽して、ただちに過ぐること礙なきがごとく、如 来師子の菩提心の乳を、無量劫に積めるところのもろもろの業・煩悩の乳のな かに着けば、みなことごとく消尽して、声聞・縁覚の法のなかに住せず」と。 P--921 『大般若経』にのたまはく、「もしもろもろの菩薩、多く五欲相応の非理の作 意を発起すといへども、しかも一念、無上の菩提と相応せる心を起さば、すな はちよく折滅す」と。[以上三の文、滅罪の益なり。]「入法界品」にのたまはく、 「たとへば、人ありて、不可壊薬を得つれば、一切の怨敵もその便りを得ざる がごとく、菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。菩提心の不壊の法薬を得つれば、 一切の煩悩・諸魔・怨敵も壊することあたはざるところなり。たとへば、人あ りて、住水宝珠を得て、その身に瓔珞としつれば、深水のなかに入れども、し かも没溺せざるがごとく、菩提心の住水宝珠を得つれば、生死海に入れども、 しかも沈没せず。たとへば、金剛の、百千劫に水のなかに処すれども、しかも 爛壊せず、また変異なきがごとく、菩提の心もまたかくのごとし。無量劫に生 死のなかに処すれども、もろもろの煩悩・業も断滅することあたはず。また損 減なし」と。また同経の法幢菩薩の偈にのたまはく、   「もし智慧ある人、一念も道心を発せば、   かならず無上尊となる。つつしみて疑惑をなすことなかれ」と。[以上、つ   ひに敗壊せずして、かならず菩提に至る益なり。] P--922 また「入法界品」にのたまはく、「たとへば、閻浮檀金の、如意宝を除きては 一切の宝に勝れたるがごとく、菩提の心の閻浮檀金もまたかくのごとし。一切 智を除きてはもろもろの功徳に勝れたり。たとへば、迦陵頻伽鳥の、&M016693;のなか にある時に大勢力ありて、余の鳥及ばざるがごとく、菩薩摩訶薩もまたかくの ごとし。生死の&M016693;にして、菩提心を発せるに、功徳の勢力は、声聞・縁覚の及 ぶことあたはざるところなり。たとへば、波利質多樹の華をもつて、一日衣に 熏じつれば、瞻蔔華・婆師華をもつて千歳熏ずといへども及ぶことあたはざる ところなるがごとく、菩提心の華もまたかくのごとし。一日熏ずるところの功 徳の香、十方の仏の所に徹りて、一切の声聞・縁覚の、無漏の智をもつてもろ もろの功徳を熏ずること、百千劫においてせるも、及ぶことあたはざるところ なり。たとへば、金剛の、破れて全からずといへども、一切のもろもろの宝の、 なほ及ぶことあたはざるがごとく、菩提の心もまたかくのごとし。少し懈怠な りといへども、声聞・縁覚のもろもろの功徳の宝の、及ぶことあたはざるとこ ろなり」と。[以上、『経』(華厳経)のなかに二百余の喩へあり。見るべし。]「賢首 品」の偈にのたまはく、 P--923   「菩薩、生死にして最初に発心する時、   一向に菩提を求むること、堅固にして動ずべからず。   かの一念の功徳、深広にして岸際なし。   如来、分別して説きたまはんに、劫を窮むるも尽すことあたはじ」と。[こ   こにいふ「発心」は凡聖に通ず。つぶさに『弘決』を見よ。] また同経の偈にのたまはく、   「一切衆生の心をば、ことごとく分別して知りぬべし。   一切刹の微塵をば、なほその数を算へつべし。   十方の虚空界をば、一毛をもつてなほ量りつべし。   菩薩の初発心をば、究竟して測るべからず」と。 また『出生菩提心経』の偈にのたまはく、   「もしこの仏刹のもろもろの衆生を、信心および持戒に住せしめたらん、   かの最上の大福聚のごときは、道心の十六分には及ばじ。   もしこの仏刹のもろもろの衆生を、信心に住し法において行ぜしめん、   かの最上の大福聚のごときは、道心の十六分には及ばじ。 P--924   もし諸仏の刹の、恒河沙のごとくならんに、みなことごとく寺を造りて福   を求めんがゆゑにし、   またもろもろの塔を造ること須弥のごとくせんも、道心の十六分には及ば   ず。{乃至}   かくのごとき人等は勝法を得んも、もし菩提を求めて衆生を利せば、   かれら衆生の最勝なるものなり。これ比類なし。いはんや上あらんや。   このゆゑにこの諸法を聞くことを得ては、智者はつねに楽法の心をなし、   まさに無辺の大福聚を得て、すみやかに無上道を証することを得べし」と。 『宝積経』の偈にのたまはく、   「菩提心の功徳、もし色方分あらば、   虚空界に周遍して、よく容受するものなからん」と。{云々} 菩提心には、かくのごとき勝利あり。このゆゑに迦葉菩薩の礼仏の偈(涅槃経) にのたまはく、   「発心と畢竟とは二つ別なし。かくのごとき二心において前の心難し。   みづからいまだ度することを得ずして、先づ他を度す。このゆゑにわれ初 P--925   発心を礼す」と。 また弥伽大士、善財童子の、すでに菩提心を発せることを聞きて、すなはち獅 子の座より下り、大光明を放ちて三千界を照らし、五体を地に投げて、童子を 礼讃せり。[以上、総じて勝利を顕す。]  問ふ。縁事の誓願もまた勝利ありや。答ふ。縁理にしかずといへども、これ また勝利あり。なにをもつてか知るとならば、上品下生の業にいはく(観経)、 「ただ無上道心を発す」と。第一義を解るとはいはず。ゆゑに知りぬ、ただこ れ事の菩提心なり。もししからずは、かの中生の業と別なかるべし。[その一。] 『往生論』(天親の浄土論)に菩提心を明かすに、ただいへり、「一切衆生の苦 を抜くをもつてのゆゑに。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに。 衆生を摂取してかの国土に生れしめんをもつてのゆゑに」と。{云々}もし縁事の 心に往生の力なくは、論主(天親)あに縁理の心を示さざらんや。[その二。]『大 論』(大智度論)の第五の偈にいはく、   「もし初発心の時に、まさに仏に作るべしと誓願すれば、   すでにもろもろの世間に過ぎたり。まさに世の供養を受くべし」と。{云々} P--926 この『論』(大智度論)にもまた、ただ「願作仏」といへり。明らけし、事の菩 提心もまたつひに信施を消すといふことを。[その三。]『止観』に、『秘密蔵経』 を引きをはりていはく、「初めの菩提心、すでによく重々の十悪を除く。い はんや、第二・第三・第四の菩提心をや」と。{云々}いふところの「初め」とは、 これ三蔵教の、界内の事を縁ずる菩提心なり。いかにいはんや、深く一切衆生 にことごとく仏性ありと信じて、あまねく自他ともに仏道を成ぜんと願ぜんに、 あに罪を滅することなからんや。[その四。]『唯識論』にいはく、「菩提と有情と の実有を執せずは、猛利の悲願を発起するに由なし」と。{以上}大士の悲願すら なほ有を執して起る。すなはち知りぬ、事の願もまた勝利ありといふことを。 [その五。]余は下の回向門のごとし。  問ふ。衆生にもとより仏性ありと信解することは、あに縁理にあらずや。答 ふ。これはこれ、大乗至極の道理を信解するなり。かならずしも第一義空相応 の観慧にはあらず。  問ふ。『十疑』に『雑集論』を引きていはく、「もしは安楽浄土に生れんと 願ひて、すなはち往生を得るものあり。もしは人、無垢仏の名を聞きて、すな P--927 はち阿耨菩提を得るものあり。これはこれ別時の因なり。まつたく行あること なし」と。{以上}慈恩(窺基)同じくいはく(西方要決)、「願と行と前後するがゆ ゑに、別時と説く。仏を念ずるに、即生せずといはんとにはあらず」と。{以上} あきらかに知りぬ、願ありて行なきは、これ別時の意なり。いかんぞ、上品下 生の人、ただ菩提の願によりてすなはち往生することを得るや。答ふ。大菩提 心は功能甚深なり。無量の罪を滅し、無量の福を生ず。ゆゑに浄土を求むれば、 求むるに随ひてすなはち得。いふところの別時の意といふは、ただ自身のため に極楽を願求するなり。これ、四弘願の広大の菩提心にはあらず。  問ふ。大菩提心、もしこの力あらば、一切の菩薩は、初発心より決定して悪 趣に堕するものなかるべし。答ふ。菩薩、いまだ不退の位に至らざる前は、 染・浄の二の心、間雑して起る。前念に衆罪を滅すといへども、後念にさらに 衆罪を造る。また、菩提心に浅深・強弱あり、悪業に久近・定不定あり。この ゆゑに、退位にては昇沈不定なり。菩提心に滅罪の力なきにはあらず。しばら く愚管を述す。見るもの取捨せよ。 【41】 三に料簡とは、問ふ、「入法界品」にのたまはく、「たとへば、金剛は P--928 金性より生じて、余宝より生ずるにあらざるがごとく、菩提心の宝もまたかく のごとし。大悲をもつて衆生を救護する性より生じて、余の善より生ずるにあ らず」と。『荘厳論』の偈にいはく、   「つねに地獄に処すといへども、大菩提をば障へず。   もし自利の心を起さば、これ大菩提の障なり」と。 また『丈夫論』の偈にいはく、   「悲心をもつて一人に施するは、功徳の大きなること地のごとし。   おのがために一切に施するは、報を得ること芥子のごとし。   一の厄難の人を救ふは、余の一切の施には勝れたり。   もろもろの星に光ありといへども、一の月の明にはしかず」と。{以上} 明らけし、自利の行はこれ菩提心の所依にあらざれば、報を得ることまた少な し。いかんぞ、独りすみやかに極楽に生ぜんと願ずるや。答ふ。あに前にいは ずや、極楽を願ずるものはかならず四弘願を発して、願に随ひて勤修せよとは。 これあに、これ大悲心の行にあらずや。また、極楽を願求すること、これ自利 の心にあらず。しかる所以は、いまこの娑婆世界は留難多し。甘露のいまだ沾 P--929 はざるに、苦海朝宗しぬ。初心の行者、なんの暇ありてか道を修せん。ゆゑに いま菩薩の願行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと欲ふがために、先づ 極楽を求むるなり。自利のためにはせず。『十住毘婆沙』にいふがごとし、「み づからいまだ度することを得ずは、かれを度することあたはず。人のみづから 於泥に没せるがごとき、なんぞよく余人を拯済せん。また、水のために漂はさ るるもの、溺れたるものを済ふことあたはざるがごとし。このゆゑに説かく、 〈われ度しをはりて、まさにかれを度すべし〉」と。また『法句経』の偈に説 くがごとし。   「もしよくみづから身を安んじて、善処にあらば、   しかして後に余人を安んじて、みづからと所利を同じくせよ」と。{以上} ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜 せんと欲ふがゆゑなり。すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。も し悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せ られて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。かくのごとく輪転して、無始 よりこのかたいまだかつて休息せず。いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふこ P--930 とを得ん〉と。これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、 まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。{以上} 余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。知りぬべし、念仏・修善を業因と なし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受 するがごとし。  問ふ。念仏の行は、四弘のなかにおいて、これいづれの行の摂ぞ。答ふ。念 仏三昧を修するは、これ第三の願行なり。随ひて伏滅するところあるは、これ 第二の願行なり。遠近に良縁を結ぶは、これ第一の願行なり。功を積み徳を累 ぬるは、第四の願を成ずるなり。自余の衆善は例して知れ。俟たざれ。  問ふ。一心に仏を念ぜば、理また往生すべし。なんぞかならず経論に菩提の 願を勧むるや。答ふ。『大荘厳論』にいはく、「仏国は事大なれば、独り行の 功徳をもつては成就することあたはず。かならず願力を須ゐるべし。牛は力あ りといへども、車を挽くにかならず御者を須ゐて、よく至る所あるがごと く、仏の国土を浄むるも願によりて引成す。願力をもつてのゆゑに福慧増長 P--931 す」と。{以上}『十住毘婆沙論』にいはく、「一切の諸法は願を根本となす。願 を離れてはすなはち成ぜず。このゆゑに願を発す」と。またいはく(易行品)、   「もし人、仏に作らんと願じて、心に阿弥陀を念ずれば、   時に応じてために身を現じたまふ。このゆゑにわれ帰命したてまつる」と。   {以上} 大菩提心、すでにこの力あり。このゆゑに行者かならずこの願を発せ。  問ふ。もし願を発さざるものは、つひに往生せざるや。答ふ。諸師不同なり。 あるがいはく、「九品生の人はみな菩提心を発す。その中品の人は、本これ小 乗なりといへども、後に大心を発してかの国に生ずることを得。かの本習によ りてしばらく小果を証す。その下品の人は、大心を退せりといへども、しかも その勢力なほありて、生ずることを得」と。[慈恩(窺基)これに同じ。]あるがい はく、「中・下品はただ福分によりて生じ、上品は福分・道分を具して生ず」 と。{云々}「道分」とは、これ菩提心の行なり。  問ふ。菩提心に諸師の異解あるがごとく、浄土を欣ふ心もまた不同なりや。 答ふ。大菩提心には異説ありといへども、浄土を欣ふ願は、九品にみな具すべ P--932 し。  問ふ。もし浄土の業、願によりて報を得ば、人の、悪を作りて地獄を願はざ るがごとき、かれ地獄の果報を得べからずや。答ふ。罪の報は有量なれども、 浄土の報は無量なり。二果すでに別なり。二因なんぞ一例せんや。『大論』 (大智度論)の第八にいふがごとし。「罪福には定報ありといへども、ただ願を なすものは、小福を修すれども、願力あるがゆゑに大果報を得。一切衆生はみ な楽を得んと願ひて、苦を願ふものはなし。このゆゑに地獄を願はず。これを もつてのゆゑに、福は無量の報あれども、罪報は有量なり」と。{略抄}  問ふ。なんらの法をもつてか、世々に大菩提の願を増長して忘失せざる。答 ふ。『十住婆沙』の第三の偈にいはく、   「乃至、身命、転輪聖王の位を失はんも、   これにおいてなほ妄語し、諂曲を行ずべからず。   よくもろもろの世間の一切衆生の類をして、   もろもろの菩薩衆において、恭敬の心を生ぜしめよ。   もし人ありて、よくかくのごとき善法を行ずるは、 P--933   世々に無上菩提の願を増長することを得ん」と。[文中にまた二十種の失菩提   心の法あり。見るべし。] 往生要集 巻上 P--934 #1往生要集 #2巻中    往生要集 巻中 [尽第六別時念仏門]                       天台首楞厳院沙門源信撰 【42】 第四に観察門とは、初心の観行は深奥に堪へず。『十住毘婆沙』(意)に いふがごとし。「新発意の菩薩は先づ仏の色相を念ず」と。また諸経のなかに、 初心の人のためには、多く相好の功徳を説けり。このゆゑにいままさに色相の 観を修すべし。これを分ちて三となす。一には別相観、二には総相観、三には 雑略観なり。意楽に随ひてこれを用ゐるべし。 【43】 初めに別相観とは、また二あり。先づ華座を観ず。『観経』にのたまは く、「かの仏を観ぜんと欲はば、まさに想念を起すべし。七宝の地の上におい て蓮華の想をなし、その蓮華の一々の葉をして百宝色〔ありとの想〕をなさしめ よ。〔その葉に〕八万四千の脈ありて、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光 あり。了々分明にして、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきものは、縦 広二百五十由旬なり。かくのごとき華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだ P--935 に百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾となせり。一々の摩尼珠は、千の光明を 放つ。その光〔天〕蓋のごとくして、七宝合成して、あまねく地の上に布けり。 釈迦毘楞伽宝、もつてその台となせり。この蓮華台は、八万の金剛・甄叔迦 宝・梵摩尼宝・妙真珠網、もつて交飾となせり。その台上において、自然にし て四柱の宝幢あり。一々の宝幢は、百千万億の須弥山のごとし。幢の上の宝縵 は、夜摩天宮のごとし。五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾となせり。一 一の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々 の金光、その宝土にあまねくして、処々に変化して、おのおの異相をなす。あ るいは金剛台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方の 面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想となす。かく のごとき妙華は、これ本法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲 ふものは、まさに先づこの華座の想をなすべし。この想をなす時には雑観する ことを得ざれ。みな一々にこれを観ずべし。一々の葉、一々の珠、一々の光、 一々の台、一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにみづから面像を見るが ごとくせよ。この観をなすを、名づけて正観となす。もし他観するを、名づけ P--936 て邪観となす」と。[以上、この座の相を観ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除して、 必定してまさに極楽世界に生るべし。]  次にまさしく相好を観ず。いはく、阿弥陀仏は華台の上に坐して、相好炳然 として、その身を荘厳したまへり。  一には、頂の上の肉髻はよく見るものなし。高顕周円なること、なほ天蓋の ごとし。あるいは広く観ずることを楽ふものは、次に観ずべし。かの頂の上に 大光明あり。千の色を具足せり。一々の色は、八万四千の支となり、一々の支 のなかに八万四千の化仏まします。化仏の頂の上より、またこの光を放ちたま ふ。この光あひ次いで、すなはち上方の無量の世界に至る。上方界においても、 化の菩薩ありて、雲のごとくして下りて諸仏を囲繞したてまつれり。[『大集経』 にのたまはく、「父母・師僧・和上を恭敬して、肉髻の相を得たり」と云々。もしこの相 において随喜を生ずるものは、千億劫の極重の悪業を除却して、三途に堕せず。]  二には、頂の上に八万四千の髪毛あり。みな上に向かひて靡き、右に旋りて 生ひたり。永く褫落することなく、また雑乱せず。紺青稠密にして、香潔細 軟なり。もし広く観ずることを楽ふものは、観ずべし。一々の毛孔より旋りて P--937 五の光をなせり。もしこれを申ぶる時には、修長にして量りがたし。[釈尊の髪 のごときは、長さ尼&M019980;楼陀精舎より父王の宮に至りて、城を繞ること七匝せり。]無量の 光あまねく照らして、紺琉璃の色をなし、色のなかに化仏あり、称数すべから ず。この相を現じをはりて、還りて仏の頂に住して、右に旋りて宛転して、す なはち蠡文となる。[『大集経』にのたまはく、「悪事をもつて衆生に加へざるがゆゑに、 髪毛金精の相を得たり」と。]  三には、その髪の際に五千の光あり。間錯分明なり。みな上に向かひて靡き て、もろもろの髪を囲繞せり。頂を繞ること五匝せり。天の画師の所作の画法 のごとし。団円正等にして、細きこと一糸のごとし。その糸のあひだにもろも ろの化仏を生じ、化の菩薩ありて、もつて眷属たり。一切の色像またなかにお いて見ゆ。[広く観ずることを楽ふものは、この観を用ゐるべし。]  四には、耳厚く、広く長くして、輪&M005190;成就せり。あるいは広く観ずべし。七 の毛を旋り生じて、五の光を流出す。その光に千の色あり。色ごとに千の化仏 まします。仏ごとに千の光を放ちて、あまねく十方の無量の世界を照らしたま ふ。[この随好の業因は勘ふべし。『観仏三昧経』(意)にのたまはく、「この好を観ずる P--938 ものは、八十劫の生死の罪を滅し、後世にはつねに陀羅尼の人と眷属たり」と云々。下去 もろもろの利益、みなまた『観仏三昧経』によりて注す。]  五には、額広く平正にして、形相殊妙なり。[この好の業因ならびに利益は勘 ふべし。]  六には、面輪円満にして、光沢熙怡なり。端正皎潔なること、なほ秋の月 のごとし。双べる眉の皎浄なること、天帝の弓に似たり。その色比なくして、 紺琉璃の光あり。[来り求むるものを見て歓喜を生ずるがゆゑに、面輪円満なり。この 相を観ずるものは億劫の生死の罪を除却して、後身の生処に、まのあたり諸仏を見たてま つる。]  七には、眉間の白毫、右に旋りて宛転せり。柔軟なること覩羅綿のごとく、 鮮白なること珂雪に逾えたり。あるいは次に広く観ずべし。これを舒ぶれば、 直くして長大なること白琉璃の筒のごとく、放ちをはれば、右に旋りて頗梨珠 のごとし。[丈六の仏の白毫は五丈なり。右に旋ること経一寸、周囲三寸。]十方の面に おいて、無量の光を現ずること、万億の日のごとくして、つぶさに見るべから ず。ただ光のなかに、もろもろの蓮華を現ず。上は無量塵数の世界を過ぐるま P--939 で、華々あひ次いで、団円正等なり。一々の華の上に、一の化仏坐したまへり。 相好荘厳し、眷属囲繞せり。一々の化仏また無量の光を出し、一々の光のな かにまた無量の化仏まします。このもろもろの世尊は、行ずるもの無数、住す るもの無数、坐するもの無数、臥するもの無数にして、あるいは大慈大悲を説 き、あるいは三十七品、あるいは六波羅蜜、あるいはもろもろの不共の法を説 く。もし広く説かば、一切衆生より十地の菩薩に至るまで、またこれを知るこ とあたはじ。[『大集経』(意)にのたまはく、「他の徳を隠さず、その徳を称揚して、 この相を得たり」と。『観仏経』(意)にのたまはく、「無量劫より昼夜に精進して身心 懈ることなきこと、頭燃を救ふがごとくして、六度・三十七品・十力・無畏・大慈大悲の もろもろの妙功徳を勤修して、この白毫を得たり。この相を観ずるものは、九十六億那由 他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却す」と。]  八には、如来の眼睫はなほ牛王のごとし。紺青にして斉しく整ほりて、あひ 雑乱せず。あるいは次に広く観ずべし。上下におのおの生じて、五百の毛あり。 優曇華の鬚のごとくして、柔軟にして愛楽すべし。一々の毛端より一の光を流 出す。頗梨の色のごとくして、頭を繞ること一匝し、もつぱらに微妙のもろも P--940 ろの青蓮華を生ず。一々の華台に梵天王ありて、青色の蓋を執れり。[『大集経』 にのたまはく、「心を至して無上菩提を求めしがゆゑに、牛王の睫の相を得たり」と。 『大経』(大般涅槃経)にのたまはく、「怨憎を見て善心をなすがゆゑに」と。]  九には、仏眼は青白にして上下ともに&M023307;く。白きものは白宝に過ぎたり。 青きものは青蓮華に勝れたり。あるいは次に広く観ずべし。眼より光明を出し たまふに、分れて四支となりて、あまねく十方の無量の世界を照らす。青き光 のなかには青き色の化仏ましまし、白き光のなかには白き色の化仏まします。 この青白の化仏、またもろもろの神通を現じたまふ。[『大集経』(意)にのたま はく、「慈心を修集し、衆生を愛視して、紺色の目の相を得たり」と云々。小時のあひだ においても、この相を観ずるものは、未来の生処に、眼つねに明浄にして、眼根に病な く、七劫の生死の罪を除却す。]  十には、鼻修く、高く直くして、その孔現ぜず。鋳たる金&M040447;のごとく、鸚鵡 の嘴のごとし。表裏清浄にしてもろもろの塵翳なし。二の光明を出してあま ねく十方を照らし、変じて種々の無量の仏事をなす。[この随好を観ずるものは千 劫の罪を滅し、未来の生処にて上妙の香を聞ぎ、つねに戒香をもつて身の瓔珞となす。] P--941  十一には、唇の色、赤好なること頻婆菓のごとし。上下あひ称へること、量 りのごとくにして厳麗なり。あるいは次に広く観ずべし。団円の光明、仏の口 より出でて、なほ百千の赤き真珠の貫くがごとくして、鼻と白毫と髪とのあひ だに入出す。かくのごとく展転して、円光のなかに入る。[この唇の随好の業等 は勘ふべし。]  十二には、四十の歯は、斉しく、浄く密にして根深く、白きこと珂雪に逾え たり。つねに光明あり。その光紅白にして、人の目を映耀す。[『大経』(大般涅 槃経)にのたまはく、「両舌・悪口・恚心を遠離して、四十の歯、鮮白斉密なる相を得た り」と云々。]  十三には、四の牙、鮮白光潔にして鋒利なること、月のはじめて生づるがご とし。[『大集』にのたまはく、「身口意浄きがゆゑに、四牙、白の相を得たり」と云々。 この唇・口・歯の相を観ずるものは、二千劫の罪を滅す。]  十四には、世尊の舌相は、薄く浄くして、広く長し。よく面輪を覆ひて、耳 髪の際より、乃至梵天に至る。その色、赤銅のごとし。あるいは次に広く観ず べし。舌の上に五の画あり、なほ印文のごとし。笑みたまふ時、舌を動かすに P--942 五の色光を出し、仏を繞ること七匝して、還りて頂より入る。あらゆる神変は 無量無辺なり。[『大集』にのたまはく、「口の四の過を護りて、広長の舌相を得たり」 と云々。この相を観ずるものは、百億八万四千劫の罪を除きて、他世に八十億の仏に値 ふ。]  十五には、舌の下の両辺に二の宝珠あり。甘露を流注して、舌根の上に滴づ。 諸天・世人・十地の菩薩もこの舌根なく、またこの味はひなし。[『大般若』に 異説あり。勘ふべし。『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「飲食を施与するがゆ ゑに、上味の相を得たり」と。]  十六には、如来の咽喉は瑠璃の筒のごとし。状は蓮華を累ねたるがごとし。 出したまふところの音声は詞韻和雅にして、等しく聞えずといふことなし。そ の声洪きに震ひて、なほ天の鼓のごとく、発したまふところの言は、&M027560;均とし て伽陵頻の音のごとし。任運によく大千世界に遍す。もし作意したまふ時には 無量無辺なり。しかも衆生を利せんがために、類に随ひて増減せず。[『大経』 (同・意)にのたまはく、「かの短を訟はず、正法を謗ぜずして、梵音声の相を得たり」 と。『大集』にのたまはく、「もろもろの衆生において、つねに柔軟に語りしがゆゑに」 P--943 と云々。]  十七には、頸より円光を出したまふ。咽喉の上に点相ありて分明なり。一々 の点のなかに一々の光を出す。その一々の光、前の円光を繞りて七匝を満足し て、衆画分明なり。一々の画のあひだに妙蓮華あり。華の上に七仏まします。 一々の化仏におのおの七菩薩ありて、もつて侍者となせり。一々の菩薩、如意 珠を執れり。その珠に金光あり。青・黄・赤・白および摩尼の色、みなことご とく具足して、諸光を囲繞せり。上下・左右、おのおの一尋にして、仏の頸を 囲繞して、了々なること画のごとし。[『無上依経』(意)にのたまはく、「衣服・ 飲食・車乗・臥具、もろもろの荘厳の物を歓喜して施与し、身金色にして、円光一丈なる 相を得たり」と。]  十八には、頸より二の光を出す。その光万色ありて、あまねく十方の一切の 世界を照らす。この光に遇ふものは辟支仏となる。この光、もろもろの辟支仏 の頸を照らす。この相現ずる時、行者、あまねく十方一切のもろもろの辟支仏 の、鉢を虚空に擲げて十八変をなし、一々の足の下にみな文字ありて、その字、 十二因縁を宣説するを見る。 P--944  十九には、欠&M021452;骨満の相あり。光十方を照らすに、虎魄の色をなす。この光 に遇ふものは声聞の意を発す。このもろもろの声聞、この光明を見るに、分れ て十支となる。一支に千の色、十千の光明あり。光ごとに化仏まします。一々 の化仏に四の比丘ありて、もつて侍者となり、一々の比丘はみな、苦・空・無 常・無我を説く。[以上三種は、広く観ずることを楽ふもの、これを用ゐるべし。]  二十には、世尊の肩・項は円満殊妙なり。[『法華の文句』(意)にいはく、「つ ねに施をして増長せしめたるがゆゑに、この相を得たり」と。]  二十一には、如来の腋の下はことごとくみな充実なり。紅紫の光を放ちて、 もろもろの仏事をなし、衆生を利益す。[『無上依経』(意)にのたまはく、「衆生の なかにおいて利益の事をなし、四正勤を修して、心に畏るるところなくして、両の肩平 整にして、腋の下満てる相を得たり」と。]  二十二には、仏の双臂肘、明直にして&M029827;円なること象王の鼻のごとく、平 立せるに膝を摩づ。あるいは次に広く観ずべし。手掌に千輻の理あり。おのお の百千の光を放ちてあまねく十方を照らすに、化して金水となる。金水のなか に一の妙水あり、水精の色のごとし。餓鬼は見て熱を除き、畜生は宿命を識 P--945 り、狂象の見るは獅子王となり、獅子は金翅鳥と見、諸竜もまた金翅鳥王と見 る。このもろもろの畜生、おのおの尊ぶところと見て、心に恐怖を生じて、合 掌し恭敬す。恭敬するをもつてのゆゑに、命終して天に生る。[『大集』にのた まはく、「怖畏あるを救護して、臂肘、&M029827;なることを得、他の事業を見て佐助せしがゆゑ に、手摩膝の相を得たり」と。]  二十三には、もろもろの指円満し、充密繊長にして、はなはだ愛楽すべし。 一々の端に、おのおの万字を生ぜり。その爪光潔なること、華赤銅のごとし。 [『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「もろもろの尊長において、恭敬し、礼拝し、合掌し、 起立せしがゆゑに、指繊長なる相を得たり」と。]  二十四には、一々の指のあひだは、なほ雁王のごとく、ことごとく&M042835;網あり。 金色交絡して、文、綺画に同じ。閻浮金に勝れたること百千万億なり。その色 明達にして、眼界に過ぎたり。張れる時にはすなはち見ゆれども、指を斂むれ ば見えず。[『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「四摂の法を修して、衆生を摂 取せしがゆゑに、この相を得たり」と。]  二十五には、その手柔軟なること覩羅綿のごとくして、一切に勝過して、内 P--946 外にともに握る。[『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「父母・師長の、もし病苦 するに、みづから手をもつて洗ひ拭ひ、捉持し、安摩せしがゆゑに、手軟の相を得たり」 と。]  二十六には、世尊の頷・臆、ならびに身の上半の、威容広大なること獅子王 のごとし。[『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「もろもろの有情の、如法の所作におい てよく上首たれども、しかも助伴となりて我慢を離れ、もろもろの&M020774;捩なかりしがゆゑ に、この相を得たり」と。]  二十七には、胸に万字あり。実相の印と名づけ、大光明を放つ。あるいは次 に広く観ずべし。光のなかに無量百千のもろもろの華ありて、一々の華の上 に無量の化仏まします。このもろもろの化仏、おのおの千の光ありて、衆生を 利益す。乃至、あまねく十方の仏の頂に入る。時に、もろもろの仏の胸より百 千の光を出し、一々の光、六波羅蜜を説く。一々の化仏、一の化人の、端正微 妙にして状弥勒のごときを遣はして、行者を安慰せしむ。[この相の光を見るもの は、十二億劫の生死の罪を除く。]  二十八には、如来の心相は、紅蓮華のごとし。妙なる紫金の光、もつて間錯 P--947 をなして、瑠璃の筒のごとくして、懸りて仏の胸にあり。合せず、開せず、団 円なること、心のごとし。万億の化仏、仏の心のあひだに遊ぶ。また無量塵数 の化仏、仏の心のなかにましまして、金剛台に坐して、無量の光を放ちたまふ。 一々の光のなかに、また無量塵数の化仏ましまして、広長の舌を出し、万億の 光を放ちてもろもろの仏事をなしたまふ。[仏の心を念ふものは、十二億劫の生死の 罪を除き、生々に無量の菩薩に値ふことを得と云々。広く観ずることを楽ふものは、こ の観をなすべし。]  二十九には、世尊の身の皮は、みな真金の色なり。光潔晃耀すること、妙金 台のごとし。衆宝をもつて荘厳し、衆の見んと楽ふところなり。[『大経』(大般 涅槃経・意)にのたまはく、「衣服・臥具を施して、この相を得たり」と。]  三十には、身光、任運に三千界を照らす。もし作意したまふ時には無量無辺 なり。しかももろもろの有情を憐愍せんがためのゆゑに、光を摂してつねに照 らしたまふこと、面ごとにおのおの一尋なり。[『大経』(同・意)にのたまはく、 「香・華・灯明等をもつて人に施して、この相を得たり」と云々。大光を観ずるものは、 ただ心に見ることを発すに、衆罪を除却すと。] P--948  三十一には、世尊の身相は、修く広くして端厳なり。[『大論』(大智度論)に いはく、「尊長を恭敬し、迎送し、侍繞して、身の直くして広き相を得たり」と云々。]  三十二には、世尊の体相は、縦広の量等しくして周匝円満せること、尼&M019980;陀 樹のごとし。[『大集』(意)にのたまはく、「つねに衆生を勧めて、三昧を修せしめて、 この相を得たり」と。『報恩経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、四大不調なる を、よく療治することをなせしがゆゑに、身の方円なる相を得たり」と。]  三十三には、世尊の容儀は洪満にして端直なり。[『瑜伽』(瑜伽論・意)にい はく、「疾病のものにおいて、卑屈して瞻侍し、良薬を給施せしがゆゑに、身、僂曲せざ る相を得たり」と。]  三十四には、如来の陰蔵は平らかなること満月のごとし。金色の光ありて、 なほ日輪のごとく、金剛の器のごとく、中外ともに浄し。[『大経』(大般涅槃 経・意)にのたまはく、「裸なるを見て衣服を施せしがゆゑに、陰蔵の相を得たり」と。 『大集』にのたまはく、「他の過を覆蔵せしがゆゑに」と。『大論』(大智度論)にいは く、「多く慚愧を修し、および邪婬を断ぜしがゆゑに」と云々。導禅師(善導)のいはく (観念法門)、「仏ののたまはく、〈もし欲色に貪ずること多きものは、すなはち如来の陰 P--949 蔵の相を想へば、欲心すなはち息み、罪障除滅して、無量の功徳を得たり〉」と。]  三十五には、世尊の両足、二手の掌中、項および双べる肩の七処は充満せ り。[『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「施を行ぜし時に、所珍の物をよく捨 てて吝せず、福田および非福田を観ざりしかば、七処満の相を得たり」と。]  三十六には、世尊の双&M029685;は漸次に繊円なること、翳泥耶仙鹿王の&M029685;のごと し。膊の鉤&M021201;の骨の、盤結せるあひだよりもろもろの金光を出す。[『瑜伽』 (瑜伽論・意)にいはく、「みづから正法において、実のごとく摂受し、広く他人のため に説き、およびまさしく他のためによく給使をなして、翳泥耶の膊の相を得たり」と。]  三十七には、世尊の足跟は広く長く円満して、趺とあひ称ひて、もろもろの 有情に勝れたり。  三十八には、足趺は修く高くして、なほ亀の背のごとし。柔軟妙好にして、 跟とあひ称へり。[『瑜伽』(瑜伽論・意)にいはく、「足下平満と、千輻輪と、繊長指と の三の相を感ずる業、総じてよく跟・趺の二の相を感得す。これ前の三相の依止するとこ ろなるがゆゑに」と。]  三十九には、如来の身の前後左右および頂の上に、おのおの八万四千の毛あ P--950 りて生ひたり。柔潤・紺青にして、右に旋りて宛転せり。あるいは次に広く観 ずべし。一々の毛端に百千万塵数の蓮華あり。一々の蓮華に無量の化仏を生じ、 一々の化仏はもろもろの偈頌を現じて、声々あひ次げること、なほ雨の&M017772;る がごとし。[『無上依経』(意)にのたまはく、「もろもろの勝善の法を修して、中・下 品なく、つねに増上せしめて、身毛上に靡き、右に旋りて宛転せる相を得たり」と。『優 婆塞戒経』にのたまはく、「智者に親近して、楽ひて聞き、楽ひて論じ、聞きをはりて楽 ひて修し、楽ひて道路を治し、棘刺を除去せるがゆゑに」と。]  四十には、世尊の足の下に千輻輪の文あり。網轂衆相、円満せざることなし。 [『瑜伽』(瑜伽論)にいはく、「その父母において種々に供養し、もろもろの有情のもろ もろの苦悩の事において、種々に救護して、往来等の動転の業によるがゆゑに、この相を 得たり」と云々。千輻輪の相を見るは、千劫の極重悪業を却く。]  四十一には、世尊の足の下には平満の相あり。妙善安住せること、なほ奩 底のごとし。地は高下なりといへども、足の蹈むところに随ひて、みなことご とく怛然として、等しく触れずといふことなし。[『大経』(大般涅槃経・意)に のたまはく、「持戒して動ぜず、施心移らず、実語に安住せるがゆゑに、この相を得た P--951 り」と云々。その足柔軟なり。もろもろの指繊長なり。&M042835;網具足し、内外に握る等の相、 および業因は、前の手相に同じ。]  四十二には、広きを楽ふものは観ずべし。足下および跟に、おのおの一の華 を生じ、もろもろの光を囲繞して十匝を満足す。華々あひ次いで、一々の華の 上に五の化仏まします。一々の化仏、五十五の菩薩をもつて侍者となして、一 一の菩薩の頂に摩尼珠の光を生ず。この相現ずる時に、仏のもろもろの毛孔よ り八万四千の微細の少光明を生じて、身光を厳飾して、きはめて可愛ならし む。この光一尋にして、その相衆多なり。乃至、他方のもろもろの大菩薩、こ れを観ずる時に、この光随ひて大なり。{以上}  このもろもろの相好の行相・利益・廃立等の事、諸文不同なり。しかるにい ま三十二の略相は、多く『大般若』による。広相と随好とおよびもろもろの利 益とは、『観仏経』による。また相好の業に、その総別あり。総因といふは、 『瑜伽』(瑜伽論)の四十九にいはく、「始め、清浄勝意楽地より、一切所有 の菩提の資糧は、差別することあることなくして、よく一切の相および随好を 感ず」と。{云々}別因といふは、かの『論』(同)に三種あり。一には六十二の P--952 因。つぶさには『論』(瑜伽論)の文のごとし。二には浄戒。もしもろもろの菩 薩、浄戒を毀犯するは、なほ下賤の人身をすら得ることあたはず。いかにいは んや、よく大丈夫の相を感ぜんや。三には四種の善修。一は善修事業、二は善 巧方便、三は饒益有情、四は無倒回向なり。{以上}別因のなかにまた多くの差別 あり。いまはしばらく因果のあひ順ぜるものを取る。前後の次第は、諸文また 不同なり。いまはよろしきに随ひて、取りて次第となすなり。相・好間雑して もつて観法をなすこと、またこれ『観仏経』の例なり。順観の次第は、大途か くのごとし。逆観は、これに反して、足より頂に至る。『観仏三昧経』にのた まはく、「眼を閉ぢて見ることを得んには、心想の力をもつてせよ。了々に して分明なること、仏の在世のごとくせよ。この相を観ずといへども、衆多に することを得ざれ。一事より起してまた一事を想ひ、一事を想ひをはればまた 一事を想へ。逆順反覆すること、十六反を経よ。かくのごとくして、心想き はめて明利ならしめ、しかして後に、心を住めて念を一処に繋けよ。かくのご とくして、漸々に舌を挙げて齶に向かへ、舌をしてまさしく住せしめよ。二七 日を経て、しかして後に、身心安穏なることを得べし」と。導和尚(善導)の P--953 いはく(観念法門・意)、「十六遍の後には、心を住めて白毫相を観ぜよ。雑乱 することを得ざれ」と。 【44】 二に総相観とは、先づ〔前のごとく〕衆宝荘厳の広大の蓮華を観じ、次に 阿弥陀仏の、華台の上に坐したまへるを観ぜよ。身の色は、百千万億の閻浮檀 金のごとし。身の高さは、六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右 に旋りて婉転せること五須弥山のごとし。眼は四大海水のごとくして、清白 分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出すること、須弥山のごとし。円 光は、百億の大千界のごとし。光のなかに無量恒河沙の化仏ましまし、一々の 化仏は、無数の菩薩をもつて侍者となせり。かくのごとくして八万四千の相あ り。一々の相におのおの八万四千の随好あり。一々の好にまた八万四千の光明 あり。一々の光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てた まはず。まさに知るべし。一々の相のなかに、おのおの七百五倶胝六百万の光 明を具して、熾然赫奕として神徳巍々たること、金山王の大海のなかにあるが ごとし。無量の化仏・菩薩、光のなかに充満して、おのおの神通を現じて、弥 陀仏を囲繞したてまつれり。かの仏、かくのごとく無量の功徳・相好を具足し P--954 て、菩薩衆会のなかにましまして、正法を演説したまふ。行者、この時にすべ て余の色相なく、須弥・鉄囲、大小のもろもろの山もことごとく現ぜず、大 海・江河・土地・樹林もことごとく現ぜず。目に溢てるものは、ただこれ弥陀 仏の相好、世界に周遍せるものは、またこれ閻浮檀金の光明なり。たとへば、 劫水の、世界に弥満せるに、そのなかの万物は沈没して現ぜず、滉瀁浩汗とし て、ただ大きなる水のみを見るがごとし。かの仏の光明もまたかくのごとし。 高く一切世界の上に出でて、相好・光明、照曜せずといふことなし。行者は心 眼をもつておのが身を見るに、またかの光明の所照のなかにあり。[以上、『観 経』・『双巻経』(大経)・『般舟経』・『大論』(大智度論)等の意による。この観、成じて後 に楽に随ひて次の観をなせ。]  あるいは観ずべし。かの仏はこれ三身一体の身なり。かの一身において、見 るところ不同なり。あるいは丈六、あるいは八尺、あるいは広大の身なり。所 現の身はみな金色にして、利益したまふところはおのおの無量なり。一切の諸 仏と、その事同一なり。[応化身なり。]また一々の相好は、凡聖その辺を得ず、 梵天もその頂を見ず、目連もその声を窮めず、無形第一の体なり。荘厳にあら P--955 ずして荘厳せり。十力・四無畏・三念住・大悲、八万四千の三昧門、八万四千 の波羅蜜門、恒沙塵数の法門、究竟円満したまふ。一切の諸仏と、その意同一 なり。[報身。]微妙の浄法身に、もろもろの相好を具足せり。一々の相好は、すな はちこれ実相なり。実相は、法界具足して減ずることなし。生ぜず滅せず、 去・来なし。一にあらず異にあらず、断・常にあらず。有為・無為のもろもろ の功徳は、この法身によりてつねに清浄なり。一切の諸仏と、その体同一な り。[法身。]このゆゑに三世十方の諸仏の三身、普門塵数の無量の法門、仏衆法 海の円融の万徳、おほよそ無尽の法界は、つぶさに弥陀の一身にあり。縦なら ず横ならず、また一・異にあらず。実にもあらず虚にもあらず、また有・無に もあらず。本性清浄にして、心言の路絶えたり。たとへば、如意珠のなかに、 宝あるにもあらず、宝なきにもあらざるがごとし。仏身の万徳もまたかくのご とし。また陰入界に即して、名づけて如来となすにあらず。かのもろもろの衆 生は、みなことごとくこれあるがゆゑに、陰入界を離れて、名づけて如来とな すにもあらず。これを離れては、すなはちこれ無因縁の法なるがゆゑに、即に もあらず、また離にもあらず。寂静にしてただ名のみあり。このゆゑにまさ P--956 に知るべし。所観の衆相は、すなはちこれ三身即一の相好・光明なり、諸仏同 体の相好・光明なり、万徳円融の相好・光明なり。色すなはちこれ空なるがゆ ゑに、これを真如実相といふ。空すなはちこれ色なるがゆゑに、これを相好・ 光明といふ。一色・一香、中道にあらずといふことなし。受・想・行・識もま たかくのごとし。わが所有の三道と弥陀仏の万徳と、本来空寂にして一体無礙 なり。願はくはわれ仏を得て、聖法の王と斉しからん。[以上、『観経』・『心地観 経』・『金光明経』・『念仏三昧経』・『般若経』・『止観』等の意による。] 【45】 三に雑略観とは、かの仏の眉間に一の白毫あり。右に旋りて宛転せるこ と、五須弥のごとし。なかにおいて、また八万四千の好あり。一々の好に八万 四千の光あり。その光微妙にして、衆宝の色を具せり。総じてこれをいへば、 七百五倶胝六百万の光明なり。十方の面に赫奕たること、億千の日月のごとし。 その光のなかに一切の仏身を現じ、無数の菩薩、衆会して囲繞せり。また微妙 の音を出して、もろもろの法海を宣暢す。またかの一々の光明、あまねく十方 世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。われまたかの摂取のな かにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大 P--957 悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。あるいは自心を起して極 楽国に生じて、蓮華のなかに結跏趺坐し、蓮華の合する想をなすべし。尋いで、 蓮華開くる時に、尊顔を瞻仰したてまつり、白毫の相を観ず。時に五百色の光 ありて、来りてわが身を照らすに、すなはち無量の化仏・菩薩の、虚空のなか に満てるを見たてまつる。水・鳥・樹林および諸仏の出したまふところの音声 は、みな妙法を演ぶと。かくのごとく思想して、心をして欣悦せしめよ。願は くは、もろもろの衆生とともに安楽国に往生せん。[以上、『観経』・『華厳経』等 の意による。つぶさには別巻にあり。]もし極略を楽ふものは、念ふべし。かの仏の 眉間の白毫の相は、旋転せること、なほ頗梨珠のごとし。光明あまねく照らし てわれらを摂めたまふ。願はくは、衆生とともにかの国に生れんと。もし相好 を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の 想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。[以上、意楽不同なり。 ゆゑに種々の観を明かす。]行住坐臥、語黙作々に、つねにこの念をもつて胸の なかに在くこと、飢して食を念ふがごとくし、渇して水を追ふがごとくせよ。 あるいは頭を低れ手を挙げ、あるいは声を挙げて名を称せよ。外儀は異なりと P--958 いへども、心念はつねに存ぜよ。念々に相続して、寤寐に忘るることなかれ。  問ふ。かの仏の真身は、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。ただ像を観 ずべし。なんぞ大身を観ぜん。答ふ。『観経』にのたまはく、「無量寿仏は身 量無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。しかもかの如来の宿願 力のゆゑに、憶想することあるものは、かならず成就することを得。ただ仏像 を想ふすら、無量の福を得。いはんやまた仏の具足せる身相を観ぜんをや」と。 {以上}あきらかに知りぬ、初心もまた楽欲に随ひて真身を観ずることを得るなり。  問ふ。いふところの弥陀の一身は、すなはち一切仏の身なりとは、なんの証 拠かある。答ふ。天台大師(智&M043614;)のいはく(十疑論)、「阿弥陀仏を念ずるは、 すなはち一切の仏を念ずるなり。ゆゑに『華厳経』にのたまはく、   〈一切の諸仏の身は、すなはちこれ一仏の身なり。   一心なり、一智慧なり。力・無畏もまたしかなり〉」と。{以上} また『観仏三昧経』にのたまはく、「もし一仏を思惟すれば、すなはち一切の 仏を見たてまつる」と。{云々}  問ふ。もし諸仏の体性の無二なるがごとく、念者の功徳もまた別なきや。答 P--959 ふ。等しくして差別なし。ゆゑに『文殊般若経』の下巻にのたまはく、「一仏 を念ずるは、功徳無量無辺なり。また無量の諸仏の功徳と無二なり。不思議の 仏法は等しくして分別なし。みな一如に乗じて最正覚を成じ、ことごとく無量 の功徳、無量の弁才を具したまへり。かくのごとくして一行三昧に入るものは、 ことごとく恒沙の諸仏の法界の、無差別の相を知る」と。{以上}  問ふ。諸相の功徳は、肉髻と梵音と、これを最勝なりとなす。いま多く白毫 を勧むること、なんの証拠かある。答ふ。その証はなはだ多し。略して一両を 出さん。『観経』にのたまはく、「無量寿仏を観ずるものは、一の相好より入 れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見る ものは、八万四千の相好、自然にまさに見つべし」と。また『観仏経』にのた まはく、「如来に無量の相好まします。一々の相のなかに、八万四千のもろも ろの小相好あり。かくのごとき相好は、白毫の少分の功徳に及ばず。このゆゑ に今日、来世のもろもろの悪の衆生のために、白毫相の大慧光明の、消悪の観 法を説く。もし邪見の極重の悪人ありて、この観法は相貌を具足すと聞きて、 瞋恨の心をなさば、この処あることなからん。たとひ瞋りをなすとも、白毫相 P--960 の光、また覆護せん。しばらくこの語を聞かば、三劫の罪を除き、後身の生処 は、諸仏の前に生ぜん。かくのごとく、種々の百千億種のもろもろの、光明を 観る微妙の境界は、ことごとく説くべからず。白毫を念ふ時、自然にまさに生 ずべし」と。またのたまはく(観仏経)、「粗心にして像を観ずるに、なほかく のごとき無量の功徳を得。いはんやまた念を繋けて、仏の眉間の白毫相の光を 観ぜんをや」と。またのたまはく(同)、「釈迦文仏、行者の前に現じて、告げ てのたまはく、〈なんぢ、観仏三昧力を修す。ゆゑに、われ涅槃相の力をもつ て、なんぢに色身を示して、なんぢをしてあきらかに観ぜしめん。なんぢ、い ま坐禅して多く観ずることを得ざれ。なんぢ、後の世の人、多くもろもろの悪 を作れり。ただ眉間の白毫の相の光を観ぜよ。この観をなす時に見るところの 境界は、上の所説のごとし〉」と。[以上、これを略抄す。]「上の所説」とは、仏 の種々の境界を見るなり。もろもろの余の利益は、下の別時の行および利益門 に至りて知りぬべし。  問ふ。白毫の一相を観ずるをもまた三昧と名づくるや。答ふ。しかなり。ゆ ゑに『観仏経』の第九にのたまはく、「もしよく心を繋けて一の毛孔を観ずる、 P--961 この人は名づけて念仏定を行ずとなす。仏を念ずるをもつてのゆゑに、十方の 諸仏、つねにその前に立ちて、ために正法を説きたまふ。この人、すなはちよ く三世のもろもろの如来を生ずる種となす。いかにいはんや、具足して仏の色 身を念ぜんをや」と。  問ふ。なんがゆゑぞ浄土の荘厳を観ぜざるや。答ふ。いま広行に堪へざるも ののために、ただ略観を勧む。もし観ぜんと欲ふものは、『観経』を読むべし。 いかにいはんや前に十種の事明かしつ。すなはちこれ浄土の荘厳なり。  問ふ。なんがゆゑぞ観音・勢至を観ぜざるや。答ふ。略せるがゆゑに述せず。 仏を念じをはりて後は、二菩薩を観ずべし。あるいは名号を称せよ。多少は意 に随へ。 【46】 第五に回向門を明かすとは、五の義具足せるもの、これ真の回向なり。 一には、三世の一切の善根を聚集すること、[『華厳経』の意。]二には、薩婆若の 心と相応すること、三には、この善根をもつて一切衆生とともにすること、四 には、無上菩提に回向すること、五には、能施・所施・施物はみな不可得なり と観じて、よく諸法の実相と和合せしむることなり。[『大論』(大智度論)の意。] P--962 これらの義によりて、心に念ひ、口にいへ。修するところの功徳と、および三 際の一切善根とを、[その一。]自他法界の一切衆生に回向して、平等に利益し、 [その二。]罪を滅し、善を生じて、ともに極楽に生じて、普賢の行願を速疾に円 満し、自他同じく無上菩提を証して、未来際を尽すまで衆生を利益し、[その三。] 法界に回施して、[その四。]大菩提に回向するなり。[その五。]  問ふ。未来の善いまだあらず。なにをもつてか回向する。答ふ。『華厳経』 に、第三の回向の菩薩の行相を説きてのたまはく、「三世の善根をもつて、所 着なく、相なく相を離れて、ことごとくもつて回向す」(意)と。『刊定記』に 二の釈あり。一には、未来の善根はいまだあらずといへども、いまもし願を発 しつれば、願薫じて種となり、摂持する力のゆゑに、未来の所修任運に衆生と 菩提とに注向して、さらに回向することを待たず。二には、この教のなかによ れば、菩薩は、乃至、一念の善を修するに、法性を摂するがゆゑに九世に遍す。 ゆゑにかの善根をもつて回向すと。{云々}  問ふ。第二に、いかなるをや薩婆若相応の心と名づくる。答ふ。『論』(大 智度論)にいはく、「阿耨菩提の意、すなはちこれ薩婆若に応ずる心なりと。 P--963 〈応〉といふは、心を繋けて、われまさに仏に作るべしと願ずるなり」と。  問ふ。第三・第四は、なんがゆゑぞかならず一切衆生とともにし、および無 上菩提に回向する。答ふ。『六波羅蜜経』にのたまはく、「いかんぞ少施の功 徳多なるや。方便の力をもつて、少分の布施をもつて回向し発願すらく、〈一 切衆生と同じく無上正等菩提を証せん〉と。これをもつて功徳の無量無辺な ること、なほ小雲の、やうやく法界に遍するがごとし」と。[乃至、一華・一菓を もつて施するもまたしかり。『大論』(大智度論)の意またこれに同じ。]また『宝積経』 の四十六にのたまはく、「菩薩摩訶薩は、所有の已生のもろもろの妙善根を、 一切、無上菩提に回向して、この善根をして畢竟じて無尽ならしむ。たとへば、 小水を大海に投げつれば、乃至、劫焼のなかにも尽くることあることなからん がごとし」と。また『大荘厳論』の偈にいはく、   「施を行じて妙色・財を求めず、また天・人趣を感ずることを願ぜざれ、   もつぱら無上勝菩提を求むれば、施は微なれどもすなはち無量の福を感   ず」と。{以上} ゆゑにもろもろの善根をもつてことごとく仏道に回向するなり。また『大論』 P--964 (大智度論)にいはく、「たとへば、慳貪の人の、因縁なくしては、乃至一銭を も施せず、貪慳積聚してただ増長することを望むがごとく、菩薩もまたかくの ごとし。福徳の、もしは多もしは少、余事には向かへず、ただ愛惜積集して 薩婆若に向かふ」と。{以上}  問ふ。もししからば、ただ菩提に回向すべし。なんがゆゑぞ、さらに往生極 楽とはいふ。答ふ。菩提はこれ果報なり。極楽はこれ華報なり。果を求むる人、 いかんぞ華を期せざらんや。このゆゑに九品の業にみないはく、「回向して極 楽国に生ぜんと願求す」と。  問ふ。発願と回向とは、なんの差別かある。答ふ。誓ひて求むるところを期 する、これを名づけて願となす。所作の業を回してかしこに趣向する、これを 回向といふ。  問ふ。薩婆若と無上菩提と、二は差別なし。なんぞ分ちて二とはなす。答ふ。 『論』(同)に回向を明かすに、これを分ちて二となせり。ゆゑにいまこれに順 ず。さらに『論』(同)の文を&M012779;へよ。  問ふ。次に、なんがゆゑぞ、あらゆる事を観じて、ことごとく空ならしむる P--965 や。答ふ。『論』(大智度論)にいはく、「着心取相の菩薩の修する福徳は、草 より生ずる火の、滅することを得べきこと易きがごとし。もし実相を体得せる 菩薩の、大悲心をもつて行ずる衆行は、破することを得べきこと難きこと、水 のなかの火の、よく滅するものなきがごとし」と。{云々}  問ふ。もししからば、唱へて「空無所得」といふべし。なんがゆゑぞいま 「回施法界」とはいふ。答ふ。理、実にはしかるべし。しかれども、いまは国 土の風俗に順ずるがゆゑに「法界」といふに、理また違することなし。しかる 所以は、法界はすなはちこれ円融無作の第一義空なり。所修の善をもつて回趣 し、かの第一義空に相応するを回施法界と名づく。  問ふ。最後に、なんの意ぞ唱へて「回向大菩提」といふや。答ふ。これはこ れ、薩婆若と相応せしむるなり。これまた土風に順じて、これを末後に置く。 「薩婆若」といふは、すなはちこれ菩提なり。前の『論』(同)の文のごとし。  問ふ。有相の回向には利益なきや。答ふ。上にしばしば論ずるがごとし。勝 劣はありといへども、なほ巨益あり。『大論』(同)の第七にいふがごとし。 「小因の大果、小縁の大報あり。仏道を求めて一偈を讃じ、一たび〈南無仏〉 P--966 と称し、一捻の香を焼きて、かならず仏に作ることを得るがごときなり。いか にいはんや、聞知せんをや。〈諸法の実相は不生不滅にして、不生にもあらず、 不滅にもあらざれども、しかも因縁の業を行ずれば、また失せざるなり〉」と。 {以上}この文深妙なり。髻のなかの明珠なり。すなはち知りぬ、われらも仏にな ること疑なしと。   龍樹尊に帰命したてまつる。わが心願を証明したまへ。 【47】 大文第五に、助念方法といふは、一目の羅は鳥を得ることあたはず、万 術をもつて観念を助けて、往生の大事を成ず。いま七事をもつて、略して方法 を示さん。一には方処供具、二には修行相貌、三には対治懈怠、四には止悪 修善、五には懺悔衆罪、六には対治魔事、七には総結要行なり。 【48】 第一に方処供具とは、内外ともに浄くして一の閑処を卜めて、力に随ひ て香華供具を弁ぜよ。もし華香等の事を闕少せることあらば、ただもつぱら仏 の功徳威神を念ぜよ。もし親しく仏像に対はば、すべからく灯明を弁ずべし。 もしはるかに西方を観ぜば、あるいは闇室を須ゐよ。[感禅師(懐感)は闇室を許 す。]もし華香を供する時には、すべからく『観仏三昧経』の供養の文の意によ P--967 るべし。その得るところの福、無量無辺なり。煩悩おのづから減少し、六度お のづから円満す。[その文、通途の所用に異ならず。ゆゑにさらに抄せず。]もし念珠を 用ゐん時には、浄土を求めんと欲はば、木&M015381;子を用ゐ、多功徳を欲はば、菩提 子、乃至、あるいは水精・蓮子等を用ゐよ。[『念珠功徳経』に見えたり。] 【49】 第二に修行相貌とは、『摂論』等によりて四修の相を用ゐよ。一には長 時修。『要決』(西方要決)にいはく、「初発心よりすなはち菩提に至るまで、 つねに浄因をなして、つひに退転なかれ」と。善導禅師のいはく(礼讃)、「命 を畢ふるを期となして、誓ひて中止せざれ」と。二には慇重修。いはく、極楽 の仏法僧宝において、心につねに憶念して、もつぱら尊重をなせ。『要決』 (同)にいはく、「行住坐臥に、西方を背かざれ。啼・唾・便痢は、西方に向 かはざれ」と。導師(善導)のいはく(礼讃)、「面を西方に向かふるものは最勝 なり。樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。かなら ず事の礙ありて西に向かふこと及ばずは、ただ西に向かふ想をなすにまた得た り」と。三には無間修。『要決』(同)にいはく、「いはく、つねに仏を念じて 往生の心をなせ。一切の時において、心につねに想ひ巧め。たとへば、人あり P--968 て、他に抄掠せられ、身、下賤となりてつぶさに艱辛を受けん。たちまちに 父母を思ひ、走りて国に帰らんと欲するに、行装いまだ弁ぜずして、なほ他 の郷にありて日夜に思惟し、苦堪忍せず。時としてしばらくも捨てて耶嬢を念 はざることなし。計をなすことすでに成じて、すなはち帰りて達することを 得て、父母に親近し、ほしいままに歓娯せんがごとし。行者もまたしかなり。 往、煩悩によりて善心を壊乱し、福智の珍財、ならびにみな散失せり。久しく 生死に沈みて制すること自由ならず。つねに魔王のためにしかも僕使となりて、 六道に駆馳せられ、身心を苦切す。いま善縁に遇ひて、たちまちに弥陀の慈父 の、弘願に違はずして群生を済抜したまふことを聞き、日夜に驚忙し、心を発 して往くことを願ふ。ゆゑに精勤すること倦まずして、まさに仏恩を念じて、 報の尽くるを期となして、心につねに計念すべし」と。{云々}導師(善導)のいは く(礼讃)、「心々相続して余業をもつて間へざれ。また貪瞋等をもつて間へざ れ。随ひて犯せば、随ひて懺せよ。念を隔て時を隔て日を隔てしめずして、つ ねに清浄ならしめよ」と。{云々}わたくしにいはく、日夜六時、あるいは三時・ 二時に、かならず方法を具して、精勤修習せよ。その余の時処には威儀を求 P--969 めず、方法を論ぜず、心口に廃することなくして、つねに仏を念ずべし。四に は無余修。『要決』(西方要決)にいはく、「もつぱら極楽を求めて弥陀を礼念 せよ。ただし諸余の業行は雑起せしめざれ。所作の業は、日別に、すべからく 念仏・読経を修して、余課を留めざるべし」と。導師(善導)のいはく(礼讃)、 「かの仏の名をもつぱら称し、かの仏および一切の聖衆等をもつぱら念じ、も つぱら想ひ、もつぱら礼し、もつぱら讃じて、余業を雑へざれ」と。{以上}  問ふ。その余の事業は、なんの過失かある。答ふ。『宝積経』の九十二に のたまはく、「もし菩薩ありて、楽ひて世業をなし、衆務を営まんを、応ぜざ るところなりとなす。われ説かく、〈この人は生死に住す〉」と。また同偈に のたまはく、   「戯論・諍論の処は、多くもろもろの煩悩を起す。   智者は遠離すべきこと、まさに百由旬を去るべし」と。{云々} 自余の方法は、つぶさに『止観』のごとし。  問ふ。もししからば、在家の人は念仏の行に堪へがたし。答ふ。もし世俗の 人は、縁務を棄てがたくは、ただつねに念を西方に繋けて、誠心にしてかの仏 P--970 を念ずべし。『木&M015381;経』の瑠璃王の行のごとくせよ。また迦才の『浄土論』に いはく、「たとへば、竜の行くに、雲すなはちこれに随ふがごとく、心もし西 に逝けば、業またこれに随ふ」と。  問ふ。すでに知りぬ、修行に総じて四の相ありと。その修行の時の用心いか んぞ。答ふ。『観経』にのたまはく、「もし衆生ありて、かの国に生れんと願 ずるものは、三種の心を発して即便往生す。一には至誠心、二には深心、三に は回向発願心なり」と。善導禅師のいはく(礼讃)、「一に至誠心といふは、い はく、礼拝・讃嘆・念観の三業はかならず真実を須ゐるがゆゑなり。二に深心 といふは、いはく、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫なり。善根薄少にして三界 に流転して、いまだ火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称 すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、乃 至一念も疑心あることなきなり。三に回向発願心といふは、いはく、所作の一 切の善根をことごとくみな回向して、往生せんと願ずるがゆゑなり。この三心 を具すれば、かならず往生することを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生 ずることを得ず」と。[略してこれを抄す。経文は上品上生にありといへども、禅師 P--971 (善導)の釈のごとくは、理九品に通ず。余師の釈つぶさにすることあたはず。]『鼓音声 王経』にのたまはく、「もしよく深く信じて狐疑なきものは、かならず阿弥陀 の国に往生することを得」と。『涅槃経』にのたまはく、「阿耨菩提は信心を 因となす。この菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説きつればすな はちすでに摂尽しつ」と。{以上}あきらかに知りぬ、道を修するには信をもつて 首めとなす。また善導和尚のいはく(礼讃・意)、「もしは入観および睡りの時 には、この願を発すべし。もしは坐し、もしは立ちて、一心に合掌して、まさ しく面を西に向かへて、十声、〈阿弥陀仏・観音・勢至・もろもろの菩薩・清 浄大海衆〉と称しをはりて、仏・菩薩および極楽界の相を見たてまつらんとい ふ願を発せ。すなはち意に随ひて入観し、および睡りても見ることを得。心を ば至さざるを除く」と。  問ふ。行者、常途に往生を計念すること、その相、なににか似たる。答ふ。 前に引くところの『要決』(西方要決)に、本国に帰らんと欲ふ譬へ、これその 相なり。また綽和尚(道綽)の『安楽集』(上)にいはく、「たとへば、人あり て空曠のはるかなる処にして、怨賊の、剣を抜き勇を奮ひて、ただちに来りて P--972 殺さんと欲せんに値遇ひなん。この人ただちに走るに、一の河を渡らんと観る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。〈われ河の岸に至りて は、衣を脱ぎてや渡るとやせん、衣を着てや浮ぐとやせん。もし衣を脱ぎて渡 らば、ただおそらくは暇なきことを。もし衣を着て浮がば、またおそらくは首 領を全くすること難し〉と。その時に、ただ一心に河を渡る方便をなすことの みありて、余の心想間雑することなからんがごとし。行者またしかり。阿弥陀 仏を念ずる時には、またかの人の渡ることを念ふがごとくして、念々にあひ次 いで、余の心想間雑することなし。あるいは仏の法身を念ひ、あるいは仏の神 力を念ひ、あるいは仏の智慧を念ひ、あるいは仏の毫相を念ひ、あるいは仏の 相好を念ひ、あるいは仏の本願を念へ。名を称することもまたしかなり。ただ よくもつぱら至して、相続して断ぜざるは、さだめて仏前に生る」と。{以上}元 暁師これに同じ。  問ふ。念仏三昧は、ただ心に念ずとやせん、また口に唱ふとやせん。答ふ。 『止観』の第二(意)にいふがごとし。「あるいは〔唱・念〕ともに運び、ある いは先づ念じ後に唱へ、あるいは先づ唱へ後に念じて、唱・念あひ継ぎて休息 P--973 する時なし。声々・念々ただ阿弥陀にあり」と。また感禅師(懐感)のいはく (群疑論)、「『観経』にのたまはく、〈この人、苦に逼められて念仏に遑あらず。 善友、教令すらく、《阿弥陀仏を称すべし》と。かくのごとく心を至して、声 をして絶えざらしむ〉と。あに苦悩に逼められて念想成じがたきには、声をし て絶えざらしむるに、至心にすなはち得るにあらずや。いまこの声を出して、 念仏定を学することもまたかくのごとし。声をして絶えざらしむれば、つひに 三昧を得て、仏・聖衆の皎然として目の前にましますを見る。ゆゑに『大集』 の〈日蔵分〉にのたまはく、〈大念は大仏を見る、小念は小仏を見る〉と。〈大 念〉とは大声に仏を称するなり。〈小念〉とは小声に仏を称するなり。これ すなはち聖教なり。なんの惑ひかあらん。現に見るにすなはちいまのもろも ろの修学者、ただすべからく声を励まして仏を念ずべし。三昧成じやすし。小 声に仏を称するに、つひに馳散多し。これすなはち学者の知るところにして、 外人の暁るにあらず」と。[以上、かの『経』(大集経)にのたまはく、「ただ多を欲 するは多を見、小を欲するは小を見る」等と。しかるに感師(懐感)、すでに三昧を得た り。かの釈するところ、仰ぎて信ずべし。さらに諸本を勘へよ。「小念は小を見、大念は P--974 大を見る」の文、『日蔵経』の第九に出でたり。] 【50】 第三に対治懈怠とは、行人、恒時に勇進することあたはず。あるいは心 蒙昧となり、あるいは心退屈す。その時に種々の勝れたる事に寄せて自心を勧 励すべし。あるいは三途の苦果をもつて浄土の功徳に比べて、この念をなすべ し。「われすでに悪道にして多劫を経き。無利の勤苦すら、なほよく超えたり。 小行を修行して菩提を得んは大利なり。退屈をなすべからず」と。[悪趣の苦、 浄土の相、一々に前のごとし。]あるいは往生浄土の衆生を縁じて、この念をなす べし。「十方世界のもろもろの有情、念々に安楽国に往生す。かれすでに丈夫 なり。われもまたしかなり。みづから軽みて退屈をなすべからず」と。[往生の 人は下の利益門・料簡門のごとし。]あるいは仏の奇妙の功徳を縁ずべし。  問ふ。なんらの功徳ぞ。答ふ。その事、無量なり。略してその要を挙げん。 一には四十八の本願を思念すべし。また『無量清浄覚経』にのたまはく、 「阿弥陀仏、観世音・大勢至と、大願の船に乗りて生死の海に汎びて、この娑 婆世界につきて、衆生を呼喚して大願の船に上せて、西方に送り着けしめたま ふ。もし衆生の、あへて大願の船に上らば、ならびにみな去ることを得。これ P--975 はこれ往きやすきなり」と。『心地観経』の偈にのたまはく、   「衆生は生死海に没在して、五趣に輪廻して出づる期なし。   善逝つねに妙法の船となり、よく愛流を截りて彼岸に超えしめたまふ」と。 念ふべし、「われ、いづれの時にか悲願の船に乗りて去らん」と。  二には名号の功徳なり。『維摩経』にのたまふがごとし。「諸仏の色身の威 相・種性、戒・定・智慧・解脱・知見、力・無所畏・不共の法、大慈大悲、威 儀所行、およびその寿命、説法教化し、衆生を成就し、仏の国土を浄め、もろ もろの仏法を具したまへること、ことごとくみな同等なり。このゆゑに名づけ て三藐三仏陀となし、名づけて多陀阿伽度となし、名づけて仏陀となす。阿難、 もしわれ広くこの三句の義を説かば、なんぢ劫寿をもつてすとも、尽して受く ることあたはじ。たとひ三千大千世界のなかに満てらん衆生をして、みな阿難 のごとく多聞第一にして念総持を得しむとも、このもろもろの人等も、劫の寿 をもつてすともまた受くることあたはじ」と。{以上}『要決』(西方要決)にいは く、「『維摩』にのたまはく、〈仏の初めの三号をば、仏もし広く説きたまはば、 阿難、劫を経とも領受することあたはじ〉と。『成実論』に、仏の号を釈する P--976 に、前の九号はみな別義に従ひ、前の九号の名義の功徳を総じて、仏世尊とな す。初めの三号を説かんに、劫を歴とも周めがたし。阿難領悟するに、よくつ ぶさに悉することなし。さらに六号を加へて、もつて仏号を製せりといふ。勝 徳すでに円かなれば、それを念ずるは大善なり」と。[以上『要決』(西方要決)。] 『華厳』の偈にのたまはく、   「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざらんに、   一たびも仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん」と。 この念をなすべし、「われ、いますでに仏の尊号を聞くことを得たり。願はく は、われまさに仏に作りて十方の諸仏のごとくあるべし」と。  三には相好の功徳なり。『六波羅蜜経』(意)にのたまはく、「もろもろの世 間において、あるところの三世の一切の衆生、学・無学の人、および辟支仏、 かくのごとき有情の無量無辺の所有の功徳を、如来の一毛の功徳に比ぶるに、 百千万分がなかにその一にも及ばず。かくのごとき一々の毛端は、みな如来の 無量の功徳より出生せるところなり。一切の毛端のあらゆる功徳をもつて、 ともに一の髪の功徳を成ず。かくのごとくして仏の髪は八万四千なり。一々の P--977 髪のなかに、おのおの上のごとき功徳を具せり。かくのごとく合集して、とも に一の随好の功徳を成ず。一切の好の功徳をともにして、一の相の功徳を成ず。 一切の相の功徳を合集して百千倍に至りて、眉間の毫相の功徳を成ず。その相 円満にして、宛転して右に旋れること、頗胝迦宝のごとし。明浄鮮白にして、 夜闇のなかに、なほあきらかなる星のごとくなり。毫相これを舒ぶれば、上は 色界の阿迦膩&M003302;天までに至る。これを巻けば、旧のごとくしてまた毫相となり て、眉間に住す。毫相の功徳、百千倍に至りて肉髻の相を成ず。かくのごとき 肉髻の千倍の功徳は、梵音声の相の功徳に及ばじ」と。また『宝積経』に無 数の校量あり。学者、勘ふべし。また『大集の念仏三昧経』の第五にのたま はく、「かくのごとき世界、および十方の無量無辺のもろもろの世界のなかの あらゆる衆生、たとひことごとくみな一時に仏となりて、かのもろもろの世尊、 無量劫を経て、みな還りて仏の一毛の功徳を嘆めたまふとも、つひにまた尽さ じ」と。{云々}『華厳』の偈にのたまはく、   「清浄の慈門、刹塵数にして、ともに如来の一の妙相を生ず。   一々の諸相、しからずといふことなし。このゆゑに見るもの、厭足するこ P--978   となし」と。 この念をなすべし、「願はくは、われまさに仏の無辺功徳の相を見たてまつる べし」と。  四には光明の威神なり。いはく、『平等覚経』(一)にのたまはく、「無量 清浄仏[無量清浄仏は、これ阿弥陀仏なり。]の光明は、最尊第一にして比びな し。諸仏の光明、みな及ばざるところなり。ある仏の頂の光明は七尺を照らす。 ある仏は一里を照らす。ある仏は五里、ある仏は二十里・四十里・八十里、乃 至百万の仏国、二百万の仏国なり。八方上下、無央数の諸仏の頂の光の照らし たまふところ、みなかくのごとし。無量清浄仏の頂のなかの光明は、千万の 仏国を炎照す」と。[以上取意。わたくしにいはく、『観経』にのたまはく、「かの仏 の円光は百億の大千界のごとし」と。この『経』(平等覚経・一)にはのたまはく、「頂 のなかの光、千万仏の国を照らす」と。二経の意、同じきのみ。]『双巻経』(大経)の 意、これに同じ。『経』(同・上)にのたまはく、「無量寿仏の威神光明は、最 勝第一にして、諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり。あるいは仏の光 の、百仏世界あるいは千仏世界を照らすあり。要を取りてこれをいはば、すな P--979 はち東方の恒河沙の仏刹を照らす。南西北方・四維・上下もまたかくのごとし。 このゆゑに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏[玄一師の いはく(無量寿経記)、〈ともに等しきものなきがゆゑに〉と。]炎王光仏[玄一師のい はく(同)、〈最勝自在なるがゆゑに〉と。]清浄光仏[一(玄一)のいはく(同)、 〈三垢を滅するがゆゑに〉と。憬興師のいはく(述文賛)、〈無貪の善根の所生なるがゆゑ に〉と。]歓喜光仏[一のいはく(無量寿経記)、〈遇ふもの悦意するがゆゑに〉と。興 (憬興)のいはく(述文賛)、〈無瞋所生なるがゆゑに〉と。]智慧光仏[一のいはく(無 量寿経記)、〈智慧の所発なるがゆゑに〉と。興いはく(述文賛)、〈無痴の所生なるがゆゑ に〉と。]不断光仏[一のいはく(無量寿経記)、〈恒相続のゆゑに〉と。]難思光仏・ 無称光仏[一のいはく(同)、〈称嘆して、その所有を尽すべからざるがゆゑに〉と。自 余の名義は知りぬべし。煩はしく記せず。]超日月光仏と号す。もし三途勤苦の処に ありて、この光明を見るに、また苦悩なく、寿終りて後にはみな解脱を蒙る。 ただわれのみ、いまその光明を称するにあらず。一切の諸仏またかくのごとし。 もし衆生ありて、その光明の威神の功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して 断えざれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得ん。われ、無量寿仏 P--980 の光明の威神、巍々として殊妙なることを説かんに、昼夜にして一劫すとも、 なほ尽すことあたはじ」と。[以上取意。『平等経』には、別して、「頂の光」とのた まひ、『観経』には、総じて「光明」とのたまふ。]『譬喩経』の第三に、釈迦文仏の 光相を明かしてのたまはく、「仏(釈尊)滅したまひて百年に阿育王あり。国の うちの民庶、仏の遺典を歌しき。王の、意に信ぜずして念言すらく、〈仏にい かなる徳の、人に過ぎ踰えたるものありて、しかもともに信をもつぱらにして その文を誦習すらん〉と。すなはち大臣に問はく、〈国のうちに、もし仏を見 たるものありや〉と。答へてまうさく、〈聞くならく、波斯匿王の妹、出家し て比丘尼となれり。年西垂にありて、いひて仏を見たりといふ〉と。王すなは ちみづから出でて往詣して、問ひていはく、〈道人、仏を見たりやいなや〉と。 答へてまうさく、〈実にしかり〉と。問ひていはく、〈なんの殊異なることか ある〉と。道人のいはく、〈仏の功徳は巍々として量りがたし。わが愚浅の、 よくこれを陳ぶるところにあらず。ほぼ一事を説かば、殊特なることを知りぬ べし。われ時に八歳、世尊来りて王宮に入りたまひき。すなはち前みて足を礼 せしに、頭の上の金の釵、堕落して地にあり。これを求むるに得ずして、その P--981 所以を怪しみき。如来の過ぎ去りたまひし足の跡に、千輻輪ありて、光明を現 じて晃き、七日ありてすなはち滅しにき。登時には、金の釵地と同色なりき。 ここをもつて見えざりき。光滅して後に、釵を得き。すなはち知りき、殊特な ることを〉と。王聞きて歓喜して、心あきらかに開悟しき」と。{略抄}『華厳』 の偈にのたまはく、   「一々の毛孔に光雲を現じて、あまねく虚空に遍して、大音を発す。   もろもろの幽冥の所、照らさざるなし。地獄の衆苦ことごとく減ぜしむ」   と。 この念をなすべし、「願はくは、仏の光明、われを照らして、生死の業苦を滅 したまへ」と。  五にはよく害するものなし。『宝積経』の三十七(意)にのたまはく、「風 劫起る時には、世に大風あり。僧伽多と名づく。かの風、この三千世界の須 弥・鉄囲、および四大洲、八万の小洲、大山・大海を挙ぐること、高さ百踰 繕那、乃至、無量百千踰繕那にして、すでに砕末して塵となす。また撃ちて、 閻魔天宮を壊滅す。乃至、遍浄天のあらゆる宮殿またみな散滅す。すなはちこ P--982 の風をもつて如来の衣を吹かんに、一の毛端の際をも、なほ動かすことあたは ず。いかにいはんや衣の角および全き衣をや」と。『十住論』(十住毘婆沙論) にいはく、「諸仏の不可思議なることをば、仮喩をもつて知りぬべし。たとひ 一切十方世界の衆生みな勢力あり、たとひ一の魔ありてそこばくの勢力あらん。 また十方の一々の衆生の力をして悪魔のごとくあらしめたらんに、ともに仏を 害せんと欲はんに、なほ仏の一毛をすら動かすことあたはじ。いはんや害する ものあらんや」と。偈(同)にいはく、   「もしもろもろの世間のなかに、仏を害することあらんと欲はば、   この事みな成ぜじ。不殺の法を成じたまへるをもつてなり」と。 この念をなすべし、「願はくは、われまさに仏の金剛不壊の身を得べし」と。  六には飛行自在なり。同論にいはく、「仏は虚空において、足を挙げ、足を 下ろし、行住坐臥したまふこと、みな自在を得たまへり。大声聞のごときは、 神通自在にして、一日に五十三億二百九十六万六千の三千大千世界を過ぐ。か くのごとき声聞の百歳に過ぎたるところをば、仏は一念に過ぎたまふ。乃至、 恒河のなかの沙の、一の沙を一の河となして、このもろもろの恒河沙の、大劫 P--983 に過ぎたるところの国土を、仏は一念のうちに過ぎたまふ。もし宝の蓮華を蹈 みて去らんと欲せば、すなはちよく成弁す。かくのごとく飛行すること一切無 礙なり」と。『観仏経』にのたまはく、「虚空において、足を挙げて行く時に、 千輻輪の相よりみな八万四千の蓮華を雨らす。かくのごときもろもろの華に塵 数の仏ましまして、また虚空を歩む」と。{以上略抄}また「空を蹈みて行きたまへ ども、しかも千輻輪は地際に現ず。悦意の妙香鉢特摩華、自然に踊出して如来 の足を承く。もし畜生趣の一切の有情、如来の足のために触れらるるものは、 七夜を極め満つるまで、もろもろの快楽を受け、命終の後には、善趣の楽世 界のなかに往生す」と。[『宝積経』。]もし四十里の盤石をもつて色究竟天より 下すに、一万八千三百八十三年を経て、この地に到るべし。ただちに下るすら なほしかり。これを推して知りぬべし、声聞の飛行、如来の飛行は、展転して 不可思議なることを。『華厳経』の恵林菩薩の讃仏の偈にのたまはく、   「自在神通力は、無量にして難思議なり。   来もなくまた去もなくして、法を説きて衆生を度したまふ」と。 この念をなすべし、「願はくは、われ神通を得て、諸仏の土に遊戯せん」と。 P--984  七には神力無礙なり。『十住論』(十住毘婆沙論・意)にいはく、「仏はよく 恒河沙等の世界を末して、微塵のごとくならしめて、またよく還りて合したま ふ。あるいはまたよく無量無辺阿僧祇の世界を変じて、みな金銀等となさしめ たまふ。またよく恒河沙等の世界の大海水を変じて、みな乳蘇等とならしめた まふ」と。{以上}『浄名経』(維摩経・意)に、菩薩の不思議解脱を説きてのた まはく、「三千大千世界を断ち取りて、陶家の輪のごとくして、右の掌のな かに着けて、擲ぐるに恒河沙の世界のほかに過ぐしたまはん。そのなかの衆生 は、おのが所住を覚せず、知せじ。また還りて本処に置くに、すべて人をして 往来の想あらしめじ。しかもこの世界の本の相は、故のごとし。また下方過恒 河沙等の諸仏世界において一仏土を取りて、上方過恒河沙無数の世界に挙げ着 くること、針鋒を持ちて一棗葉を挙ぐるがごとくするも、&M006734;はすことなし。須 弥山をもつて芥子のなかに納め、四大海をもつて一毛孔に入るることまたかく のごとし。そのなかの衆生は、覚せず、知せじ。ただ度すべきものすなはちこ れを知見す」と。{以上}菩薩なほしかり、いかにいはんや仏力をや。ゆゑに『度 諸仏境界経』にのたまはく、「よく十方世界をして一毛孔に入れしめ、{乃至}一 P--985 微塵においてよく無量無数不可説の世界を現ずるに、一切衆生また迫&M038801;なし。 無量無数不可説劫の威儀果報の事を、よく一念のうちにおいて現じ、一念の威 儀果報の事を、無量無数不可説劫のうちにおいて現ず。かくのごとき所作は、 心に功用なく、思惟をなさず」と。『華厳経』の真実幢菩薩の偈にのたまはく、   「一切のもろもろの如来は、神通力自在なり。   ことごとく三世のなかにおいて、これを求むるに不可得なり」と。 この念をなすべし、「われいままた知らず、仏の神力のために転ぜられて、い づれの仏土にかあり、たれの毛孔にかあるといふことを。われいづれの時にか、 これを覚知することを得ん」と。  八には随類化現なり。『十住論』(十住毘婆沙論・意)にいふがごとし。「仏 は一念のうちに、十方の無量無辺、恒河沙等の世界において、無量の仏身を変 化したまふ。一々の化仏またよく種々の仏事を施す」と。[以上の四事は神境通な り。]『度諸仏境界経』にのたまはく、「如来の所現は異の功用なく、異の思惟 なし。衆生の性に随ひて、おのづから見ること不同なり。十五日の夜、閻浮提 の人は、おのおの月の現じて、その上にありと見るが、月は作意して、われそ P--986 の上に現ぜんとせざるがごとし」と。『華厳』の偈にのたまはく、   「如来の広大の身は、法界を究竟したまへり。   この座を離れずして、一切の処に遍したまふ」と。 またのたまはく(同)、   「智慧甚深の功徳海、あまねく十方の無量の国に現じたまふ。   もろもろの衆生の見るべきところに随ひて、光明あまねく照らして法輪を   転じたまふ」と。 この念をなすべし、「願はくは、われまさに遍法界の身を見たてまつるべし」 と。  九には天眼明徹なり。『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「大力の声聞は 天眼をもつて小千国土を見、またなかの衆生の生時・死時を見る。小力の辟支 仏は十の小千国土を見、なかの衆生の生時・死時を見る。中力の辟支仏は百の 小千国土を見、なかの衆生の生時・死時を見る。大力の辟支仏は三千大千国土 を見、なかの衆生の生死の所趣を見る。諸仏世尊は無量無辺の不可思議の世間 を見そなはし、またこのなかの衆生の生時・死時を見そなはす」と。{以上}『華 P--987 厳経』の偈にのたまはく、   「仏眼は広大にして辺際なし。あまねく十方のもろもろの国土を見たまふ。   そのなかの衆生は不可量なり。大神通を現じてことごとく調伏したまふ」   と。 この念をなすべし、「いま弥陀如来は、はるかにわが身業を見そなはすらん」 と。  十には聞声自在なり。『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「たとひ、恒河 沙等の三千大千世界の衆生、一時に発言し、また一時に百千種の伎楽を作らん。 もしは遠きも、もしは近きも、意に随ひてよく聞きたまふ。もしなかにおいて、 一の音声を聞かんと欲せば、意に随ひて聞くことを得、余をば聞かず。また無 辺世界を過ぎたるに、最細の声をも、みなまた聞くことを得たまふ。もし衆生 をして聞かしめんと欲せば、よく聞くことを得しめたまふ」と。{略抄}『華厳経』 の文殊の偈にのたまはく、   「一切世間のなかのあらゆるもろもろの音声を、   仏智はみな随ひて了りたまふも、また分別あることなし」と。 P--988 この念をなすべし、「いま弥陀如来は、さだめてわが所有の語業を聞きたまふ らん」と。  十一には知他心智なり。『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「仏は、よく 無量無辺の世界の現在の衆生の心、およびもろもろの染浄の所縁等を知りたま ひ、またよく無色の衆生のもろもろの心を知りたまふ」と。{略抄}『華厳経』の 文殊の偈にのたまはく、   「一切衆生の心、あまねく三世にあるを、   如来は一念において、一切ことごとくあきらかに達したまふ」と。 この念をなすべし、「いま弥陀如来は、かならずわが意業を知りたまふらん」 と。  十二には宿住随念智なり。『十住論』(同)にいはく、「仏もし自身および 一切衆生の無量無辺の宿命の一切の事を念ぜんと欲せば、みなことごとく知 りて、過恒河沙等の劫の事に知らずといふことあることなし。この人はいづれ の処に生ぜりき、姓名・貴賤・飲食・資生・苦楽、所作の事業、所受の果報、 心にはなんの所行ある、本はいづこより来るといふこと、かくのごとき等の事 P--989 をすなはちよく知見したまふ」と。偈(十住毘婆沙論)にいはく、   「宿命智は無量なり。天眼の見、無辺なり。   一切の人天のなかには、よくその限りを知ることなし」と。 念ずべし、「願はくは仏、わが宿業をして清浄ならしめたまへ」と。  十三には智慧無礙なり。『宝積経』の三十七にのたまはく、「たとひ人あり て、恒河沙等の世界のあらゆる一切の草木を取り、ことごとく焼きて墨となし、 擲げて他方の恒河沙等の世界の大海に置き、百千歳にして、つきてもつてこれ を磨りてことごとく墨の汁となしてん。仏、大海のなかより一々の墨の滴りを 取りて、分別し了知したまふ。これはその世界のかくのごとき草木の、その根、 その茎、その枝、その条、華・菓・葉等となりと。またもし人ありて、一毛端 を持ちて水一滴を霑して、仏の所に来至して、この言をなさく、〈あへて滴水 をもつて、もつてあひ寄す。後にもし須ゐば、まさにわれに還し賜ふべし〉と。 その時に、如来その滴水を取りて、恒河の河のなかに置きたまはんに、かの河 の流浪回&M018337;のために旋転せられて、和合し引注して大海に至りなん。この人、 百年を満てをはりて、仏にまうしてまうさく、〈先に寄せたてまつりし滴水を、 P--990 いま請ふ、われに還したまへ〉と。その時に、仏、一分の毛端をもつて、大海 のうちに就けて、本の水滴を霑して、もつてこの人に還したまはん」と。{略抄} また『六波羅蜜経』にのたまはく、「無量恒河沙の十方界の草木を、ことごと く焚きて墨灰となして、億載海に歴ん。十力智深妙にして滴りを取りて、含生 に示して、実のごとく分別して、これ、それの界の樹等なりと知らしめたまへ り」と。{云々}またのたまはく(同・意)、「かくのごとき四洲およびもろもろの 山王をもつて紙素となし、八の大海の水、もつてその墨となし、一切の草木を もつてその筆となして、一切の人天一劫に書写せらんを、舎利弗の所得の智慧 に比ぶれば、十六分がなかにその一にも及ばず。またこの三千大千世界におい て、そのなかの衆生の所有の智慧をして、舎利弗のごとく、等しくして異なる ことあることなからしめんに、菩薩の布施波羅蜜多を了達せる所有の智慧は、 かれに過ぎたること百倍なり。またこの三千大千世界のあらゆる衆生をして、 みな布施波羅蜜多の智慧を具せしめんに、一の菩薩の所得の浄戒波羅蜜多の智 慧に及ばず。乃至、般若もまたかくのごとし。またこの三千大千世界のあらゆ る衆生をして、みな六波羅蜜の智慧を具せしめんに、一の初地の菩薩の智慧に P--991 は及ばず。乃至、十地まで展転して、かくのごとし。またこの十地の菩薩の智 慧は、なんぢ慈氏(弥勒)、一生補処の菩薩の智慧に比ぶるに、百千分がなかに その一にも及ばず。この三千大千世界の一切衆生の所有の智慧をして、みな慈 氏のごとく、等しくして異なることあることなからしめんに、かくのごとき菩 薩、道場に坐して魔怨を降伏して、まさに正覚を成ぜんとする所有の智慧は、 仏の智慧の百千万分においてその一にも及ばず」と。『宝積経』にのたまはく、 「たとひ、十方の無量無辺の一切世界のあらゆる衆生をして、みなことごとく 繋属一生の菩薩の智慧を成就せしめんに、如来の十力の一の処非所智に比せん と欲はんに、百千万分のその一にも及ばず。{乃至}烏波尼沙陀分のその一にも及 ばず。乃至、算数・譬喩も及ぶことあたはざるところなり」と。『華厳経』の 偈にのたまはく、   「如来の甚深の智は、あまねく法界に入りたまふ。   よく三世に随ひて転じて、世のために明道となりたまふ」と。 同経の普明智菩薩の讃仏の偈にのたまはく、   「一切諸法のなかには、法門に辺あることなし。 P--992   一切智を成就して、深法海に入る」と。{以上} この念をなすべし、「弥陀如来はわが三業を照見したまふらん。願はくは、世 尊のごとく慧眼第一に浄なることを得ん」と。  十四には能調伏心なり。『十住論』(十住毘婆沙論)にいはく、「諸仏は、も しは定に入り、もしは定に入りたまはずして、心を一縁のなかに繋けんと欲せ ば、意の久近に随ひて意のごとくよく住したまふ。この縁のなかよりさらに余 の縁に住したまふに、意に随ひてよく住したまふ。もし仏、常心に住したまへ るに、人をして知らざらしめんと欲せば、すなはち知ることあたはず。たとひ 一切衆生の、他心を知る智をして大梵王のごとくならしめ、大声聞・辟支仏の ごとく、智慧を成就して他人の心を知らんとも、仏の常心を知らんと欲はんに、 もし仏聴したまはずは、すなはち知ることあたはじ」と。念ずべし、「願はく は、われをして仏覚三昧を得しめたまへ」と。  十五には常在安慧なり。同論にいはく、「諸仏は安穏にして、つねに念を動 かしたまはざれども、つねに心にあり。なにをもつてのゆゑに。先に知りて後 に行生じ、意の所縁のなかに随ひて無礙の行に住するがゆゑに。一切の煩悩 P--993 を断ずるがゆゑに。動性を出過せるがゆゑに。仏、阿難に告げたまふがごとし。 〈仏は、この夜において阿耨菩提を得て、一切世間の、もしは天・魔・梵・沙 門・婆羅門を、尽苦の道をもつて教化することあまねく畢へて無余涅槃に入り たまふ。その中間において、仏は諸受において起を知り、住を知り、生を知り、 滅を知ろしめす。諸想・諸触・諸覚・諸念においてまた起を知り、住を知り、 生を知り、滅を知ろしめす。悪魔、七年昼夜に息まずして、つねに仏に随逐す るに、仏の短を得ず、仏の念の安慧にあらざるを見ず〉」と。偈(十住毘婆沙論) にいはく、   「その念大海のごとくして、湛然として安穏にまします。   世間には法として、よく擾乱するものあることなし」と。 念ずべし、「願はくは仏、わが粗動なる覚観の心を除滅したまへ」と。  十六には悲念衆生なり。『大般若経』にのたまはく、「十方世界には、一の 有情として、如来の大悲の照らすことあたはざるところなるはなし」と。『宝 積経』にのたまはく、「たとひ、恒河沙等の諸仏の世界を過ぎて、ただ一の 衆生も、この仏の化すべき限りなるには、その時に如来みづからその所に往き P--994 て、ために法要を説きて、それをして悟入せしめたまふ」と。同経の偈にのた まはく、   「一の衆生を利せんがために、無辺の劫海に住して、   それをして調伏することを得しめたまふ。大悲心かくのごとし」と。 『華厳経』の文殊讃仏の偈にのたまはく、   「一々の地獄のなかに、無量劫を経て、   衆生を度せんがためのゆゑに、よくこの苦を忍びたまふ」と。 『大経』(大般涅槃経)の偈にのたまはく、   「一切衆生の、異の苦を受くるは、ことごとくこれ如来一人の苦なり。{乃至}   衆生は仏のよく救ひたまふことを知らず。ゆゑに如来および法・僧を謗   ず」と。 『大論』(大智度論)にいはく、「仏は仏眼をもつて、一日一夜、おのおの三時 に一切衆生を観じたまふ、たれか度すべきものあらんと。時を失せしむること なし」と。ある『論』(同・意)にいはく、「たとへば、魚の子の母もし念ぜざ れば、子すなはち爛壊しぬるがごとく、衆生もまたしかなり。仏もし念じたま P--995 はずは、善根すなはち壊しなん」と。『荘厳論』の偈にのたまはく、   「菩薩は衆生を念じて、これを愛すること骨髄に徹り、   恒時に利益せんと欲ふ。なほ一子のごときがゆゑに」と。 これらの義によりて、ある懺悔の偈にいはく、   「父母に子あり。はじめて生れてすなはち盲聾なり。   慈悲の心慇重にして、捨てずして養活す。   子は父母を見ざれども、父母はつねに子を見んがごとき、   諸仏は衆生を視そなはすこと、なほ羅&M023523;羅のごとし。   衆生は見たてまつらずといへども、実に諸仏の前にあり」と。{以上} この念をなすべし、「弥陀如来はつねにわが身を照らし、わが善根を護念し、 わが機縁を観察したまふ。われもし機縁熟せば、時を失はずして接を被りな ん」と。  十七には無礙弁説なり。『十住論』(十住毘婆沙論)にいふがごとし。「もし 三千界のあらゆる四天下のなかに満てらん微塵数の三千大千界の衆生、みな舎 利弗のごとき、辟支仏のごとき、みなことごとく智慧・楽説を成就し、寿命も P--996 上のごとき塵数の大劫ならんに、このもろもろの人等、四念処に因せて、その 形寿を尽すまで如来を問難せば、如来還りて四念処の義をもつてその所問を答 へたまはんに、言義重ならず、楽説無窮ならん」と。またいはく(十住毘婆沙 論)、「仏の説きたまふところあるは、みな利益ありてつひに空言ならず。これ また希有なり。{乃至}もし一切衆生の智慧・勢力、辟支仏のごとくならんに、こ のもろもろの衆生、もし仏意を承けずして一人を度せんと欲せば、この処ある ことなからん。もしこのもろもろの人、説く時には、乃至、無色界の結使の一 の毫釐の分をも断つことあたはず。もし仏、衆生を度せんと欲して、言説した まふところあれば、乃至、外道・邪見、もろもろの竜・夜叉等、および余の仏 語を解せざるものにも、みなことごとく解らしめたまふ。これらもまたよく無 量の衆生を転化す。{乃至}このゆゑに、仏を最上の導師と名づけたてまつる」と。 偈(同)にいはく、   「四の問答のなかにおいて、超絶して倫匹なし。   衆生のもろもろの問難は、一切みな得やすし。   もし三時のうちにおいて、もろもろの所説あるは、 P--997   言かならず虚しく設けたるにあらず、つねに大果報あり」と。{以上} 『華厳』の偈にのたまはく、   「諸仏の広大の音は、法界に聞えずといふことなし。   菩薩はよく了知して、よく音声海に入る」と。 『浄名経』(維摩経)の偈にのたまはく、   「仏は一音をもつて法を演説したまふに、衆生は類に随ひておのおの解を   得。   みな謂へり、世尊はその語を同じくしたまふと。これすなはち神力不共の   法なり」と。 また『譬喩経』の第三にのたまはく、「阿育王、意に仏を信ぜず。時に海辺に 鳥あり、名づけて&M046866;随となす。その音はなはだ哀和にして、すこぶる髣髴とし て、仏の音声の万分が一に似たることあり。王、その音を聞きて歓喜して、す なはち無上道の意を発せり。宮中の&M006392;女おほよそ七千の人も、また無上道の意 を発してき。王はこれよりつひに三尊を信ぜり。鳥の音声にして、度するとこ ろかくのごとし。いはんや、至真の清浄の妙音のものにおいてをや」と。{取意略抄} P--998 念ずべし、「われいづれの時にか、かの弁説を聞くことを得ん」と。  十八には観仏法身なり。文殊師利菩薩のいへるがごとし。「われ、如来を観 ずるに、すなはち真如の相なり。動なく作なし。分別するところなく分別に異 なることもなし。方処に即せず方処に離せず。有にあらず無にあらず、常にあ らず断にあらず。三世に即せず三世に離せず。生なく滅なく、去なく来なく、 染・不染もなく、二・不二もなし。心言の路絶えたり。もしこれらの真如の相 をもつて如来を観ずるを、真に仏を見たてまつると名づく。または如来を礼敬 し、親近すと名づく。実に有情においてよく利益をなす」と。[『大般若』。]『占 察経』の下巻に地蔵菩薩のいはく、「一実境界とは、いはく、衆生の心体は、 もとよりこのかた、生ぜず滅せず、自性清浄にして無障・無礙なること、な ほ虚空のごとし。分別を離れたるがゆゑに、平等に普遍して至らざるところな く、十方に円満す。究竟して一相にして、無二無別なり。変ぜず異せず、増な く減なし。一切衆生の心、一切声聞・辟支仏の心、一切菩薩の心、一切諸仏の 心は、みな同じく不生不滅、無染寂静の真如の相なるをもつてのゆゑに。所以 はいかん。一切の、心ありて分別を起すは、なほ幻化のごとくして、定実ある P--999 ことなし。{乃至}一切世界に心の形状を求むるに、一区の分として得べきものな し。ただ衆生の無明痴闇の勲習の因縁をもつて、妄りに境界を現じて、念着を 生ぜしむ。いはゆるこの心、みづから無なりと知ることあたはずして、妄りに みづから有と謂ひて、覚知の想を起して、我・我所を計す。しかも実には覚知 の想あることなし。この妄心は畢竟じて体なく、可見ならざるをもつてのゆゑ に」と。[乃至広説。信解をもつてこの理を観念するを、菩薩の最初根本業となせり。]こ の一実境界は、すなはちこれ如来の法身なり。『華厳経』の一切慧菩薩の偈に のたまはく、   「法性はもとより空寂にして、取なくまた見なし。   性空なるはすなはちこれ仏なり。思量することを得べからず」と。{以上} 念ずべし、「われいづれの時にか本有の性を顕すことを得ん」と。  十九には総観仏徳なり。普賢菩薩のいふがごとし。「如来の功徳は、たとひ 十方の一切の諸仏、不可説の仏刹を、極微塵数の劫を経て、相続して演説した まふとも、窮尽すべからず」(華厳経)と。{以上}また阿弥陀仏の威神無極なるこ とは、『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし。「無量寿仏は威神極まりな P--1000 し。十方世界の無量無辺不可思議の諸仏如来、称歎したまはざることなし」と。 龍樹の偈(十住毘婆沙論)にいはく、   「世尊のもろもろの功徳は、度量することを得べからず。   人の、尺寸をもつて空を量らんに、尽すべからざるがごとし」と。 同じき讃弥陀の偈(易行品)にいはく、   「諸仏無量劫に、その功徳を讃揚したまはんに、   なほ尽すことあたはじ。清浄の人に帰命したてまつる」と。 念ずべし、「願はくは、われ仏を得て、正法の王に斉しからん」と。  二十には欣求教文なり。『般舟経』にのたまはく、「この三昧は、値ふこと を得ること難し。たとひこの三昧を求めんに、百億劫に至り、ただその名声 を聞くことを得んと欲すとも、聞くことを得ることあたはじ。いかにいはんや 学することを得るものをや。うたたまた行じて人に教へんをや」と。偈(同) にのたまはく、   「われみづから往世の時を識念するに、その数六万歳を具足するまで、   つねに法師に随ひて捨離せざりしに、初めより、この三昧を聞くことを得 P--1001   ざりき。   仏ましましき。号をば具至誠とまうしき。時に智の比丘ありき。和隣と名   づけき。   かの仏世尊の泥&M017421;の後に、比丘つねにこの三昧を持ちき。   われ時に王君子の種たりき。夢のなかにこの三昧を聞くに逮びぬ。   〈和隣比丘この経を有てりき。王まさに従ひてこの定意を受くべかりき〉   と。   夢より覚めをはりてすなはち往きて求むるに、すなはち比丘の三昧を持て   るを見つ。   すなはち鬚髪を除きて沙門となりにき。学すること八千歳して一時聞きき。   その数八万歳を具足するまで、この比丘を供養し奉事しき。   時に魔の因縁しばしば興起して、初めよりいまだかつて一反すら聞くこと   を得ざりき。   このゆゑに比丘・比丘尼、および清信士・清信女、   この経法を持てとなんぢらに属す。この三昧を聞きては疾く受行せよ。 P--1002   つねにこれを習持せる法師を敬ひて、一劫を具足するまで懈ることを得る   ことなかれ。{乃至}   たとひ億千那術劫に、この三昧を求むるに聞くことを得ること難し。   たとひ世界の、恒沙のごとき、なかに満てらん珍宝をもつて布施せんも、   もしこの一偈の説を受けて敬誦することあらんには、功徳かれに過ぎたら   ん」と。 『双巻経』(大経・下)にのたまはく、「たとひ大火ありて三千大千世界に充満せ りとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて、歓喜し信楽し、受 持、読誦して、説のごとく修行すべし。所以はいかん。多く菩薩ありてこの経 を聞かんと欲すとも、しかも得ることあたはず。もし衆生ありてこの経を聞く ものは、無上道においてつひに退転せじ。このゆゑに、まさに専心にして信じ、 受持し読誦して、行ずべし」と。{以上}この念をなすべし、「あるいは大千の猛 火聚を過ぎ、あるいは億劫を経とも、法を求むべし。われすでに深三昧に値遇 せり。いかんぞ退屈して勤修せざらん」と。行者、このもろもろの事において、 もしは多もしは少、楽に随ひて憶念せよ。もし憶念することあたはずは、すべ P--1003 からく巻を披きて文に対ひて、あるいは決択し、あるいは誦詠し、あるいは恋 慕し、あるいは敬礼すべし。近くは勤心の方便となし、遠くは見仏の因縁を結 べ。おほよそ三業・四儀に、仏の境界を忘るることなかれ。  問ふ。如来のかくのごとき種々の功徳を信受し、憶念するは、なんの勝利や ある。答ふ。『度諸仏境界経』にのたまはく、「もし十方世界の微塵等の諸仏 および声聞衆において、百味の飲食、微妙の天衣を施すること、日々に廃せず して恒沙の劫を満てて、かの仏の滅後に、一々の仏のために、十方界の一々の 世界において塵数の塔を起て、衆宝をもつて荘厳し、種々に供養すること、一 日に三時、日々に廃せずして恒沙の劫を満てて、また無数無量の衆生を教へて、 もろもろの供養を設けしめんに、もし一人ありて、この如来の智慧功徳、不可 思議の境界を信ぜば、所得の功徳はかれに勝れたること無量なり」と。{取意}ま た『華厳』の偈にのたまはく、   「如来の自在力は、無量劫にも遇ふこと難し。   もし一念の信をなすは、すみやかに無上道を証す」と。 余は、下の利益門のごとし。 P--1004  問ふ。凡夫の行人は、物に逐ひて意移る。なんぞつねに念仏の心を起すこと を得ん。答ふ。かれ、もしただちに仏を念ずることあたはずは、事々に寄せて その心を勧発すべし。いはく、遊戯・談笑の時には、極楽界の宝池・宝林のな かにして、天・人聖衆と、かくのごとく娯楽することを得んと願へ。もし憂苦 する時には、もろもろの衆生とともに、苦を離れて極楽に生ぜんと願へ。もし 尊徳に対ひては、まさに極楽に生れて、かくのごとく世尊に奉らんと願ふべし。 もし卑賤を見ば、まさに極楽に生じて、孤独の類を利楽せんと願ふべし。おほ よそ人畜を見るごとに、つねにこの念をなすべし、「願はくは、この衆生とと もに安楽国に往生せん」と。もし飲食する時には、まさに極楽の自然の微妙の 食を受けんと願ずべし。衣服・臥具、行住坐臥、違縁・順縁、一切准へて知 れ。[事に寄せて願をなすこと、これ『華厳経』等の例なり。] 【51】 第四に止悪修善とは、『観仏三昧経』にのたまはく、「この念仏三昧を、 もし成就せんには、五の因縁あり。一には持戒不犯。二には不起邪見。三には 不生驕慢。四には不恚不嫉。五には勇猛精進して、頭燃を救ふがごとくす。 この五の事を行じて、まさしく諸仏の微妙の色身を念じて、心をして退せざら P--1005 しめよ。またまさに大乗経典を読誦すべし。この功徳をもつて仏力を念ずる がゆゑに、疾々に無量の諸仏を見たてまつることを得」と。{以上}  問ふ。この六種の法はなんの義かあるや。答ふ。同経にのたまはく、「浄戒 をもつてのゆゑに、仏の像面を見たてまつること、真金の鏡のごとくして、了 了分明なり」と。また『大論』(大智度論)にいはく、「仏は医王のごとく、 法は良薬のごとく、僧は瞻病人のごとく、戒は服薬の禁忌のごとし」と。{以上} ゆゑに知りぬ、たとひ法薬を服したりとも、禁戒を持たずは、煩悩の病患を除 愈するに由なし。ゆゑに『般舟経』にのたまはく、「戒を破ること、大きさ毛 髪のごとくにもすることを得ざれ」と。[以上、戒品。]『観仏経』にのたまはく、 「もし邪念および貢高の法を起さば、まさに知るべし、この人はこれ増上慢に して、仏法を破滅す。多く衆生をして不善の心を起さしめ、和合僧を乱り、異 を顕して、衆を惑はす。これ悪魔の伴なり。かくのごとき悪人は、また仏を念 ずといへども、甘露の味はひを失ふ。この人は生るる処に、貢高をもつてのゆ ゑに、身つねに卑小にして、下賤の家に生れ、貧窮の諸衰、無量の悪業、もつ て厳飾となす。かくのごとき種々の衆多の悪事は、まさにみづから防護して、 P--1006 永く生ぜざらしむべし」と。[以上、邪見・驕慢。]『六波羅蜜経』にのたまはく、 「無量劫のうちにもろもろの善を修行すとも、安忍の力および智慧の眼なけれ ば、一念の瞋火に焼滅して余なし」と。またある所に説きていはく、「よく大 利を損ずること、瞋りに過ぎたるはなし。一念の因縁ことごとく倶胝広劫の所 修の善を焚滅す。このゆゑに慇懃につねに捨離すべし」と。また『遺教経』 にのたまはく、「功徳を劫むる賊は、瞋恚に過ぎたるはなし」と。『大集』の 「月蔵分」(意)に、無瞋の功徳を説きてのたまはく、「つねに賢聖とあひ会し て、三昧に着くことを得」と。[以上、瞋恚。]『双巻経』(大経・下)にのたまは く、「今世の恨みの意は微しきあひ憎嫉すれども、後世にはうたたはなはだし くして、大きなる怨となるに至る」と。{云々}また他人を嫉毀する、その罪はな はだ重し。また『宝積経』の九十一にのたまふがごとし。「仏、施鹿園にま しましき。時に六十の菩薩あり。業障深重にして、諸根闇鈍なり。仏足を頂 礼して悲感して涙を流す。みづから起くることあたはず。時に仏告げてのたま はく、〈なんぢら、起くべし。また悲号して大熱悩をなすことなかれ。なんぢ、 曾、倶留孫仏の法のなかにして、出家して道をなせしかども、みづから多聞・ P--1007 持戒・頭陀・少欲に執着せりき。時に二の説法の比丘ありき。もろもろの親 友多く、名聞・利養ありき。なんぢら、嫉妬の心をもつて妄言誹謗して、かの 親友・もろもろの衆生をして、随順の心なく、もろもろの善根を断ぜしめき。 この悪業によりて、六十百千歳のうちに阿鼻地獄に生れき。余業いまだ尽きず して、また四十百千歳のうちに等活地獄に生れ、また二十百千歳のうちに黒縄 地獄に生れ、また六十百千歳のうちに焼熱地獄に生れき。かしこより歿しをは りて、還りて人となることを得て、五百世のうちに生盲にして目なかりき。在 在の所生に正念を忘失し善根を障礙しき。形容醜欠にして、人見んと喜まざ りき。つねに辺地に生れて、貧窮下劣なりき。ここより歿しをはりて、後末の 五百歳のうちに法滅せんと欲する時に、還りて辺地にして下劣の家に生れて、 匱乏飢凍して、正念を忘失せん。たとひ善を修せんと欲すとも、もろもろの留 難多し。五百歳の後に悪業すなはち滅して、後に阿弥陀仏の極楽世界に生るる ことを得ん。この時に、かの仏、まさになんぢらがために阿耨菩提の記を授け たまふべし〉と。時にもろもろの菩薩、仏の所説を聞きて、挙りて身の毛竪ち、 深く憂悔を生じて、すなはちみづから涙を収めてまうさく、〈われ、今日より P--1008 未来際に至るまで、もし菩薩乗の人において違犯あらんを見て、その過を挙露 さば、われらすなはち如来を欺誑したてまつるとせん。われ、今日より未来際 に至るまで、もし在家・出家の菩薩乗の人の、欲楽をもつて遊戯し歓娯するを 見んも、つひにその過を伺ひ求めずして、つねに信敬を生じて、教師の想を起 さん。われ、今日より未来際に至るまで、もしよくその身を摧伏して下劣の想 をなすこと、旃陀羅および狗犬のごとくせずは、すなはち如来を欺誑したてま つるとせん。もし持戒・多聞・頭陀・少欲・知足の一切の功徳において、身み づから&M018948;曜せば、すなはち如来を欺誑したてまつるとせん。所修の善本をばみ づから矜り伐らじ、所行の罪業をば慚愧発露せん。もししからずは、すなはち 如来を欺誑したてまつるとせん〉と。時に仏、讃じてのたまはく、〈善きかな、 善きかな。かくのごとき決定心をもつてせば、一切の業障みなことごとく消滅 し、無量の善根はまたまさに増長すべし〉」と。{略抄}このゆゑに『大論』(大智 度論)の偈にいはく、   「自法に愛染するがゆゑに、他人の法を毀&M035344;するは、   持戒の行人なりといへども、地獄の苦を脱れず」と。[以上、嫉妬。] P--1009 同論の偈にいはく、   「馬・井の二の比丘は、懈怠にして悪道に堕したり。   仏を見、法を聞くといへども、なほまたみづから勉れざるをもつてなり」   と。{以上} またもし精進なくは、行成就すること難し。ゆゑに『華厳経』の偈にのたま はく、   「鑚燧して火を求むるがごとし。いまだ出でざるにしばしば息めば、   火の勢随ひて止滅す。懈怠のものまたしかなり」と。[以上、精進。] 読誦大乗の功徳無量なることは、『金剛般若論』の偈にいふがごとし。   「福は菩提に趣かず。二よく菩提に趣く。   実においては了因と名づく。余においては生因と名づく」と。[以上、『観仏   経』の六種の法畢りぬ。かの『経』(同)に、嫉・恚・精進はつぶさにこれを説かず。   ゆゑに、余の文をもつて『経』(同)の意を釈成す。] 『般舟経』にまた十の事あり。かの『経』(同)にのたまふがごとし。「もし菩 薩ありてこの三昧を学誦せば、十の事あり。一には他人の利養を嫉妬せざれ。 P--1010 二にはことごとくまさに人を愛敬し、長老に孝順すべし。三にはまさに報恩 を念ふべし。四には妄語せずして非法を離れよ。五にはつねに乞食して請を受 けざれ。六には精進して経行せよ。七には昼夜に臥出することを得ざれ。八 にはつねに布施することを欲ひて、つひに惜しみ悔ゆることなかれ。九には深 く慧のなかに入りて着するところなかれ。十には善師に敬事すること、仏のご とくせよ」と。{略抄}  問ふ。『般舟経』にまた四々十六種の法あり。『十住毘婆沙』の第九に百四 十余種の法あり。『念仏三昧経』に種々の法あり。また『華厳経』の「入法界 品」の偈にのたまはく、   「もし信解して驕慢を離るることあらば、発心してすなはち如来を見たて   まつることを得るも、   もし諂誑不浄の心あらば、億劫に尋求すれども値遇することなからん」と。 『観仏経』にのたまはく、「昼夜六時に六法を勤行し、端坐し正受して、まさ に小語を楽ふべし。経を読誦し、広く法教を演ぶるを除きては、つひに無義の 語を宣説せざれ。つねに諸仏を念じて、心々相続せよ。乃至、一念のあひだ P--1011 も仏を見ざる時あることなし。心専精なるがゆゑに、仏日を離れず」と。また 『遺日摩尼経』に説かく、「沙門の、牢獄に堕するに、多くの事あり。あるい は人を求めて供養を得んと欲し、あるいは多く衣鉢を積まんと欲し、あるいは 白衣と厚善し、あるいはつねに愛欲を念ひ、あるいは喜みて知友と交結す」と。 [文に多くの法あり、略してこれを抄す。]なんぞいま、かれらの法を挙げざるや。答 ふ。もし広くこれを出さば、還りて行者をして退転の心をなさしめん。ゆゑに 略して要を挙ぐ。もし堅く十重・四十八軽戒を持たば、理かならず念仏三昧を 助成して、また任運に余の行をも持得しつべし。いはんや六法を具し、あるい は十法を具せんに、いづれの行か摂まらざらん。ゆゑに略して述せず。しかも 粗強の惑業は、人をして覚了せしむれども、ただ無義の語はその過顕ならずし て、つねに正道を障ふ。よくこれを治すべし。あるいは『大論』(大智度論)の 文によるべし。いはく、「人の失火して、四辺にともに起らんがごときに、い かんぞそのうちに安処して、余の事を語説せん。このなかに仏説きたまはく、 〈もし声聞・辟支仏の事を説くすら、なほ無益の言となす。いかにいはんや、 余の事をや〉」と。{以上}行者つねに娑婆の依正において火宅の想を生じて、無 P--1012 益の語を絶ち、相続して仏を念ずべし。  問ふ。『往生論』(天親の浄土論)に念仏の行法を説きていはく、「三種の菩 提門の相違の法を遠離せよ。なんらか三種。一には智慧門によりて、自楽を求 めず。我心の、自身に貪着することを遠離するがゆゑに。二には慈悲門により て、一切衆生の苦を抜く。無安衆の心を遠離するがゆゑに。三には方便門によ りて、一切衆生を憐愍する心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離するがゆゑ に。これを、三種の菩提門の相違の法を遠離すと名づくがゆゑに。菩薩、かく のごとき三種の菩提門の相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法満足する ことを得るがゆゑに。なんらか三。一には無染清浄心。身のためにもろもろ の楽を求めざるがゆゑに。二には安清浄心。一切衆生の苦を抜くがゆゑに。 三には楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに。衆生 を摂取して、かの国土に生れしむるをもつてのゆゑに。これを三種の随順菩提 門の法満足すと名づく」と。{以上}このなかに、なんがゆゑぞ、かの『論』(同) によらざる。答ふ。前の四弘のなかに、この六法を具せり。文言異なりといへ ども、その義は闕くることなし。 P--1013  問ふ。仏を念ずるに、おのづから罪を滅す。なんぞかならずしも堅く戒を持 つや。答ふ。もし一心に念ぜば、まことに責むるところのごとし。しかも尽日 に仏を念ぜんも、閑かにその実を&M012779;すれば、浄心はこれ一両、その余はみな濁 乱せり。野の鹿は繋ぎがたく、家の狗はおのづから馴れたり。いかにいはんや、 みづから心をほしいままにせば、その悪いくばくぞや。このゆゑに、かならず まさに精進して、浄戒を持つこと、なほ明珠を護るがごとくすべし。後の悔い、 なんぞ及ばんや。よくこれを思念せよ。  問ふ。まことにいふところのごとし。善業はこれ今世の所学、欣ふといへど も、ややもすれば退す。妄心はこれ永劫の所習、厭ふといへども、なほ起る。 すでにしからば、なんの方便をもつてかこれを治せん。答ふ。その治、一にあ らず。『次第禅門』にいふがごとし。「一に、沈&M010812;闇塞の障を治せんには、応 仏を観念すべし。三十二相のなかに、随ひて一を取れ。あるいは先づ眉間の毫 相を取りて、目を閉ぢて観ぜよ。もし心闇鈍にしてはるかに成ぜんとするに成 ぜずは、まさに一の好厳の形像に対ひて、一心に相を取り、これを縁じて定に 入るべし。もし明了ならずは、眼を開きてさらに観じ、またさらに目を閉ぢ P--1014 よ。かくのごとくして一相を取ること明了ならば、次第にあまねく衆相を観 じて、心眼をして開明ならしめ、すなはち&M010812;睡沈闇の心を破せよ。仏の功徳を 念ずれば、すなはち罪障を除く。二に、悪念思惟の障を治せんには、報仏の功 徳を念ずべし。正念のうちに、仏の十力・四無所畏・十八不共・一切種智は、 円かに法界を照らして、常寂不動にして、あまねく色身を現じて、一切を利 益したまふ功徳は無量にして不可思議なることを縁ぜよ。なにをもつてのゆゑ に。この、仏の功徳を念ずるは、勝善法を縁ずるなかより生ずる心数なれども、 悪念思惟は、悪法を縁ずるなかより生ずる心数なり。善はよく悪を破するがゆ ゑに、報仏を念ずべし。たとへば、醜陋少智の人の、端正大智の人のなかにあ りては、すなはちみづから鄙恥するがごとく、悪もまたかくのごとし。善心の なかにありては、すなはち恥愧しておのづから息む。仏の功徳を縁ずれば、念 念のうちに一切の障を滅す。三に、境界逼迫の障を治せんには、法仏を念ずべ し。法仏とは、すなはちこれ法性なり。平等にして不生不滅なり。形色あるこ となく、空寂無為なり。無為のなかにはすでに境界なし。何者かこれ逼迫の相 ならん。境界の空なることを知るがゆゑに、すなはちこれ対治なり。もし三十 P--1015 二相を念ずれば、すなはち対治にあらず。なにをもつてのゆゑに。この人いま だ相を縁ぜざる時に、すでに境界のために悩乱せらる。しかるをさらに相を取 らば、この着によりて、魔はその心を狂乱す。いま空を観じて相を破すれば、 もろもろの境界を除き、心に在きて仏を念ずれば、功徳無量にしてすなはち重 罪を滅す」と。{略抄}別相の治もかくのごとし。いま三の通の治を加へん。一に は、よく惑の起ることを了して、その心を驚覚して、煩悩を呵責すること、悪 賊を駆るがごとくし、三業を防護すること、油鉢を&M012808;ぐるがごとくせよ。『六 波羅蜜経』にのたまふがごとし。「結跏趺坐して正念に観察し、大悲心をもつ て屋宅となし、智慧をもつて鼓となし、覚悟の杖をもつてこれを扣き撃ちて、 もろもろの煩悩に告げよ。〈なんぢら、まさに知るべし、もろもろの煩悩の賊 は妄想より生ず。わが法王の家に善事の起ることあり。なんぢが所為にあらず。 なんぢ、よろしくすみやかに出づべし。もし時に出でずは、まさになんぢが命 を断つべし〉と。かくのごとく告げをはるに、もろもろの煩悩の賊は、尋いで おのづから散滅す。次に自身において、よく防護を起して、放逸すべからず」 と。また『菩薩処胎経』の偈にのたまはく、 P--1016   「かの犯罪の人の、満鉢の油を&M012808;げ持して、   もし油を棄つること一&M017772;をもせば、罪大僻に交入せん。   左右に伎楽をなせども、死を懼れて顧視せざるがごとし。   菩薩の浄観を修するには、執意、金剛のごとく、   毀誉および悩乱に、心意、傾動せず。   空は本来浄にして、彼此、中間もなしと解す」と。  二には、通じて四句を用ゐて、一切の煩悩の根源を推求せよ。いはく、この 煩悩は、心によりて生ずとやせん、縁によりて生ずとやせん、共に生ずとやせ ん、離れて生ずとやせん。もし心によりて生ぜば、さらに縁を待たじ。あるい は亀毛・兎角においても、貪瞋を生ずべし。もし縁によりて生ぜば、心を用ゐ ざるべし。あるいは眠れる人をして煩悩を生ぜしむべし。もし共に生ずとせば、 いまだ共せざるとき、おのおのなくして、共の時に、いづくんぞあらん。たと へば二の沙の合すといへども、油なきがごとし。あるいは心境ともに合するに、 なんぞ煩悩を生ぜざる時ある。もし離れて生ずとせば、すでに心を離れ縁を離 れたり、なんぞたちまちに煩悩を生ぜん。あるいは虚空、二を離れたり。つね P--1017 に煩悩を生ずべし。種々に観察するに、すでに実の生なし。よりて来るところ なく、また去るところなし。内にあらず、外にあらず、また中間にあらず。す べて処所なく、みな幻有のごとし。ただ惑心のみにあらず、観心もまたしかな り。かくのごとく推求するに、惑心おのづから滅す。ゆゑに『心地観経』の偈 にのたまはく、   「かくのごとき心法はもとより有にあらず、凡夫は執迷して非無なりと謂   へり。   もしよく心の体性の空なることを観ずれば、惑障生ぜずしてすなはち解   脱す」と。 また『中論』の第一の偈にいはく、   「諸法は自より生ぜず、また他よりも生ぜず。   共ならず無因ならず。このゆゑに無生なりといふことを知りぬ」と。 この偈によりて、多くの四句を用ゐるべし。三には、念ずべし、「いま、わが 惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまへる八万四千の 波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。貪欲はすなはちこれ道なり。 P--1018 恚・痴またかくのごとし。水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。ゆ ゑに経にのたまはく、〈煩悩・菩提は体無二なり。生死・涅槃は異処にあら ず〉と。われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳 の水となすことあたはず。願はくは仏、われを哀愍して、その所得の法のごと く、定慧力をもつて荘厳し、これをもつて解脱せしめたまへ」と。かくのごと く念じをはりて、声を挙げて仏を念じて、救護を請へ。『止観』にいふがごと し。「人の重きを引くに、自力にて前まずは、傍らの救助を仮りて、すなはち 軽く挙げらるるがごとく、行人もまたしかなり。心弱くして障を排ふことあた はずは、名を称して護を請ふに、悪縁壊することあたはず」と。{以上}もし惑、 心を覆ひて通別の対治を修せんと欲せしめずは、すべからくその意を知りて、 つねに心が師となりて、心を師とせざるべし。  問ふ。もし破戒のもの、三昧成ぜずは、いかんぞ、『観仏経』に、「この観 仏三昧は、これ一切衆生の、罪を犯せるものの薬、破戒のものの護りなり」と のたまへるや。答ふ。破戒の以後に、前の罪を滅せんがために一心に仏を念ず。 これがために薬と名づく。もしつねに毀犯せば、三昧成じがたし。 P--1019 【52】 第五に懺悔衆罪とは、もし煩悩のためにその心を迷乱して禁戒を毀らば、 日を過ぐさずして懺悔を営修すべし。『大経』(大般涅槃経)の十九にのたまふ がごとし。「もし罪を覆へば、罪すなはち増長す。発露懺悔すれば、罪すなは ち消滅す」と。また『大論』(大智度論・意)にいはく、「身口の悪を悔いずし て仏を見んと欲せば、この処あることなからん」と。{以上}懺法、一にあらず。 楽に随ひてこれを修せよ。あるいは五体を地に投げ、遍身に汗を流して弥陀仏 に帰命し、眉間の白毫相を念じ、発露涕泣して、この念をなすべし、「過去の 空王仏の眉間の白毫相を、弥陀尊礼敬して、罪を滅して、いま仏を得たまへ り。われいま弥陀を礼することは、またまさにまたかくのごとくなるべし」と。 すべからく罪の相に随ひて、仏の光を哀請すべし。いはく、「檀光を放ちては 慳蔽の罪を滅したまへ。戒光を放ちては毀禁の罪を滅したまへ。忍辱の光を放 ちては瞋恚の罪を滅したまへ。精進の光を放ちては懈怠の罪を滅したまへ。禅 定の光を放ちては散乱の罪を滅したまへ。智慧の光を放ちては愚惑の罪を滅し たまへ」と。かくのごとくして、一日もしは七日に至らば、百千劫の煩悩の重 障を除きてん。あるいは須臾のあひだも、坐禅入定して仏の白毫を念じ、心 P--1020 をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明にまさしく住して意を注けて息ま ざれば、九十六億那由他等の劫の生死の罪を除却す。あるいは一心にかの仏の 神呪を念ずること、一返すればよく四重・五逆を滅し、七返すればよく根本の 罪を滅す。[『儀軌』に出づ。]あるいはまた『心地観経』に、理の懺悔を明かして のたまはく、   「一切のもろもろの罪は、性みな如なり。顛倒の因縁、妄心より起る。   かくのごとき罪相は本来空なり。三世のなかに得るところなし。   内にあらず外にあらず中間にあらず。性相は如々にしてともに不動なり。   真如の妙理は名言を絶つ。ただ聖智のみありてよく通達す。   有にあらず無にあらず有無にあらず。有無にあらざるにあらず。名相を離   れ、   法界に周遍して生滅なく、諸仏は本来同一体なり。   ただ願はくは諸仏、加護を垂れて、よく一切の顛倒の心を滅したまへ。   願はくはわれ早く真性の源を悟りて、すみやかに如来の無上道を証せん」   と。 P--1021  問ふ。ただに仏を観念するに、すでによく罪を滅す。なんがゆゑぞ、さらに 理の懺悔を修するや。答ふ。たれかはいふ、一々にこれを修せよとは。ただ意 楽に随ふべし。いかにいはんや、もろもろの罪性は空にして所有なしと観ずる は、すなはちこれ真実の念仏三昧なり。『華厳』の偈にのたまふがごとし。   「現在は和合にあらず。去・来もまたしかなり。   一切の法の無相なる、これすなはち仏の真体なり」と。 また『仏蔵経』の「念仏品」(意)にのたまはく、「所有なしと見るを名づけて 念仏となし、諸法の実相を見るを名づけて念仏となす。分別あることなく、取 なく捨なき、これ真の念仏なり」と。{以上}諸余の空・無相等の観も、これに准 じてみな念仏三昧に摂入すべし。  問ふ。かくのごとき懺悔はなんの勝徳かある。答ふ。『心地観経』の偈にの たまはく、   「在家はよく煩悩の因を招き、出家もまた清浄の戒を破る。   もしよく法のごとく懺悔するものは、あらゆる煩悩ことごとくみな除こる。   {乃至} P--1022   懺悔はよく三界の獄を出で、懺悔はよく菩提の華を開き、   懺悔は仏の大円鏡を見、懺悔はよく宝所に至る」と。  問ふ。このなかに何者をか最勝なりとなすや。答ふ。もし一人に約せば、機 に順ずるを勝れたりとなす。もし汎爾に判ぜば、理の懺を勝れたりとなす。ゆ ゑに『如来秘密蔵経』の下巻に、仏、迦葉に告げてのたまはく、「もし少不善 をも、もしそれ堅住し、堅執し、堅着せば、一切われ説きて、これを名づけて 犯となす。迦葉、五無間罪をも、もし堅住し、堅執し、堅着して見をなさざる ものをば、われ、かれを説きて、名づけていひて犯となさず。いはんやまた、 余の少不善の業道をや。迦葉、われは不善の法をもつて菩提を得るにあらず。 また善法をもつて菩提を得るにあらず。{乃至}煩悩は因縁より生ずと解知するを、 菩提を得と名づく。迦葉、いかなるをか、因縁より生ずるところの煩悩を解知 すとはなす。これ自性なくして起る法は、これ無生の法なりと解知す。かくの ごとく解知するを、菩提を得と名づく」と。{云々}また『決定毘尼経』(意)に のたまはく、「大乗のなかにおいて発起し修行するに、日の初分の時に所犯の 戒あるに、日の中分において一切智の心を離れずは、かくのごとき菩薩、戒身 P--1023 壊せず。もし日の中分に所犯の戒あるに、日の後分において一切智の心を離れ ずは、かくのごとき菩薩、戒身壊せず。{乃至}もし夜の後分に所犯の戒あるに、 日の初分において一切智の心を離れずは、かくのごとき菩薩、戒身壊せず。こ の義をもつてのゆゑに、菩薩乗の人は開遮の戒を持てば、たとひ所犯ありとも、 失念して妄りに憂悔を生じて、みづからその心を悩ますべからず。声聞乗に おいては所犯あるものをば、すなはち声聞の浄戒を破壊しつとなす」と。{云々} 「一切智の心」とは、余処の説に准へば、これ第一義空相応の心なり。あるい はこれ仏の種智を願求する心なるべし。  問ふ。もし懺悔を修するに、よく衆罪を滅せば、いかんぞ『大論』(大智度 論)の四十六に、「戒律のなかの戒は、また細微なりといへども、懺悔すれば すなはち清浄なり。十善戒を犯せば、また懺悔すといへども、三悪道の罪除 こらず」とはいひ、また『十輪経』(意)に説かく、「十悪輪罪を造れるは、一 切の諸仏の救ひたまはざるところなり」とはいへる。答ふ。『観経』には、十 念してよく五逆を滅し、『観仏経』には、仏の一相を念ずればよく十悪・五逆 を滅し、『大経』(大般涅槃経)には、闍王、殺父の罪を懺除し、『般若経』に P--1024 は、読誦・解説すればよく三界の衆生を殺害せる罪を滅して、悪趣に堕せず、 『華厳経』には、普賢の願を誦するに、一念によく十悪・五逆を滅すと。あき らかに知りぬ、大乗の実説は、罪を滅せずといふことなし。しからば、この 『論』(大智度論)の文は、あるいはこれ転重軽受にしてまつたく受けざるに あらざるを、これを「除こらず」と名づけ、あるいはこれ随転理門の説ならん。 また感禅師(懐感)、『十輪経』を会していはく(群疑論)、「如来の密意、罪を 畏さしめんと欲すなり」と等いへり。{云々}余は、下の料簡の念仏相門のごとし。 これらはみなこれ別時の懺悔なり。しかも行者はつねにまさに三事を修すべし。 『大論』(大智度論)にいふがごとし。「菩薩はかならず、すべからく昼夜六時 に、懺悔・随喜・勧請の三事を修すべし」と。{略抄}五念門のうちに、礼拝の次 に、この事を修すべし。『十住婆沙』の懺悔の偈にいはく、   「十方無量の仏は、知るところ、尽きたまはずといふことなし。   われいまことごとく前にして、もろもろの黒悪を発露す。   三々合して九種あり、三煩悩より起る。   今身もしは前身の、この罪をことごとく懺悔す。 P--1025   三悪道のなかにして、もし業報を受くべからんをば、   願はくは今身に償ひて、悪道に入りては受けじ」と。[「三々合して九種あり」   とは、身口意におのおの現・生・後業あり。「三煩悩より起る」とは、三界の煩悩なり。] 勧請の偈(十住毘婆沙論)にいはく、   「十方の一切の仏の、現在に仏になりたまへるものを、   われ請ひたてまつる。法輪を転じて、もろもろの衆生を安楽ならしめたま   へと。   十方の一切の仏、もし寿命を捨てんと欲したまはば、   われいま頭面をもつて礼して、勧請して久しく住せしめたてまつらん」と。 随喜の偈(同)にいはく、   「あらゆる布施の福も、持戒と修禅の行も、   身口意より生ず。去・来・今の所有の、   三乗を習行する人と、三乗を具足するものと、   一切の凡夫との福を、みな随ひて歓喜せん」と。{以上} また常行三昧・法華三昧・真言教等に、みなおのおの文あり。意に随ひてこ P--1026 れを用ゐよ。もし略を楽はば、『弥勒菩薩本願経』の一偈によるべし。『経』 (同)にのたまはく、「仏、阿難に語りたまはく、〈弥勒菩薩、本道を求めたま ひし時に、耳・鼻・頭・目・手・足・身命・珍宝・城邑・妻子、および国土を 持ちて、布施して人に与へ、もつて仏道を成ぜしにはあらず。ただ善権安楽の 行をもつて、無上正真の道を致すことを得たり〉と。阿難、仏にまうさく、 〈弥勒菩薩は、なんの善権をもつてか、仏道を致すことを得たる〉と。仏、阿 難に語りたまはく、〈弥勒菩薩は、昼夜におのおの三たび、正衣束体し、手を 叉へ、右の膝を地に着けて、十方に向かひて偈を説きていはく、   《われ一切の過を悔いて、もろもろの道徳を明かしたまへと勧め、   帰命して諸仏を礼したてまつる。無上の慧を得しめたまへ》〉と。 仏、阿難に語りたまはく、〈弥勒菩薩は、この善権をもつて無上正真の道を得 たり〉」と。{以上}  問ふ。この懺悔・勧請等の事を修するに、いくばくの福をか得る。答ふ。 『十住論』(十住毘婆沙論)の偈にいはく、   「もし一時のうちにおいてせんに、福徳、形あらば、 P--1027   恒河沙の世界も、すなはちおのづから容受せじ」と。 【53】 第六に対治魔事とは、問ふ、種々の魔事よく正道を障ふ。あるいは病患 を発さしめ、あるいは観念を失はしめ、あるいは邪法を得しむ。いはゆる、も しは有の見もしは無の見、もしは明了もしは昏闇、もしは邪定もしは攀縁、 もしは悲もしは喜、もしは苦もしは楽、もしは禍もしは福、もしは悪もしは善、 もしは人を憎みもしは恋着し、もしは心強くもしは心軟らかなり。かくのごと き等の事の、もしは過ぎたる、もしは及ばざるは、みなこれ魔事なり。ことご とく正道を障ふ。なにをもつてかこれを対治する。答ふ。治道多しといへども、 いまただ念仏の一の治によるべし。このなかにまた事理あり。  一に事の念とは、言行相応して一心に仏を念ずる時に、もろもろの悪魔、沮 壊することあたはず。  問ふ。なんがゆゑぞ壊せざる。答ふ。仏、護念したまふがゆゑに、法の威力 のゆゑに、沮壊することあたはず。『大般若』に、魔事を対治するに、番々の 二法を出せるがごとし。そのなかにのたまはく、「一には、いふところのごと くみなことごとくよくなす、二には、諸仏のためにつねに護念せらる」と。ま P--1028 た『般舟経』にのたまはく、「もし閲叉・鬼神の、人の禅を壊り、人の念を奪 はんも、たとひこの菩薩を中らんと欲せば、つひに中ることあたはじ」と。余 は下の利益門のごとし。  二に理の念とは、『止観』の第八にいふがごとし。「魔界の如と仏界の如と は、一如にして二如なし。平等一相なりと知りて、魔をもつて&M011158;ひとなし、仏 をもつて欣びとなさず、これを実際に安く。{乃至}魔界すなはち仏界なり。しか も衆生は知らずして仏界に迷ひて、横に魔界を起し、菩提のなかにおいて、し かも煩悩を生ず。このゆゑに悲を起して、衆生をして魔界において仏界に即し、 煩悩において菩提に即せしめんと欲ふ。このゆゑに慈悲を起す」と。{以上}この 念をなすべし、「魔界・仏界および自他界、同じく空なり、無相なり。この諸 法の無相、これすなはち仏の真体なり。まさに知るべし、魔界すなはちこれ仏 身なり、またすなはちわが身なり。理、無二なるがゆゑに。しかるを、もろも ろの衆生は妄想の夢いまだ覚めず。一実の相を解らずして、是非の想を生じて 五道に輪廻す。願はくは、衆生をして平等の慧に入らしめん」と。かくのごと く、深く無縁の大悲を起して、{乃至}仏の妙色身を観ずといへども、三空の門に P--1029 入りて執着すべからず。熱金丸の、色の妙なることを見るといへども、手に 触るべからざるがごとし。いはんや、余の事において着を生じ、慢を生ぜんや。 この観をなす時に、魔、沮壊せず。ゆゑに『大般若経』に、またその治を説き てのたまはく、「一には諸法はみな畢竟空なりと観じ、二には一切有情を棄捨 せず」と。また『大論』(大智度論)にいはく、「十二入はみなこれ魔網なり。 虚誑にして実ならず。このなかにおいて六種の識を生ずるも、またこれ魔網に して虚誑なり。何者かこれ実。ただ不二の法あるのみ。眼もなく色もなく、{乃至} 意なく法等もなきが、これを実と名づく。衆生をして十二入を離れしめんがゆ ゑに、つねに種々の因縁をもつてこの不二の法を説く」と。  問ふ。なんがゆゑぞ、空を観ずるに、魔、便りを得ざる。答ふ。かの『論』 (同)にいはく、「一切の法のなかにみな着せず。着せざるがゆゑに違錯なし。 違錯なきがゆゑに、魔、その便りを得ることあたはず。たとへば、人の身に瘡 なきときには、毒屑のなかに臥すといへども、毒また入らず。もし小瘡あらば、 すなはち死ぬるがごとし」と。また『大集経』の「月蔵分」のなかに、他化天 の魔王、菩提心を発し、記を受けて、願を発していはく、「われら、現在・未 P--1030 来のもろもろの仏弟子の、第一義と相応して住するものを護念して、供給し供 養せん。もしわが教に順ぜずして行者を悩乱せば、すなはちかの類をして種々 の病を得しめ、神通を退失せしめん」と。{取意}あきらかに知りぬ、実の魔は便 りを得ず、権の魔は護念するのみ。前の二種の治はみな証拠あり。ゆゑにさら に諸師の所釈を引かず。 【54】 第七に総結要行とは、問ふ、上の諸門のなかに陳ぶるところすでに多し。 いまだ知らず、いづれの業をか往生の要となす。答ふ。大菩提心と、三業を護 ると、深く信じ、誠を至して、常に仏を念ずとは、願に随ひて決定して極楽に 生ず。いはんやまた、余のもろもろの妙行を具せらんをや。  問ふ。なんがゆゑぞ、これらを往生の要となす。答ふ。菩提心の義は、前に つぶさに釈するがごとし。三業の重悪はよく正道を障ふ。ゆゑにすべからくこ れを護るべし。往生の業は念仏を本となす。その念仏の心は、かならずすべか らく理のごとくすべし。ゆゑに深信・至誠・常念の三の事を具す。常念に三の 益あり。迦才のいふがごとし。「一には諸悪の覚観、畢竟じて生ぜず。また業 障を消することを得。二には善根増長し、また見仏の因縁を種うることを得。 P--1031 三には薫習熟利して、命終の時に臨みて、正念現前す」(浄土論)と。{以上}業 は願によりて転ず。ゆゑに随願往生といふ。総じてこれをいへば、三業を護る は、これ止の善なり。仏を称念するは、これ行の善なり。菩提心および願は、 この二の善を扶助す。ゆゑにこれらの法を往生の要となす。その旨経論に出で たり。これをつぶさにすることあたはず。 【55】 大文第六に、別時念仏といふは、二あり。初めには尋常の別行を明かす。 次には臨終の行儀を明かす。 【56】 第一に尋常の別行とは、日々の行法においてつねに勇進することあたは ず。ゆゑに、時ありて別時の行を修すべし。あるいは一・二・三日、乃至七日、 あるいは十日乃至九十日、楽に随ひてこれを修せよ。いふところの「一日乃至 七日」とは、導和尚(善導)の『観念門』(観念法門)にいはく、「『般舟三昧経』 に、〈仏、跋陀和に告げたまはく、《この行法を持てば、すなはち三昧を得、 現在の諸仏、ことごとく前にましまして立ちたまふ。それ比丘・比丘尼・優婆 塞・優婆夷ありて、法のごとく、持戒まつたく具し、独り一処に止まりて、西 方の阿弥陀仏、いま現にかしこにましますと念へ。所聞に随ひてまさに念ずべ P--1032 し。ここを去ること十万億の仏刹なり、その国を須摩提と名づく。一心にこれ を念ずること、一日一夜、もしは七日七夜せよ。七日を過ぎてより以後に、こ れを見たてまつること、たとへば夢のうちに見るところのごとくせん。昼夜を 知らず、また内外を知らず、冥のなかにありて弊礙するところあるによるがゆ ゑに、見ざるにあらず。跋陀和、四衆つねにこの念をなす時に、諸仏の境界の なかのもろもろの大山・須弥山、それ幽冥なることある処、ことごとく開闢す ることをなして、弊礙するところなからん。この四衆は、天眼を持ちても徹し 視るにあらず、天耳を持ちても徹し聴くにあらず、神足を持ちてもその仏刹に 到るにあらず、この間に終りて、かの間にも生るるにあらずして、すなはちこ こに坐してこれを見るなり》と。仏ののたまはく、《四衆、この間の国土にし て、阿弥陀仏を念ずること、念をもつぱらにするがゆゑに、これを見たてまつ ることを得。すなはち問へ、“なんの法を持ちてか、この国に生るることを得 る”と。阿弥陀仏、報じてのたまはく、“来生せんと欲はば、つねにわが名を 念じて休息することを得ることなかれ。すなはち来生することを得てん”》と。 仏ののたまはく、《念をもつぱらにするがゆゑに往生することを得。まさに念 P--1033 ずべし、仏身には三十二相・八十種好ありて、巨億の光明徹照し、端正無比 にして、菩薩僧のなかにましまして法を説きたまふことを。色を壊することな かれ。なにをもつてのゆゑに。色を壊せざるがゆゑに、仏の色身を念ふによる がゆゑに、この三昧を得》〉と。{以上}念仏三昧の法を明かす。[この文はかの『経』 (般舟三昧経)の〈行品〉のなかにあり。もし覚めて仏を見ずは、夢のうちにこれを見ん といへり。]三昧の道場に入らんと欲ふ時には、もつぱら仏教の方法によりて、 先づすべからく道場を料理し、尊像を安置し、香湯をもつて掃灑すべし。もし 仏堂なきも、浄き房あらば、また得たり。掃灑すること法のごとくして、一の 仏像を取りて西の壁に安置せよ。行者等、月の一日より八日に至り、あるいは 八日より十五日に至り、あるいは十五日より二十三日に至り、あるいは二十三 日より三十日に至るまで、月別に四時するは佳し。行者等、みづから家業の軽 重を量りて、この時のうちにおいて浄行の道に入れ。もしは一日乃至七日、 ことごとく浄衣を須ゐよ、鞋靺もまた新浄なるを須ゐよ。七日のうちは、みな すべからく一食長斎すべし。軟らかなる餠、粗き飯、随時の醤菜、倹素し節量 せよ。道場のなかにして、昼夜に心を束ね、相続してもつぱら阿弥陀仏を念ぜ P--1034 よ。心と声と相続して、ただ坐し、ただ立して、七日のうち睡眠を得ざれ。ま た時によりて、仏を礼し経を誦すべからざれ。数珠をもまた捉るべからず。た だ合掌して仏を念ずと知り、念々に見仏の想をなせ。仏ののたまはく、〈阿弥 陀仏の真金色の身に、光明徹照し、端正無比にして、心眼の前にましますと 想念せよ〉と。まさしく仏を念ずる時には、もし立たばすなはち立ちて一万・ 二万を念ぜよ。もし坐せばすなはち坐して一万・二万を念ぜよ。道場のうちに して、頭を交へてひそかに語らふことを得じ。昼夜あるいは三時・六時に、諸 仏、一切の賢聖、天曹・地府、一切の業道に表白して、一生の己身の身口意 業の所造のもろもろの罪を発露懺悔せよ。事々、実によりて懺悔しをはりて、 還りて法によりて仏を念ぜよ。所見の境界は、たやすく説くことを得ざれ。善 ならばみづから知れ。悪ならば懺悔せよ。酒・肉・五辛は、きはめて願を発し て、手に捉らざれ、口に喫はざれ。もしこの語に違はば、すなはち身口にとも に悪瘡を着けんと願ぜよ。願じて『阿弥陀経』を誦すること十万遍を満てよ。 日別に仏を念ずること一万遍せよ。経を誦すること日別に十五遍せよ。あるい は誦すること二十遍・三十遍せよ。力の多少に任せよ。浄土に生れんと誓ひ、 P--1035 仏摂受したまへと願ぜよ。またもろもろの行者にまうさく、ただ今生に日夜 相続して、もつぱら弥陀仏を念じ、もつぱら『弥陀経』を誦し、浄土の聖衆・ 荘厳とを称揚し、礼讃して、生ずることを願はんと欲するものは、三昧道場に 入ることを除きて、日別に弥陀仏を念ずること一万して、命を畢るまで相続せ ば、すなはち弥陀の加念を蒙り、罪障を除くことを得ん。また仏、聖衆とつね に来りて護念することを蒙らん。すでに護念を蒙りなば、すなはち年を延べ、 転じて長命安楽なることを得ん。因縁の一々は、つぶさに『譬喩経』・『惟無 三昧経』・『浄度三昧経』等に説くがごとし。また『観仏経』にのたまはく、 〈もしもろもろの比丘・比丘尼、もしは男・女の人、四根本罪、十悪等の罪、 五逆の罪を犯し、および大乗を謗らんに、かくのごときもろもろの人、もしよ く懺悔して、日夜六時に身心息まず、五体を地に投ずること、大山の崩るるが ごとくし、号泣して涙を雨らし、合掌して仏に向かひて、仏の眉間の白毫相の 光を念ずること、一日より七日に至らば、前の四種の罪は軽微なることを得べ し。白毫の毛を観ぜんに、闇にして見えずは、塔のうちに入りて、像の眉間の 白毫を観ずべし。一日より三日に至るまで、合掌して啼泣せよ〉」と。[以上、 P--1036 『観念門』(観念法門)の文よりこれを略抄す。]『大般若』の五百六十八に、七日 の行を明かしてのたまはく、「もし善男子・善女人等、心に疑惑なく、七日の うちにおいて、澡浴清浄にして、新浄の衣を着、華香をもつて供養し、一心 にまさしく前の所説のごとき、如来の功徳および大威神を念ぜば、その時、如 来は慈悲をもつて護念し、身を現じて見せしめたまひ、願をして満足せしめた まふ。もし華香等の事に闕少せることあらば、ただ一心に功徳威神を念ぜよ。 まさに命終せんとする時に、かならず仏を見たてまつることを得ん」と。{以上} 「前の所説の功徳」と等いふは、如来の大慈と大悲と説法と無礙の静慮と、一 念によく無辺類の身を現ずると、天眼と天耳と他心智と無失念と無漏離垢と、 得一切法自在平等等の功徳威神なり。『大集の賢護経』にまた七日の行あり。 次の利益のなかに説くがごとし。また迦才の『浄土論』にいはく、「綽禅師 (道綽)、『経』(木&M015381;子経)の文を&M012779;へ得たるに、〈ただよく仏を念ずること一 心に乱れずして、百万遍以去を得つるものは、さだめて往生することを得〉と。 また綽禅師、『小阿弥陀経』の七日の念仏によりて、百万遍を&M012779;へ得たるなり。 このゆゑに、『大集経』・『薬師経』・『小阿弥陀経』にみな七日の念仏を勧めた P--1037 るは、この意あきらかなり」と。[以上、迦才。]いふところの十日の行とは、『鼓 音声経』・『平等覚経』に出でたり。次の利益門に至りてまさに知るべし。 いふところの九十日の行とは、『止観』の第二にいはく、「常行三昧とは、先 づは方法を明かす。次には勧修を明かす。方法とは、身の開遮、口の説黙、意 の止観なり。この法は『般舟三昧経』に出でたり。〔般舟を〕翻じて〈仏立〉と なす。仏立に三の義あり。一には仏の威力、二には三昧力、三には行者の本功 徳力なり。よく定のなかにして、十方現在の仏、その前にありて立ちたまへり と見ること、明眼の人の、清夜に星を観るがごとし。十方の仏を見たてまつる ことも、またかくのごとく多し。ゆゑに仏立三昧と名づく。『十住毘婆沙』の 偈にいはく、   〈この三昧の住処に、少と中と多との差別あり。   かくのごとき種々の相、またすべからく論議すべし〉と。 〈住処〉とは、あるいは初禅・二・三・四の中間とにおいて、この勢力を発し、 よく三昧を生ず。ゆゑに住処と名づく。初禅は少なり、二禅は中なり、三・四 は多なり。あるいは少時に住するを少と名づく。あるいは世界を見ること少な P--1038 り。あるいは仏を見たてまつること少なり。ゆゑに少と名づく。中と多とまた かくのごとし。身には常行を開す。この法を行ずる時には、悪知識および痴 人・親属・郷里を避れ。つねに独り処止して、他人に&M010661;望して求索するところ あることを得ざれ。つねに乞食して別請を受けざれ。道場を厳飾して、もろも ろの供具・香&M044199;・甘菓を備へよ。その身を盥沐し、左右出入に衣服を改め換 へよ。ただもつぱら行旋し、九十日を一期となせ。明師の、内外の律によくし て、よく妨障を開除するを須ゐよ。所聞の三昧の処において、世尊を視たてま つるがごとくにし、嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。まさに肌肉を割きて、 師に供養すべし。いはんやまた余のものをや。師に承事すること、僕の大家 に奉るがごとくせよ。もし師において悪をなすときには、この三昧を求むるに、 つひに得ること難し。外護の、母の子を養ふがごときを須ゐ、同行の、ともに 嶮を渉るがごときを須ゐよ。すべからく要期し、誓願すべし。わが筋骨をして 枯れ朽ちせしむとも、この三昧を学せんに得ずは、つひに休息せずと。大信を 起さば、よく壊るものなからん。大精進を起さば、よく及ぶものなからん。所 入の智はよく逮ぶものなからん。つねに善師とともに事に従へ。三月を終竟る P--1039 まで、世間の想欲を念ふこと、弾指のあひだのごとくすることを得ざれ。三月 終竟るまで、臥出すること弾指のあひだのごときも得ざれ。三月を終竟るまで、 行じて休息することを得ざれ。坐食・左右をば除く。人のために経を説かんに、 衣食を望むことを得ざれ。『婆沙』(十住毘婆沙論)の偈にいはく、   〈善知識に親近し、精進して懈怠なく、   智慧はなはだ堅牢にして、信力妄りに動ずることなかれ〉と。 口の説黙とは、九十日、身にはつねに行じて休息することなく、九十日、口に はつねに阿弥陀仏の名を唱へて休息することなく、九十日、心にはつねに阿弥 陀仏を念じたてまつりて休息することなかれ。あるいは唱と念とともに運らし、 あるいは先づ念じ後に唱へ、あるいは先づ唱へ後に念ぜよ。唱・念あひ継ぎて 休息する時なかれ。もし弥陀を唱ふるは、すなはちこれ十方の仏を唱へたてま つると功徳等し。ただもつぱら弥陀をもつて法門の主となす。要を挙げてこれ をいはば、歩々・声々・念々、ただ阿弥陀仏にあり。意に止観を論ずとは、 西方の阿弥陀仏を念ぜよ。ここを去ること十万億の仏刹にして、宝地・宝池・ 宝樹・宝堂にましまして、もろもろの菩薩の中央に坐して経を説きたまふ。三 P--1040 月つねに仏を念ぜよ。いかんが念ずる。三十二相を念ず。足の下の千輻輪相よ り、一々に逆に縁じて、諸相乃至無見頂を念じ、また頂相より順に縁じて、す なはち千輻輪に至るべし。われをしてまたこの相に逮ばしめたまへと。また念 ぜよ、われまさに心よりや仏を得ん、身よりや仏を得んと。仏をば、心を用ゐ ても得ず、身を用ゐても得ず。心を用ゐても仏の色を得ず。色を用ゐても仏の 心を得ず。なにをもつてのゆゑに。心といはば、仏には心なし。色といはば、 仏には色なし。ゆゑに色・心を用ゐても三菩提を得べからず。仏は色すでに尽 き、乃至、識もすでに尽きたまへり。仏の諸説の尽をば、これ痴人は知らず、 智者は暁了す。身口を用ゐても仏を得ず、智慧を用ゐても仏を得ず。なにを もつてのゆゑに。智慧は索むるに得べからず、みづから我を索むるに、つひに 得べからざればなり。また所見なし。一切の法はもとより所有なし。本を壊し 本を絶す。[それ一。]夢に七宝を見て、親属ありて歓楽するも、覚めをはりて追 ひて念ふに、いづれの処にあるといふことを知らざるがごとく、かくのごとく にして仏を念ず。また舎衛に女ありて須門と名づく。これを聞きて心に喜ぶ。 夜夢に事に従ふ。覚めをはりてこれを念ふに、かれも来らずわれも往かず、し P--1041 かも楽事宛然なり。まさにかくのごとくして仏を念じたてまつるべし。人の大 きなる沢を行くに、飢渇して夢に美食を得るも、覚めをはりて腹空し。みづか ら一切のあらゆる法みな夢のごとしと念ふがごとく、まさにかくのごとく仏を 念じたてまつるべし。しばしば念じて休息することを得ることなかれ。この念 を用ゐて、まさに阿弥陀仏の国に生るべし。これを如想の念と名づく。人宝を もつて瑠璃の上に倚するに、影そのなかに現ずるがごとく、また比丘の、骨を 観ずるに、骨より種々の光を起すがごとく、これ持ちて来るものなく、またこ の骨あることもなし。これ意のなせるのみ。鏡のなかの像の、外よりも来らず、 中よりも生ぜず、鏡浄きをもつてのゆゑに、おのづからその形を見るがごとし。 行人、色清浄なれば、あらゆるもの清浄なり。仏を見たてまつらんと欲へば、 すなはち仏を見たてまつる。見ればすなはち問ひ、問へばすなはち報へたまふ。 経を聞きて、大きに歓喜す。[それ二。]みづから念ず。仏はいづれの所よりか来 りたまふ、われもまた至るところなし。わが所念をもつて、すなはち見るなり。 心、仏に作る。心みづから心を見るは、仏心を見るなり。この仏心は、これわ が心、仏を見るなり。心はみづから心を知らず、心はみづから心を見ず。心に P--1042 想あるをば痴となし、心に想なきはこれ泥&M017421;なり。この法は示すべきものなし。 みな念の所為なり。たとひ念ありとも、また所有なくして空なりと了するのみ。 [それ三。]偈(般舟三昧経)にのたまはく、   〈心は心を知らず。心ありて心を見ず。   心に想を起すは、すなはち痴なり。想なきは、すなはち泥&M017421;なり。   諸仏は心より解脱を得たまふ。心は垢なければ、清浄と名づく。   五道は鮮潔にして色を受けず。これを解ることあるものは大道を成ず〉と。 これを仏印と名づく。所貪なく、所着なく、所求なく、所想なく、所有尽き、 所欲尽く。従りて生ずるところなく、滅すべきところなく、壊敗するところな し。道の要、道の本なり。この印は、二乗も壊することあたはず、いかにいは んや魔をや。{云々}『婆沙』(十住毘婆沙論)に明かさく、〈新発意の菩薩、先づ 仏の色相、相体、相業、相果、相用を念じて、下の勢力を得。次に仏の四十の 不共の法を念じて、心に中の勢力を得。次に実相の仏を念じて、上の勢力を得。 しかも色と法との二身に着せず〉と。偈(同)にいはく、   〈色身に貪着せず、法身にもまた着せず。 P--1043   よく一切の法は、永寂なること虚空のごとしと知る〉と。 勧修をいはば、もし人、智慧大海のごとくにして、よくわがために師たるもの なからしめ、ここに坐して、神通を運ばずしてことごとく諸仏を見たてまつり、 ことごとく所説を聞き、ことごとくよく受持することを得んと欲はば、つねに 三昧を行ぜよ。もろもろの功徳において、もつとも第一なりとなす。この三昧 はこれ諸仏の母なり、仏の眼なり、仏の父なり、無生大悲の母なり。一切のも ろもろの如来は、この二法より生じたまふ。大千の地および草木を砕きて塵と なし、一塵を一仏刹となして、そこばくの世界のなかに満てる宝をもつて布施 せんは、その福はなはだ多し。この三昧を聞きて驚せず、畏せざらんにはしか じ。いはんや信じて受持し、読誦して人のために説かんをや。いはんや定心に 修習すること、牛乳を搆るがあひだのごとくせんをや。いはんやよくこの三昧 を成ぜんをや。ゆゑに無量無辺なり。『婆沙』(十住毘婆沙論)にいはく、〈劫 火・官・賊・怨・毒・竜・獣・衆病、この人を侵すといはば、この処あること なからん。この人はつねに天竜八部と諸仏のために、みなともに護念し称讃せ らる。みなともに見んと欲して、ともにその所に来らん〉と。もしこの三昧の P--1044 上のごとき四番の功徳を聞きて、みな随喜すること、三世の諸仏・菩薩のみな 随喜したまふがごとくならんに、また上の四番の功徳に勝る。もしかくのごと き法を修せざるは、無量の重宝を失ひ、人天これがために憂悲す。&M048546;鼻の人の、 栴檀を把りて嗅がさざらんがごとく、田家の子の、摩尼珠をもつて一頭の牛に 博ふるがごとし」と。[云々。「四番の功徳」とは、『弘決』にいはく、「また四番の 果報あり。一には驚せざること、二には信受すること、三には定心に修すること、四には よく成就することなり」と。] 【57】 第二に臨終の行儀とは、先づ行事を明かし、次に勧念を明かす。初めに 行事とは、『四分律の抄』の瞻病送終の篇に、中国の本伝を引きていはく、 「祇園の西北の角、日光の没する処を無常院となせり。もし病者あれば、安置 してなかに在く。おほよそ貪染を生ずるものは、本房のうちの衣鉢・衆具を見 て、多く恋着を生じ、心に厭背なきをもつてのゆゑに、制して別処に至らしむ るなり。堂を無常と号くるなり。来るものはきはめて多く、還反るものは一二 なり。事につきて求め、専心に法を念ず。その堂のうちに、一の立像を置けり。 金薄をもつてこれに塗り、面を西方に向かへたり。その像の右の手は挙げ、左 P--1045 の手のなかには、一の五綵の幡の、脚垂れて地に曳けるを繋けたり。まさに病 者を安んじて像の後に在き、左の手に幡の脚を執りて、仏に従ひて仏の浄刹に 往く意をなさしむべし。瞻病のひとは、香を焼き華を散らして病者を荘厳し、 乃至、もし屎尿・吐唾あれば、あるに随ひてこれを除く」と。ある説には「仏 像を東に向け、病者を前に在く」と。[わたくしにいはく、もし別処なくは、ただ病 者をして面を西に向かへしめて、香を焼き華を散じて、種々に勧進せよ。あるいは、端厳 の仏像を見しむべし。]導和尚(善導)のいはく(観念法門)、「行者等、もしは病 し、病せざらんも、命終らんと欲する時には、もつぱら上の念仏三昧の法によ りて、身心を正当にして、面を回らして西に向かへ、心また専注して阿弥陀仏 を観想し、心口相応して声々絶ゆることなく、決定して往生の想、華台の聖 衆来りて迎接する想をなせ。病人もし前の境を見ば、すなはち看病の人に向か ひて説け。すでに説くを聞きをはらば、すなはち説によりて録記せよ。また病 人、もし語ることあたはずは、看病者かならずすべからくしばしば病人に問ふ べし、なんの境界をか見たると。もし罪の相を説かば、傍らの人すなはちため に仏を念じ、助けて同じく懺悔して、かならず罪を滅せしめよ。もし罪滅する P--1046 ことを得ば、華台の聖衆念に応じて現前せん。前に准へて抄記せよ。また行者 等の眷属六親、もし来りて病を看ば、酒・肉・五辛を食らへる人をあらしむる ことなかれ。もしあらば、かならず病人の辺に向かふことを得ざれ。すなはち 正念を失ひ、鬼神交乱し、病人狂死して、三悪道に堕しなん。願はくは行者 等、よくみづから謹慎して仏教を奉持して、同じく見仏の因縁をなせ」と。{以上} 往生の想、迎接の想をなすこと、その理しかるべし。『大論』(大智度論)に、 神変の作意を説きていふがごとし。「地の想を取ること多きがゆゑに、水を履 むこと地のごとし。水の想を取ること多きがゆゑに、地に入ること水のごとし。 火の想を取ること多きがゆゑに、身より煙火等を出す」と。{云々}あきらかに知 りぬ、所求の事において、かの相を取る時には、よくその事を助けて成就する ことを得るなり。ただ臨終のみにあらず。尋常もこれに准へよ。綽和尚(道綽) のいはく(安楽集・上)、「十念相続することは難からざるがごときに似たり。 しかれども、もろもろの凡夫、心は野馬のごとく、識は猿猴よりもはなはだし く、六塵に馳騁して、なんぞかつて停息せんや。おのおの、すべからくよろし く信心を致し、あらかじめみづから剋念し、積習して性を成じ、善根をして P--1047 堅固ならしむべし。仏(釈尊)、大王に告げたまへるがごとし。〈人、善行を積 めば、死するときに悪念なし。樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲れる に随ふがごとし〉(大智度論)と。もし刀風一たび至れば、百苦身に奏まる。も し習先よりあらずは、懐念なんぞ弁ずべけんや。おのおのよろしく同志三五と、 あらかじめ言要を結びて、命終の時に臨みて、たがひにあひ開暁し、ために 弥陀の名号を称し、極楽に生るることを願じて、声々あひ次いで十念を成ぜ しむべし」と。{以上}いふところの「十念」といふは、多くの釈ありといへども、 しかも一心に十返「南無阿弥陀仏」と称念する、これを十念といふ。この義、 経の文に順ぜり。余は下の料簡のごとし。  次に臨終の勧念とは、善友・同行のその志あるものは、仏教に順ずるがた めに、衆生を利せんがために、善根のために、結縁のために、患に染まん初め より病の床に来りて問ひて、幸ひに勧進を垂れよ。ただ勧誘の趣は、人の意に あるべし。いましばらく自身のために、その詞を結びていはく、仏子、年来の あひだ、この界の希望を止めて、ただ西方の業を修す。就中、もとより期する ところは、これ臨終の十念なり。いますでに病の床に臥しぬ。恐れざるべから P--1048 ず。すべからく目を閉ぢ、掌を合せて、一心に誓期すべし。仏の相好にあら ざるよりは、余の色を見ることなかれ。仏の法音にあらざるよりは、余の声を 聞くことなかれ。仏の正教にあらざるよりは、余の事を説くことなかれ。往 生の事にあらざるよりは、余の事を思ふことなかれ。かくのごとくして、乃至、 命終の後に、宝蓮台の上に坐して、弥陀仏の後に従ひ、聖衆囲繞して、十万 億の国土を過ぐるあひだをもまたかくのごとくして、余の境界を縁ずることな かれ。ただ極楽世界の七宝の池のなかに至りて、はじめて目を挙げ、掌を合せ て、弥陀の尊容を見たてまつり、甚深の法音を聞き、諸仏の功徳の香を聞ぎ、 法喜・禅悦の味はひを嘗め、海会の聖衆を頂礼し、普賢の行願に悟入すべし。 いま十事あり。まさに心を一にして聴き、心を一にして念ふべし。一々の念ご とに疑心をなすことなかれ。  一には先づ大乗の実智を発して生死の由来を知るべし。『大円覚経』の偈に のたまふがごとし。   「一切のもろもろの衆生の、無始の幻の無明は、   みなもろもろの如来の、円覚の心より建立せり」と。 P--1049 まさに知るべし、生死即涅槃なり、煩悩即菩提なり、円融無礙にして無二無別 なり。しかるを一念の妄心によりて、生死の界に入りにしよりこのかた、無明 の病に盲ひられて、久しく本覚の道を忘れたり。ただ諸法はもとよりこのかた、 つねにおのづから寂滅の相なり。幻のごとくして定まれる性なし。心に随ひて 転変す。このゆゑに、仏子、三宝を念じたてまつりて、邪を翻して正に帰すべ し。しかも仏はこれ医王なり、法はこれ良薬なり、僧はこれ瞻病人なり。無明 の病を除き、正見の眼を開き、本覚の道を示して、浄土に引摂することは、仏 法僧にしくはなし。このゆゑに、仏子、先づ大医王の想をなして、一心に仏を 念じたてまつるべし。「南無三世十方一切諸仏・南無本師釈迦牟尼仏・南無薬 師琉璃光仏」と、[三念以上。]「南無阿弥陀仏」と。[十念以上。]次に妙良薬の想 を生じて、一心に法を念ずべし。「南無三世仏母摩訶般若波羅蜜・南無平等大 慧妙法蓮華経・南無八万十二一切正法」と。次に随逐護念の想を生じて、一心 に僧を念ずべし。「南無観世音菩薩・南無大勢至菩薩・南無普賢菩薩・南無文 殊師利菩薩・南無弥勒菩薩・南無地蔵菩薩・南無龍樹菩薩・南無三世十方一切 聖衆・南無極楽界会一切三宝・南無三世十方一切三宝」と。[三念以上、あるい P--1050 はよろしきに随ひて、同音に助念せよ。あるいは鐘声を聞かしめて、正念を増せしめよ。 下去はこれに准ぜよ。]  二には法性は平等なりといへども、また仮有を離れず。弥陀仏ののたまふが ごとし。   「諸法の性は、一切、空・無我なりと通達して、   もつぱら浄仏土を求むれば、かならずかくのごとき浄刹を成ず」(大経・   下)と。 ゆゑに浄土に往生せんがために、先づこの界を厭離すべし。いまこの娑婆世界 は、これ悪業の所感なり、衆苦の本源なり。生老病死は輪転して際なし。三 界は極縛にして一も楽しむべきことなし。もしこの時においてこれを厭離せず は、まさにいづれの生にか輪廻を離るべけんや。しかも阿弥陀仏には不可思議 の威力まします。もし一心に名を称すれば、念々のうちに、八十億劫の生死の 重罪を滅したまふ。このゆゑに、いままさに一心にかの仏を念じて、この苦界 を離るべし。この念をなすべし、「願はくは阿弥陀仏、決定してわれを抜済し たまへ」と。南無阿弥陀仏。[その十念以上の信心の勢ひの尽くるを見て、次の事を勧 P--1051 むべし。あるいは加へて二菩薩(観音・勢至)を称せよ。下去はこれに准ず。]  三には浄土を欣求すべし。西方極楽は、これ大乗善根の界、無苦無悩の処な り。一たび蓮胎に託しぬれば、永く生死を離れ、眼には弥陀の聖容を瞻たてま つり、耳には深妙の尊教を聞く。一切の快楽、具足せずといふことなし。もし 人、臨終の時に、十たび弥陀仏を念ずれば、決定してかの安楽国に往生す。仏 子、いまたまたま人身を得たり、また仏教に値へり。なほ一眼の亀の、浮木の 孔に値へるがごとし。もしこの時において、往生することを得ずは、還りて三 悪・八難のなかに堕して、法を聞くことなほ難し。いかにいはんや、往生をや。 ゆゑに、一心にかの仏を称念したてまつるべし。この念をなすべし、「願はく は仏、今日決定して、われを引接して、極楽に往生せしめたまへ」と。[南無阿 弥陀仏。]  四にはおほよそかの国に往生せんと欲ふものは、すべからくその業を求むべ し。かの仏の本願(第二十願)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらん に、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳の本 を殖ゑて、心を至して回向して、わが国に生れんと欲せん。果し遂げずは、正 P--1052 覚を取らじ」(大経・上)と。仏子、一生のあひだ、ひとへに西方の業を修す。 所修の業多しといへども、期するところはただ極楽なり。いますべからくかさ ねて三際の一切の善根を聚集して、ことごとく極楽に回向すべし。この念をな すべし、「願はくは、わが所有の一切の善根力によりて、今日決定して極楽に 往生せん」と。[南無阿弥陀仏。]  五にはまた本願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十 方の衆生、菩提心を発して、もろもろの功徳を修して、至心に願を発して、わ が国に生れんと欲せん。寿終の時に臨みて、たとひ大衆と囲繞して、その人の 前に現ぜずは、正覚を取らじ」(大経・上)と。仏子、久しくすでに菩提心を発 し、およびもろもろの善根をもつて極楽に回向せり。いますべからくかさねて 菩提心を発して、かの仏を念じたてまつるべし。この念をなすべし、「願はく はわれ、一切衆生を利益せんがために、今日決定して極楽に往生せん」と。[南 無阿弥陀仏。]  六にはすでに知りぬ。仏子はもとよりこのかた、往生の業を具せり。います べからくもつぱら弥陀如来を念じて、業をして増盛ならしむべし。しかも、か P--1053 の仏の功徳は無量無辺にして、つぶさに説くべからず。いま現に十方にましま す、おのおの恒河沙等の諸仏、つねにかの仏の功徳を称讃したまふ。かくのご とく称讃したまふこと、たとひ恒沙劫を経とも、つひに窮尽すべからず。仏子、 総じて一心にかの仏の功徳を帰命すべし。念ふべし、「われいま、一念のうち に、ことごとくもつて弥陀如来の一切の万徳を帰命す」と。[南無阿弥陀仏。]  七には仏子、弥陀仏の一の色相を念じて、心をして一境に住せしむべし。い はく、かの仏の色身は閻浮檀金のごとし。威徳巍々たること金山王のごとく、 無量の相好をもつて、その身を荘厳せり。そのなかに眉間の白毫は、右に旋り て婉転せること五須弥のごとし。七百五倶胝六百万の光明、熾然赫奕たること 億千の日月のごとし。これすなはち無漏の万徳の成就したまへるところ、大定 智悲の流出せるところなり。須臾のあひだも、この相を憶へば、よく九十六億 那由他恒河沙微塵数劫の生死の重罪を滅す。このゆゑに、いままさにかの相を 憶念して、決定して罪業を滅除すべし。この念をなすべし、「願はくは白毫相 の光、わがもろもろの罪を滅したまへ」と。[南無阿弥陀仏。]  八にはかの白毫相のそこばくの光明は、つねに十方世界の念仏の衆生を照ら P--1054 して、摂取して捨てたまはず。まさに知るべし、大悲の光明は決定して来りて 照らしたまふらん。『華厳』の偈にのたまふがごとし。   「また光明を放ちたまふを見仏と名づく。かの光は命終のものを覚悟せ   しめたまふ。   念仏三昧をしてかならず仏を見たてまつり、命終の後に仏前に生る」と。 ゆゑにいまこの念をなすべし、「願はくは弥陀仏、清浄の光を放ちて、はる かにわが心を照らしたまひ、わが心を覚悟して、境界と自体と当生との三種の 愛を転じて、念仏三昧成就して極楽に往生することを得しめたまへ」と。[南無 阿弥陀仏]  九には弥陀如来は、ただ光をもつてはるかに照らしたまふのみにあらず。み づから観音・勢至とつねに来りて行者を擁護したまふ。いかにいはんや、父母 は病の子においては、その心ひとへに重し。〔仏は〕法性の山を動かし、生死 の海に入りたまふ。まさに知るべし、この時に、仏、大光明を放ちて、もろも ろの聖衆とともに来りて、引接擁護したまふらん。惑障あひ隔てて、見たてま つることあたはずといへども、大悲の願疑ふべからず。決定してこの室に来入 P--1055 したまふらん。ゆゑに仏子、この念をなすべし、「願はくは仏、大光明を放ち て、観音・勢至とともに来りて、決定して来迎し、引接して極楽に往生せしめ たまへ」と。[南無阿弥陀仏。以上第七・八・九条の事は、つねに勧誘すべし。その余の 条は、時々、これを用ゐよ。]もし病者の気力、やうやく羸劣なる時には、いふべ し、「仏、観音・勢至、無量の聖衆とともに来りて、宝蓮台を&M012808;げて、仏子を 引接したまふらん」と。  十にはまさしく終りに臨む時にいふべし、「仏子、知るやいなや。ただいま はすなはちこれ最後の心なり。臨終の一念は百年の業に勝れり。もしこの刹那 を過ぎなば、生処一定しぬべし。いままさしくこれその時なり。まさに一心に 仏を念じて、決定して西方極楽の微妙浄土の八功徳池のうちの、七宝蓮台の 上に往生すべし」と。この念をなすべし、「如来の本誓は一毫も謬ることなし。 願はくは仏、決定してわれを引摂したまへ」と。[南無阿弥陀仏。]あるいは漸々 に略を取りて、念ふべし、「願はくは仏、かならず引摂したまへ」と。[南無阿弥 陀仏。]かくのごとく病者の気色を瞻て、その所応に随順して、ただ一の事をも つて最後の念となし、衆多なることを得ざれ。その詞の進止は、ことに用意す P--1056 べし。病者をして攀縁をなさしむることなかれ。  問はく、『観仏三昧経』に説くがごとし。「仏、阿難に告げたまはく、〈も し衆生ありて、父を殺し、母を害し、六親を罵辱せらん。この罪を作れるもの は、命終の時に、銅の狗、口を張りて十八の車を化す。状、金車のごとし。 宝蓋、上にありて、一切の火焔は、化して玉女となる。罪人はるかに見て、心 に歓喜を生じて、《われなかに往かんと欲す》と。風刀の解くる時に、寒急にし て声を失ひ、《むしろ好火を得て、車の上にありて、坐して燃ゆる火にみづか ら爆られん》と。この念をなしをはりて、すなはち命終す。揮&M012951;のあひだに、 すでに金車に坐しぬ。玉女を顧み瞻れば、みな鉄斧を捉りて、その身を折り截 る〉」と。またのたまはく(同)、「また衆生ありて、四重禁を犯し、虚しく信 施を食らひ、誹謗・邪見にして、因果を識らず、般若を学することを断じ、十 方の仏を毀り、僧祇物を偸み、婬&M006135;無道にして、浄戒のもろもろの比丘尼、姉 妹・親戚を逼略して、懺愧することを知らず、所親を毀辱し、もろもろの悪事 を造れる、この人の罪報、命終の時に臨みて、風刀身を解くに、偃坐不定な ること、杖楚を被るがごとし。その心は荒越して、痴狂の想を発し、おのが室 P--1057 宅を見れば、男女・大小の一切は、みなこれ不浄の物なり。屎尿の臭き処にし て、ほかに盈流せん。その時に、罪人すなはちこの語をなしていはく、〈なん ぞ、この処に好き城廓および好き山林の、われをして遊戯せしむるものなくし て、すなはちかくのごとき不浄物のあひだに処せるや〉と。この語をなしをは るに、獄卒羅刹、大きなる鉄叉をもつて、阿鼻地獄およびもろもろの刀山を&M012808; げて、化して宝樹および清涼の池となす。火焔は化して金葉の蓮華となり、 もろもろの鉄の嘴ある虫は、化して鳧・雁となる。地獄の痛む声は、詠歌の音 のごとし。罪人、聞きをはりて、〈かくのごとき好き処に、われまさになかに 遊ぶべし〉とおもふ。念じをはりて、尋いで時に大蓮華に坐せん」と。{云々}い かんぞ知るや、今日の蓮華の来り迎ふること、これ火華にあらずとは。答ふ。 感和尚(懐感)の釈していはく(群疑論)、「四の義をもつてのゆゑに、火車に あらずといふことを知る。一には行をもつて、二には相をもつて、三には語を もつて、四には仏をもつてなり。この四義、火華に異なり。一に行をもつてと は、『観仏三昧経』に、〈罪人は罪を造りて、四重禁を犯し、乃至、所親を毀 辱して〉と説けども、悔過をなさず、善友の、教へて仏を念ぜしむるにも遇は P--1058 ざるがゆゑに、所見の華はこれ地獄の相なり。いまこの下品等の三人は、また 生れてよりこのかた、罪を造れりといへども、終りの時に、善知識に遇ひて、 心を至して仏を念ず。仏を念ずるをもつてのゆゑに、多劫の罪を滅して、勝功 徳を成じて、宝池のなかの華来り迎ふることを感得す。あに前の華に同じから んや。二に相といふは、かの『経』(観仏経)に、〈風刀身を解くに、偃臥定ま らず、楚撻を被るがごとし。その心は荒越して、狂痴の想を発す。おのが室宅 を見れば、男女・大小の一切は、みなこれ不浄の物なり。屎尿の臭き処にして、 ほかに盈流せん〉と説けども、いまこれは、仏を念じて、身心安穏にして、悪 想すべて滅しぬ。ただ聖衆を見、異香あることを聞ぐ。ゆゑに類せざるなり。 三に語といふは、かの『経』(同)のなかに、〈地獄の痛む声は、詠歌の音のご とし。罪人、聞きをはりて、《かくのごとき好き処に、われまさになかに遊ぶ べし》〉と説けども、『観経』のなかに、讃へてのたまはく、〈善男子、なん ぢ、仏の名を称するがゆゑに、もろもろの罪消滅して、われ来りてなんぢを迎 ふ〉と。かれ(観仏経)はこれ詠歌の音なり。これ(観経)は滅罪の語を陳ぶ。 二音すでに別なり。ゆゑに不同なり。四に仏といふは、かの『経』(観仏経) P--1059 に、〈一切の火焔は、化して玉女となる。罪人はるかに見て、心に歓喜を生じ て、《われなかに往かんと欲ふ》と。金車に坐しをはりて、玉女を顧み瞻れば、 みな鉄斧を捉りて、その身を折り截る〉と。『観経』に、〈その時に、かの仏、 すなはち化仏・化の観世音・化の大勢至を遣はして、行者の前に至らしむ〉と のたまへり。この四の義をもつて、准へて知れ。蓮華の来迎すること、『観仏 三昧経』の説には同ぜず」と。{以上}看病の人は、よくこの相を了りて、しばし ば病者の所有のもろもろの事を問ひて、前の行儀によりて種々に教化せよ。 往生要集 巻中 P--1060 #1往生要集 #2巻下    往生要集 巻下                       天台首楞厳院沙門源信撰 【58】 大文第七に、念仏利益を明かさば、大きに分ちて七あり。一には滅罪生 善、二には冥得護持、三には現身見仏、四には当来勝利、五には弥陀別益、六 には引例勧信、七には悪趣利益なり。その文おのおの多し、いま略して要を挙 ぐ。 【59】 第一に滅罪生善といふは、『観仏経』の第二にのたまはく、「一時のな かにおいて分ちて少分となして、少分のなかによく須臾のあひだも仏の白毫を 念じて、心をして了々ならしめ、謬乱の想なく、分明正住にして、意を注 くること息まずして白毫を念ずるものは、もしは相好を見、もしは見ることを 得ずとも、かくのごとき等の人は、九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪 を除却せん。たとひまた人ありて、ただ白毫を聞きて心に驚疑せず、歓喜し信 受せん。この人もまた八十億劫の生死の罪を却けん」と。またのたまはく(同)、 P--1061 「仏、世を去りたまひて後、三昧正受して仏の行を想ふものは、また千劫の極 重の悪業を除かん」と。[仏の行歩の相は、上の助念方法門のごとし。]またのたまは く(観仏経)、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢ、今日より如来の語を持ち て、あまねく弟子に告げよ。仏の滅度の後に、好き形像を造りて、身相をして 具足せしめ、また無量の化仏の色像および通身の色を作り、および仏跡を画き、 微妙の糸および頗梨珠をもつて白毫の処に安きて、もろもろの衆生をしてこの 相を見ることを得しめよ。ただこの相を見て心に歓喜をなさば、この人は百億 那由他恒河沙劫の生死の罪を除却せん〉」と。またのたまはく(同)、「老女の、 仏を見て、邪見にして信ぜざるすら、なほよく八十万億劫の生死の罪を除却し き。いはんや、また善き意をもつて恭敬し礼拝せんをや」と。[須達が家の老女の 因縁は、かの『経』(同)に広く説くがごとし。]またのたまはく(同)、「もろもろの 凡夫および四部の弟子、方等経を謗り、五逆罪を作り、四重禁を犯し、僧祇物 を偸み、比丘尼を婬し、八戒斎を破り、もろもろの悪事をなし、種々の邪見あ らん。かくのごとき等の人、もしよく心を至して一日一夜、繋念在前して、仏 如来の一の相好を観ぜば、もろもろの悪・罪障も、みなことごとく尽滅しなん」 P--1062 と。またのたまはく(観仏経)、「もしは仏世尊に帰依することあるもの、もし は名を称するものは、百千劫の煩悩の重障を除く。いかにいはんや、正心に 念仏定を修せんをや」と。『宝積経』の第五にのたまはく、「宝珠あり、種々 色と名づく。大海のなかにあり、無量衆多の&M044625;き流ありて大海に入るといへど も、珠火の力をもつて水をして消滅せしめて、盈溢せざらしむるがごとく、か くのごとく如来・応・正等覚は菩提を証しをはりて、智火の力によりて、よく 衆生の煩悩をして消滅せしめたまふことも、またかくのごとし。{乃至}もしまた 人ありて、日々のうちにおいて如来の名号功徳を称説せば、このもろもろの衆 生はよく黒闇を離れて、漸次にまさにもろもろの煩悩を焼くことを得べし。か くのごとくして〈南無仏〉と称念するもの、語業空しからじ。かくのごとき語 業を、大炬を執りてよく煩悩を焼くと名づく」と。『遺日摩尼経』にのたまは く、「菩薩は、また数千巨億万劫、愛欲のなかにありて罪のために覆はれたり といへども、もし仏経を聞きて一反も善を念ずれば、罪すなはち消尽す」と。 [以上のもろもろの文は滅罪なり。]『大悲経』の第二にのたまはく、「もし三千大千 世界のなかに満てらん須陀&M017421;・斯陀含・阿那含・阿羅漢を、もし善男子・善女 P--1063 人ありて、もしは一劫、もしは減一劫、もろもろの種々の称意の一切の楽具を もつて、恭敬し尊重し謙下して供養せん。もしまた人ありて、諸仏の所にして、 ただ一たび掌を合せ、一たび名を称せん。かくのごとき福徳を、前の福徳に 比ぶるに、百分にして一にも及ばず。百千億分にして一にも及ばず。迦羅分に して一にも及ばず。なにをもつてのゆゑに。仏如来はもろもろの福田のなかに 最無上たるをもつてなり。このゆゑに仏に施するは大功徳を成ず」と。[略して 抄す。三千世界に満てる辟支仏をもつて校量することまたしかり。]『普曜経』の偈に のたまはく、   「一切衆生の、縁覚とならんに、もし供養すること億数劫にして、   飲食・衣服・床臥具、檮香・雑香および名華をもつてすることあらんも、   もし心を一にして十の指を叉へ、心をもつぱらにしてみづから一の如来に   帰したてまつり、   口にみづから言を発して〈南無仏〉といふことあらば、この功徳の福をば   最上なりとなす」と。 『般舟経』に念仏三昧を説く偈にのたまはく、 P--1064   「たとひ一切みな仏となりて、聖智清浄にして慧第一ならん。   みな億劫よりその数を過ぐすまで、一偈の功徳を講説し、   泥&M017421;に至るまで福を誦詠し、無数億劫にことごとく嘆誦すとも、   その功徳を究め尽すことあたはじ。この三昧の一偈の事においてするを、   一切の仏国のあらゆる地、四方四隅および上下の、   なかに満てらん珍宝をもつて布施し、用ゐて仏天中の天に供養せんも、   もしこの三昧を聞くことあるものは、その福祐を得ること、かれに過ぎた   らん。   安諦に諷誦し説講するものは、譬へを引くとも功徳喩ふべからず」と。[一   仏の刹を破して塵となして、一々の塵を取りて、また砕くこと、一仏刹の塵数にお   いてするがごとくして、この一塵をもつて一仏刹となして、そこばくの仏刹の、な   かに満てらん珍宝を諸仏に供養せん。これをもつて比となせり。以上生善。] 『度諸仏境界経』に説かく、「もしもろもろの衆生の、如来を縁じて、もろも ろの行を生ずるものは、無数劫の地獄・畜生・餓鬼・閻魔王の生を断ず。もし 衆生ありて、一念も作意して如来を縁ずるものは、所得の功徳限極あることな P--1065 し。称量すべからず。百千万億那由他のもろもろの大菩薩の、ことごとく不 可思議の解脱定を得んも、計校してその辺際を知ることあたはじ」と。『観仏 経』に、「仏、阿難に告げたまはく、〈われ涅槃しなん後に、諸天・世人、も しわが名を称し、および《南無諸仏》と称せば、獲るところの福徳無量無辺な らん。いはんやまた繋念して諸仏を念ずるものは、しかももろもろの障礙を滅 除せざらんや〉」と。[以上、滅罪生善。その余は上の正修念仏門のごとし。] 【60】 第二に冥得護持といふは、『護身呪経』(意)にのたまはく、「三十六部 の神王に、万億恒沙の鬼神ありて眷属となして、三帰を受けたるものを護る」 と。『般舟経』にのたまはく、「劫尽き壊焼する時に、この三昧を持てる菩薩 は、たとひこの火のなかに堕つとも、火すなはちために滅しなんこと、たとへ ば、大きなる&M021620;の水の、小火を滅するがごとし。仏、跋陀和に告げたまはく、 〈わが語るところは異あることなし。この菩薩は、この三昧を持てるに、もし は帝王、もしは賊、もしは火、もしは水、もしは竜、もしは蛇、もしは閲叉・ 鬼神、もしは猛獣、{乃至}もしは人の禅を壊り、人の念を奪ふものも、たとひこ の菩薩を中らんと欲せば、つひに中ることあたはじ〉と。仏ののたまはく、 P--1066 〈わが語るところのごときは異あることなし。その宿命をば除きて、その余 はよく中るものあることなし〉」と。偈(般舟経)にのたまはく、   「鬼神・乾陀ともに擁護し、諸天・人民もまたかくのごとくせん。   ならびに阿須輪・摩&M023523;勒も、この三昧を行ぜば、かくのごときことを得ん。   諸天ことごとくともにその徳を頌め、天・人・竜神・甄陀羅、   諸仏も、嗟嘆して願のごとくならしめたまはん。経を諷誦し説きて人のた   めにせんがゆゑなり。   国々あひ伐ちて民荒乱し、飢饉しきりに臻りて苦窮を懐くとも、   つひにその命を中夭せじ。よくこの経を誦して人を化するものは、   勇猛にしてもろもろの魔事を降伏し、心に畏るるところなく毛竪たじ。   その功徳行も不可議ならん。この三昧を行ずるものは、かくのごときこと   を得ん」と。[『十住婆沙』に、これらの文を引きをはりていはく、「ただ業報かな   らず受くべきものをば除く」と、云々。] 『十二仏名経』の偈にのたまはく、   「もし人、仏の名を持てば、衆魔および波旬、 P--1067   行住坐臥の処に、その便りを得ることあたはじ」と。 【61】 第三に現身見仏といふは、『文殊般若経』の下巻にのたまはく、「仏の のたまはく、〈もし善男子・善女人、一行三昧に入らんと欲はば、空閑に処し てもろもろの乱意を捨て、相貌を取らずして、心を一仏に繋けて、もつぱら名 字を称すべし。仏の方所に随ひて身を端くして正しく向かひて、よく一仏にお いて念々に相続せよ。すなはち念のうちにおいて、よく過去・未来・現在の諸 仏を見たてまつらん〉」と。導禅師(善導)釈していはく(礼讃・意)、「衆生障 重くして、観成就しがたし。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただもつぱ ら名字を称せよと勧めたまふ」と。『般舟経』にのたまはく、「前に聞かざる ところの経巻を、この菩薩、この三昧を持てる威神をもつて、夢のうちにこと ごとくみづからその経巻を得て、おのおのことごとく見、ことごとく経の声を 聞かん。もし昼日に得ずは、もしは夜、夢のうちにしてことごとく仏を見たて まつることを得ん。仏、跋陀和に告げたまはく、〈もしは一劫、もしは一劫を 過ぎて、われ、この菩薩の、この三昧を持てるものを説き、その功徳を説かん に、尽しをはるべからず。いかにいはんや、よくこの三昧を求め得たるものを P--1068 や〉」と。また同経の偈にのたまはく、   「阿弥陀の国の菩薩の、無央数百千の仏を見たてまつるがごとく、   この三昧を得たる菩薩もしかなり。まさに無数百千の仏を見たてまつるべ   し。{乃至}   それこの三昧を誦受することあらば、すでにまのあたり百千の仏を見たて   まつるとなす。   たとひ最後の大恐懼においても、この三昧を持たば畏るるところなから   ん」と。 『念仏三昧経』の第九の偈にのたまはく、   「もしはことごとく一切の仏、現在・未来および十方を見んと欲し、   あるいはまた妙法輪を転ずることを求めんには、また先づこの三昧を修習   せよ」と。 『十二仏名経』の偈にのたまはく、   「もし人よく心を至して、七日仏の名を誦せば、   清浄の眼を得て、よく無量の仏を見たてまつらん」と。 P--1069 【62】 第四に当来勝利といふは、『華厳』の偈にのたまはく、   「もし如来の小の功徳をも念じ、乃至一念の心にも専仰したてまつらば、   もろもろの悪道の怖れ、ことごとく永く除こり、智眼はここにおいてよく   深く悟れり」と。[智眼天王の頌なり。] 『般舟経』の偈にのたまはく、   「その人つひに地獄に堕せじ。餓鬼道および畜生を離れん。   世々に生るるところにて宿命を識らん。この三昧を学せば、かくのごと   きことを得てん」と。 『観仏経』にのたまはく、「もし衆生ありて、一たびも仏身の、上のごとき功 徳・相好・光明を聞かば、億々千劫にも悪道に堕ちず、邪見・雑穢の処に生れ ず、つねに正見を得て、勤修すること息まざらん。ただ仏の名を聞くに、か くのごとき福を獲。いかにいはんや、念を観仏三昧に繋けんをや」と。『安楽 集』(上)にいはく、「『大集経』にのたまはく、〈諸仏、世に出でたまふに、 四種の法ありて、衆生を度したまふ。なんらをか四となす。一には、口に十二 部経を説きたまふ。すなはちこれ、法施をもつて衆生を度したまふなり。二に P--1070 は、諸仏如来には無量の光明・相好まします。一切の衆生、ただよく心を繋け て観察すれば、益を獲ずといふことなし。すなはちこれ、身業をもつて衆生を 度するなり。三には、無量の徳用・神通道力・種々の神変まします。すなはち これ、神通道力をもつて衆生を度するなり。四には、諸仏如来には無量の名号 まします。もしは総、もしは別なり。それ衆生ありて、心を繋けて称念すれば、 障を除き、益を獲て、みな仏前に生れずといふことなし。すなはちこれ、名号 をもつて衆生を度するなり〉」と。{云々}あるがいはく、「『正法念経』にこの文 あり」と。『十二仏名経』の偈にのたまはく、   「もし人、仏の名を持てば、怯弱の心を生ぜず、   智慧ありて諂曲なきは、つねに諸仏の前にあり。   もし人、仏の名を持てば、七宝の華のなかに生ず。   その華千億葉にして、威光の相具足せり」と。[以上諸文、永く悪趣を離れて   浄土に往生するなり。] 『観仏経』にのたまはく、「もしよく心を至して、繋念うちにあり、端坐し正 受して仏の色身を観ぜば、まさに知るべし、この人の心は仏の心のごとくにし P--1071 て、仏と異なることなからん。煩悩ありといへども、もろもろの悪のために覆 蔽せられじ。未来世に大法の雨を雨らさん」と。『大集の念仏三昧経』の第七 にのたまはく、「まさに知るべし、かくのごとき念仏三昧は、すなはち一切の 諸法を総摂することをなす。このゆゑに、かの声聞・縁覚の二乗の境界にあら ず。もし人、しばらくもこの法を説くを聞かば、この人は当来に決定して仏に なること疑あることなからん」と。第九にのたまはく(同)、「ただよく耳にこ の三昧の名を聞かば、たとひ読せず誦せず、受せず持せず、修せず習せず、他 のために転ぜず、他のために説かず、また広く分別し釈することあたはずとも、 しかもかのもろもろの善男子・善女人、みなまさに次第に阿耨菩提を成就すべ し」と。同偈にのたまはく、   「もしもろもろの妙相を円満し、もろもろの好上の荘厳を具足せんと欲ひ、   および清浄の処に転生することを求めんものは、かならず先づこの三昧   を受持せよ」と。 またある『経』(倶舎論)にのたまはく、   「もし仏の福田において、よく少分の善を殖ゑつれば、 P--1072   初めには勝善趣を獲、後にはかならず涅槃を得」と。 『大般若経』にのたまはく、「仏を敬ひ憶ふによりて、かならず生死を出でて 涅槃に至る。これを置きて、乃至、仏を供養せんがために、一華をもつて虚空 に散ずるもまたかくのごとし。またこれを置きて、もし善男子・善女人等、下 一たび〈南無仏陀大慈悲者〉と称するに至らば、この善男子・善女人等は、生 死の際を窮むるまで善根尽くることなくして、天・人のなかにしてつねに富楽 を受け、乃至、最後には般涅槃を得ん」と。[略して抄す。『大悲経』の第二、これ に同じ。『宝積経』以下、粗なり。]『宝積経』にのたまはく、「もし衆生ありて、 如来の所にして微善を起さば、苦際を尽すまで畢竟じて壊せず」と。またのた まはく(同)、「もし菩薩ありて、勝意楽をもつてよくわが所において父の想を 起さば、かの人はまさに如来の数に入ることを得て、わがごとくにして異なる ことなからん」と。『十二仏名経』の偈にのたまはく、   「もし人、仏の名を持たば、世々所生の処に、   身通をもつて虚空に遊び、よく無辺の刹に至りて、   まのあたり諸仏を覩たてまつりて、よく甚深の義を問ふ。{乃至} P--1073   ために微妙の法を説きて、かれに菩提の記を授けたまふ」と。 『法華経』の偈にのたまはく、   「もし人、散乱の心にして、塔廟のなかに入り、   一たび〈南無仏〉と称すれば、みなすでに仏道を成ず」と。 『大悲経』の第三に、「仏、阿難に告げたまはく、〈もし衆生ありて、仏の名 を聞かば、われ説かく、《この人は畢定してまさに般涅槃に入ることを得べ し》〉」と。『華厳経』の法幢菩薩の偈にのたまはく、   「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざらんも、   一たび仏の名を聞くことを得ば、決定して菩提を成ぜん」と。[以上のもろ   もろの文、菩提を得ることなり。] ただ名号を聞くすら、勝利かくのごとし。いはんやしばらくも相好・功徳を観 念し、あるいはまた一華・一香を供養せんをや。いはんや一生に勤修する功徳、 つひに虚しからじ。すなはち知りぬ、仏法に値ひ、仏号を聞くことは、これ少 縁にあらず。このゆゑに『華厳経』の真実慧菩薩の偈にのたまはく、   「むしろ地獄の苦を受くとも、諸仏の名を聞くことを得よ。 P--1074   無量の楽を受くとも、仏の名を聞かざることなかれ」と。 以上の四の門は、総じて諸仏を念ずる利益を明かす。そのなかに、『観仏経』 には釈迦をもつて首めとなす。『般舟経』は多く弥陀をもつて首めとなす。理、 実にはともに一切の諸仏に通ず。『念仏経』は三世の諸仏に通ず。  問ふ。『観仏経』にのたまはく、「この人の心は、仏の心のごとくにして、 仏と異なることなし」と。また『観経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたま はく、〈諸仏はこれ法界の身なり、一切衆生の心想のうちに入りたまふ。この ゆゑに、なんぢら心に仏を想ふ時、この心すなはちこれ三十二相・八十随形好 なり。是の心、仏に作る。是の心、是仏なり。諸仏の正遍知海は、心想より生 じたまふ〉」と。{以上}この義いかん。答ふ。『往生論』(天親の浄土論)の智光の 『疏』にこの文を釈していはく、「衆生の心に仏を想ふ時に当りて、仏の身相 みな衆生の心のなかに顕現す。たとへば、水清ければすなはち色像現ず。しか も水と像とは、一ならず異ならざるがごとし。ゆゑにいふ、仏の相好の身は、 すなはちこれ心想なりと。〈是心作仏〉とは、心よく仏に作るなり。〈是心是 仏〉とは、心がほかに仏なきなり。たとへば、火の木より出づれども、木を離 P--1075 るることを得ず、木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼きて火 となる。木を焼けば、すなはちこれ火たるがごとし」と。{以上}また余の釈あり。 学者さらに勘へよ。わたくしにいはく、『大集経』の「日蔵分」(意)にのたま はく、「行者、この念をなさく、これらの諸仏は従りて来るところなし。去り て至るところなし。ただわが心の作なり。三界のなかにおいて、この身は因縁 なり。ただこれ心の作なり。われ、覚観に随ひて、多を欲すれば多を見、少を 欲すれば少を見る。諸仏如来は、すなはちこれわが心なり。なにをもつてのゆ ゑに。心に随ひて見るがゆゑに。心、すなはちわが身なり。すなはちこれ虚空 なり。われ、覚観によりて無量の仏を見たてまつる。われ、覚心をもつて仏を 見たてまつり、仏を知る。心は心を見ず、心は心を知らず。われ、法界を観ず るに、性、牢固なることなし。一切の諸仏はみな覚観の因縁より生れたまふ。 このゆゑに、法性はすなはちこれ虚空なり、虚空の性もまたこれ空なり」と。 {以上}この文の意『観経』に同じ。光師(智光)の釈また違ふことなし。  問ふ。心、仏に作ることを知るに、なんの勝利かある。答ふ。もしこの理を 観ずれば、よく三世の一切の仏法を了す。乃至、一たびも聞かば、すなはち三 P--1076 途の苦難を解脱することを得。『華厳経』の如来林菩薩の偈にのたまふがごと し。   「もし人、三世の一切の仏を知らんと欲求せば、   まさにかくのごとく観ずべし。心もろもろの如来を造る」と。 『華厳の伝』にいはく、「文明元年に、京師の人、姓は王、その名を失せり。 すでに戒行なく、かつて善を修せず。患によりて死を致す。二人に引かれて地 獄の門の前に至りぬ。見れば一の僧あり。これ地蔵菩薩なりといふ。すなはち 王氏に教へて、この一の偈を誦せしむ。これに謂らひていはく、〈この偈を誦 し得ては、よく地獄を排ひてん〉と。王氏つひに入りて閻羅王に見ゆ。王、こ の人に問ふ、〈功徳ありや〉と。答へていはく、〈ただ一の四句の偈を受持せ り〉と。つぶさに上に説くがごとし。〔閻羅〕王、つひに〔王氏を〕放勉しつ。 この偈を誦する時に当りて、声の及ぶところの受苦の人はみな解脱することを 得つ。王氏、三日ありてはじめて蘇りぬ。この偈を憶持して、もろもろの沙門 に向かひてこれを説く。偈の文を示験するに、まさに知りぬ、これ『華厳経』 の第十二巻の〈夜摩天宮無量諸菩薩雲集説法品〉なり。王氏みづから、空観寺 P--1077 の僧定法師に向かひて、説きてしかりといふ」と。{略抄} 【63】 第五に弥陀を念ずる別益をいはば、行者をしてその心決定せしめんがた めのゆゑに、別にこれを明かす。[滅罪生善と冥得護持と現身見仏と将来勝利とは、 次いでのごとし。]『観経』の像想観に説きてのたまはく、「この観をなすものは、 無量億劫の生死の罪を除きて、現身のなかに念仏三昧を得」と。またのたまは く(同)、「ただ仏(阿弥陀仏)の名・二菩薩(観音・勢至)の名を聞くに、無量 劫の生死の罪を除く。いかにいはんや憶念せんをや」と。またのたまはく(同)、 「ただ仏像を想ふに、無量の福を得。いはんやまた仏の具足せる身相を観ぜん をや」と。『阿弥陀思惟経』にのたまはく、「もし転輪王、千万歳のうちに四 天下に満てる七宝をもつて十方の諸仏に布施せんも、&M030828;蒭・&M030828;蒭尼・優婆塞・ 優婆夷等の、一たび弾指するあひだも坐禅して、平等心をもつて一切衆生を憐 愍して、阿弥陀仏を念ずる功徳にはしかじ」と。[以上、滅罪生善。]『称讃浄土 経』にのたまはく、「あるいは善男子、あるいは善女人、無量寿の極楽世界の 清浄の仏土の功徳荘厳において、もしはすでに願を発し、もしはまさに願を 発すべく、もしはいま願を発すは、かならずかくのごとく、十方の面に住した P--1078 まへる十恒河沙の諸仏世尊の、摂受したまふところたらん。説のごとく行ずる ものは、一切さだめて阿耨菩提において退転せざることを得。一切さだめて無 量寿仏の極楽世界に生れん」と。『観経』にのたまはく、「光明あまねく十方 世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず」と。またのたまはく (同)、「無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至と、つねにこの行人の所に 来至したまふ」と。『十往生経』(意)に、釈尊、阿弥陀仏の功徳、国土の荘 厳等を説きをはりてのたまはく、「清信士・清信女、この経を読誦し、この経 を流布し、この経を恭敬し、この経を謗ぜず、この経を信楽し、この経を供養 せん。かくのごとき人の輩は、この信敬によりて、われ、今日よりつねに前の 二十五の菩薩をしてこの人を護持せしめ、つねにこの人をして病なく悩みなく、 悪鬼・悪神、また中害せず。またこれを悩まさず、また便りを得ざらしめん」 と。[以上乃至、睡寤・行住・所至の処、みなことごとく安穏ならしめん、云々。]唐土 (中国)の諸師のいはく、「二十五の菩薩、阿弥陀仏を念じ、往生を願ふものを 擁護せん」と。{云々}これまたかの『経』(十往生経)の意に違はず。[二十五の菩 薩とは、観世音菩薩・大勢至菩薩・薬王菩薩・薬上菩薩・普賢菩薩・法自在菩薩・師子吼 P--1079 菩薩・陀羅尼菩薩・虚空蔵菩薩・徳蔵菩薩・宝蔵菩薩・金蔵菩薩・金剛蔵菩薩・光明王菩 薩・山海慧菩薩・華厳王菩薩・衆宝王菩薩・月光王菩薩・日照王菩薩・三昧王菩薩・定自 在王菩薩・大自在王菩薩・白象王菩薩・大威徳王菩薩・無辺身菩薩なり。]『双巻経』(大 経・上)に、かの仏の本願(第三十七願)にのたまはく、「諸天・人民、わが名 字を聞きて、五体を地に投げて、稽首し礼をなして、歓喜し信楽して、菩薩の 行を修せば、諸天・世人、敬を致さずといふことなからん。もししからずは、 正覚を取らじ」と。[以上、冥得護持。]『大集経』の「賢護分」にのたまはく、 「善男子・善女人、端坐繋念し、心をもつぱらにして、かの阿弥陀如来・応 供・等正覚を想ひ、かくのごとき相好、かくのごとき威儀、かくのごとき大衆、 かくのごとき説法を、聞くがごとく繋念し、一心に相続して次第乱れず、ある いは一日を経、あるいはまた一夜せん。かくのごとくして、あるいは七日七夜 に至るまで、わが所聞のごとく具足して念ぜんがゆゑに、この人、かならず阿 弥陀如来・応供・等正覚を覩たてまつらん。もし昼の時に見たてまつることあ たはずは、もしは夜分において、あるいは夢のうちに、阿弥陀仏はかならずま さに現じたまふべし」と。『観経』にのたまはく、「眉間の白毫を見るものは、 P--1080 八万四千の相好、自然にまさに見つべし。無量寿仏を見るものは、すなはち十 方の無量の諸仏を見たてまつるなり。十方無量の諸仏を見たてまつることを得 るがゆゑに、諸仏、現前に授記せん。これをあまねく一切色相を観ずとなす」 と。[以上見仏。]『鼓音声王経』にのたまはく、「十日十夜、六時に念をもつぱ らにし、五体を地に投げてかの仏を礼敬し、堅固正念にしてことごとく散乱を 除き、もしはよく心に念じ、念々に絶えずは、十日のうちにかならずかの阿弥 陀仏を見たてまつることを得、ならびに十方世界の如来および所住の処を見た てまつらん。ただ重障・鈍根の人をば除く。いまの少時において覩たてまつ ることあたはざるところなり。一切のもろもろの善をみなことごとく回向して、 安楽世界に往生することを得んと願ぜば、終らんとする日に、阿弥陀仏、もろ もろの大衆とその人の前に現じて、安喩し称善したまはん。この人、すなはち の時にはなはだ慶悦をなさん。この因縁をもつて、その所願のごとく、すなは ち往生することを得ん」と。『平等覚経』(三)にのたまはく、「仏ののたま はく、〈かならずまさに斎戒して、一心清浄にして昼夜につねに念じ、無量 清浄仏の国に生れんと欲ひて、十日十夜、断絶せざるべし。われ、みなこれ P--1081 を慈愍して、ことごとく無量清浄仏の国に生ぜしめん〉」と。[乃至、一日一夜 もまたかくのごとし。あるいは、この文をもつて下の諸行門のなかに置くべし。]『双巻 経』(大経・下)の偈にのたまはく、   「その仏の本願力ありて、名を聞きて往生せんと欲へば、   みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」と。 『観経』の下品上生の人は、命終の時に臨みて、掌を合せ手を叉へて「南 無阿弥陀仏」と称すれば、仏の名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除 き、化仏の後に従ひて、宝池のなかに生る。同じき品の中生の人は、命終の 時に臨みて、地獄の猛火一時にともに至らんに、弥陀仏の十力威徳、光明神力、 戒・定・慧・解脱・知見を聞けば、八十億劫の生死の罪を除き、地獄の猛火、 化して清涼の風となりて、もろもろの天の華を吹く。華の上にみな化仏・菩 薩ましまして、この人を迎接して、すなはち往生することを得しめたまふ。同 じき品の下生の人は、命終の時に臨みて、苦に逼められて仏を念ずることあた はず。善友の教に随ひて、ただ心を至して声をして絶えざらしめ、十念を具足 して「南無無量寿仏」と称すれば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちに八 P--1082 十億劫の生死の罪を除き、一念のあひだのごときにすなはち往生することを得。 『双巻経』(大経・上)に、かの仏の本願にのたまはく、「〈諸仏の世界の衆生 の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずといはば、 正覚を取らじ〉(第三十四願)と。〈他方の国土のもろもろの菩薩衆、わが名字 を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずといはば、正覚を取らじ〉(第四 十七願)」と。『観経』にのたまはく、「もし仏を念ずるものは、まさに知るべ し、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友と ならん。まさに道場に坐し、諸仏の家に生るべし」と。[以上、将来の勝利なり。 余は上の別時念仏門のごとし。] 【64】 第六に引例勧信といふは、『観仏経』の第三(意)に、仏、もろもろの 釈子に告げてのたまはく、「毘婆尸仏の像法のうちに一の長者ありき、名づけ て月徳といひき。五百の子ありき、同じく重き病に遇へり。父、子の前に致り て涕涙し合掌して、もろもろの子に語らひていはく、〈なんぢら、邪見にして 正法を信ぜず。いま無常の刀、なんぢが身を截り切むとも、なんの怙むところ ありとかせん。仏世尊まします、毘婆尸と名づく。なんぢ、仏を称すべし〉と。 P--1083 もろもろの子聞きをはりて、その父を敬ふがゆゑに〈南無仏〉と称しき。父ま た告げていはく、〈なんぢ、法を称すべし、なんぢ、僧を称すべし〉と。いま だ三たび称するに及ばずして、その子命終しき。仏を称せしをもつてのゆゑに 四天王の所に生れき。天上の寿尽きて、前の邪見の業をもつて大地獄に堕ちき。 獄率羅刹、熱鉄の扠をもつてその眼を刺し壊りき。この苦を受けし時に、父の 長者の教誨せしところの事を憶して、仏を念ぜしをもつてのゆゑに、還りて人 中に生じき。尸棄仏の出でたまへりしに、ただ仏の名を聞きて、仏の形を覩た てまつらざりき。乃至、迦葉仏の時にもまたその名を聞きき。六仏の名を聞き し因縁をもつてのゆゑに、われ(釈尊)と同じく生ぜり。このもろもろの比丘、 前世の時に、悪心をもつてのゆゑに仏の正法を謗ぜしも、ただ父のためのゆゑ に〈南無仏〉と称せしをもつて、生々につねに諸仏の名を聞くことを得、乃 至、今世にわが出でたるに値遇して、もろもろの障除こるがゆゑに阿羅漢とな れり」と。またのたまはく(観仏経・意)、「燃灯仏の末法のうちに一の羅漢あ りき。その千の弟子、羅漢の説を聞きて、心に瞋恨を生じき。寿の修短に随ひ ておのおの命終せんと欲せしに、羅漢、教へて〈南無諸仏〉と称せしめき。す P--1084 でに仏を称しをはりて&M010305;利天に生ずることを得てき。{乃至}未来世にまさに仏に 作ることを得べし、南無光照と号せん」と。第七巻(観仏経・意)に、文殊みづ から説けり、過去の宝威徳仏に値遇し礼拝せしことを。「その時に、釈迦文仏 讃じてのたまはく、〈善きかな、善きかな。文殊師利、すなはち昔の時に一た び仏を礼せしがゆゑに、そこばくの無数の諸仏に値ふことを得てき。いかにい はんや、未来にわがもろもろの弟子の、つとめて仏を観ずるものをや〉と。仏、 阿難に勅したまはく、〈なんぢ、文殊師利の語を持ちて、あまねく大衆および 未来世の衆生に告げよ。もしはよく礼拝するもの、もしはよく仏を念ずるもの、 もしはよく仏を観ずるもの、まさに知るべし、この人は、文殊師利と等しくし て異なることあることなからん。身を捨てて、他世に、文殊師利等のもろもろ の大菩薩、その和上となりたまはん〉」と。またのたまはく(同・意)、「時に、 十方の仏、来りて跏趺して坐したまへり。東方の善徳仏、大衆に告げてのたま はく、〈われ、過去の無量世の時を念へば、仏の、世に出でたまへることありき。 宝威徳上王仏と号しき。時に比丘ありき。九弟子と仏塔に往詣して、仏像を礼 拝しき。一の宝像の厳顕にして観じつべきを見て、礼しをはりて、あきらかに P--1085 視て、偈を説きて讃嘆しき。後の時に命終して、ことごとく東方の宝威徳上 王仏の国に生れて、大蓮華のなかに結跏趺坐して、忽然として化生しき。これ より以後、つねに仏に値ふことを得、諸仏の所にして浄く梵行を修し、念仏三 昧を得てき。三昧を得をはりしかば、仏、ために授記したまひき。《十方の面 におのおの仏になることを得ん》と。東方の善徳仏はすなはちわが身これなり。 東南方の無憂徳仏、南方の栴檀徳仏、西南方の宝施仏、西方の無量明仏、西 北方の華徳仏、北方の相徳仏、東北方の三乗行仏、上方の広衆徳仏、下方の 明徳仏、かくのごとき十仏は、過去に塔を礼し、像を観じ、一偈をもつて讃嘆 せるによりて、いま十方にしておのおの仏になることを得たるなり〉と。この 語を説きをはりて、釈迦文仏を問訊したまふ。すでに問訊しをはりて、大光明 を放ちて、おのおの本国に還りたまひぬ」と。またのたまはく(観仏経)、「四 仏世尊、空より下りて釈迦文仏の床に坐して、讃じてのたまはく、〈善きかな、 善きかな。すなはちよく未来の時の濁悪の衆生のために、三世の仏の白毫の光 明を説きて、もろもろの衆生をして罪咎を滅することを得しめたまふ。所以は いかん。われ昔曾をおもんみれば、空王仏の所にして出家して道を学しき。時 P--1086 に四の比丘あり。ともに同学となりて、仏の正法を習ひき。煩悩、心を覆ひて、 堅く仏法の宝蔵を持つことあたはず、不善の業多くして、まさに悪道に堕つべ し。空中に声ありて、比丘に語りていはく、《空王如来はまた涅槃したまひに き。なんぢが所犯を救ふものなしと謂へりといへども、なんぢら、いま塔に入 りて像を観ずべし。仏の在世と等しくして異あることなからん》と。われ、空 の声に従ひて塔に入り、像の眉間の白毫を観じて、すなはちこの念をなさく、 《如来の在世の光明・色身は、これとなんぞ異ならん。仏の大人相、願はくは わが罪を除きたまへ》と。この語をなしをはりて、大山の崩るるがごとくにし て五体を地に投げて、もろもろの罪を懺悔しき。これより以後、八十億阿僧祇 劫に悪道に堕ちず、生々につねに十方の諸仏を見たてまつり、諸仏の所にし て甚深の念仏三昧を受持しき。三昧を得をはりて、諸仏現前して、われに記別 を授けたまひき。東方の妙喜国の阿&M041309;仏は、すなはち第一の比丘これなり。南 方の歓喜国の宝相仏は、すなはち第二の比丘これなり。西方の極楽国の無量寿 仏は、第三の比丘これなり。北方の蓮華荘厳国の微妙声仏は、第四の比丘こ れなり〉と。時に、四の如来おのおの右の手を申べて、阿難が頂を摩で、告げ P--1087 てのたまはく、〈なんぢ、仏語を持ちて、広く未来のもろもろの衆生のために 説け〉と。三たびこれを説きをはりて、おのおの光明を放ちて、本国に還帰し たまひにき」と。またのたまはく(観仏経)、「財首菩薩、仏にまうしてまうさ く、〈世尊、われ過去の無量世の時を念へば、仏世尊ましましき、また釈迦牟 尼と名づけたてまつりき。かの仏の滅後に一の王子ありき、名づけて金幢とい ひき。驕慢・邪見にして正法を信ぜざりき。知識の比丘ありき、定自在と名づ くるもの、王子に告げていはく、《世に仏像まします、衆宝をもつて厳飾せり。 しばらく塔に入りて、仏の形像を観ずべし》と。時にかの王子、善友の語に随 ひて、塔に入りて像を観じき。像の相好を見て、比丘にまうさく、《仏像の端 厳なること、なほかくのごとし。いはんや仏の真身をや》と。比丘、告げてい はく、《なんぢ、いま像を見るに、礼することあたはずは、まさに“南無仏” と称すべし》と。この時に、王子、合掌し恭敬して、《南無仏》と称しき。宮に還 りて、念を繋けて塔のなかの像を念ずるに、すなはち後夜に夢に仏像を見き。 仏像を見しがゆゑに、心大きに歓喜し、邪見を捨離して、三宝に帰依しき。寿 命終るに随ひて、前に塔に入りて《南無仏》と称せし因縁の功徳によりて、九 P--1088 百万億那由他の仏に値ひて、甚深の念仏三昧を逮得せり。三昧力のゆゑに、諸 仏現前して、それがために記を授けたまひき。これよりこのかた百万阿僧祇劫、 悪道に堕せざりき。乃至今日、甚深の首楞厳三昧を獲得せり。その時の王子は、 いまのわれ、財首これなり〉」と。またのたまはく(観仏経)、「仏ののたまは く、〈われ、賢劫のもろもろの菩薩と、曾、過去の栴檀窟仏の所にして、この 諸仏の色身・変化の観仏三昧海を聞けり。この因縁の功徳力をもつてのゆゑに、 九百万億阿僧祇劫の生死の罪を超越して、この賢劫にして次第に仏になる。{乃至} かくのごとく、十方の無量の諸仏もみなこの法によりて三菩提を成じたまふ〉」 と。『迦葉経』(意)にのたまはく、「昔、過去久遠の阿僧祇劫に、仏、世に 出でたまへることありき。号して光明とまうしき。入涅槃の後に、一の菩薩あ りき。大精進と名づけき。年はじめて十六にして、婆羅門種なり。端正なるこ と比びなし。一の比丘ありて、白畳の上に仏の形像を画きて、持ちて精進に 与へき。精進、像を見て、心大きに歓喜して、かくのごとき言をなさく、〈如 来の形像すら妙好なること、なほしかり。いはんやまた仏の身をや。願はくは、 われ、未来にまたかくのごとき妙身を成就することを得ん〉と。いひをはりて P--1089 思念すらく、〈われもし家にあらば、この身は得ること&M003254;し〉と。すなはち父 母にまうして、哀れみを求め、出家せんとせしに、父母答へていはく、〈われ いま年老いたり、ただなんぢ一子あるのみ。なんぢもし出家しなば、われらま さに死ぬべし〉と。子、父母にまうさく、〈もしわれを聴したまはずは、われ 今日より飲せじ、食せじ、床座に昇らじ、また言説せじ〉と。この誓をなしを はりて、一日食せずして、すなはち六日に至る。父母・知識・八万四千のもろ もろの&M006392;女等、同時に悲泣して、大精進を礼して、尋いで出家を聴しき。すで に出家することを得、像を持して山に入り、草を取りて座となし、画像の前に ありて結跏趺坐し、一心にあきらかに観ぜり。〈この画像は如来に異ならず。 像は覚にあらず、知にあらず。一切の諸法もまたかくのごとし。相なく、相を 離れたり。体性空寂なり〉と。この観をなしをはりて日夜を経て、五通を成 就し、無量を具足し、無礙弁を得、普光三昧を得て、大光明を具せり。浄天眼 をもつて東方の阿僧祇の仏を見たてまつり、浄天耳をもつて仏の所説を聞きて、 ことごとくよく聴受しき。七月を満足するまで、智をもつて食となしき。一切 の諸天、華を散じて供養しき。山より出でて村落に来至して、人のために法を P--1090 説くに、二万の衆生、菩提心を発し、無量阿僧祇の人は、声聞・縁覚の功徳に 住し、父母・親眷もみな、不退の無上菩提に住しき。仏、迦葉に告げたまはく、 〈昔の大精進は、いまのわが身これなり。この像を観ぜしによりて、いま仏に なることを得たり。もし人ありて、よくかくのごとき観を学せば、未来にかな らずまさに無上道を成ずべし〉」と。『譬喩経』の第二にのたまはく、「昔、比 丘ありき。その母を度せんと欲せしに、母すでに命過しぬ。すなはち道眼をも つて天上・人中・擒狩・薜茘のなかに求索するに、つひにこれを見ず。泥梨を 観ずるに、母がなかにあるを見て、すなはち懊&M010771;し悲哀して、広く方便を求め て、その苦を脱せんと欲ひき。時に辺境に王ありき。父を害して国を奪ひてき。 比丘、この王の命、余り七日ありて、罪を受くる地は、比丘の母と同じく一処 にあらんと知りて、夜の安靖の時に、王の寝れる処に到りて、壁を穿ちて半身 を現ず。王、怖ぢて刀を抜きて頭を斫る。頭すなはち地に落ちぬれども、その 処は故のごとし。これを斫ること数反するに、化の頭、地に満つれども、比丘 は動かず。王、意にすなはち解りて、その非常なることを知りぬ。頭を叩きて 過を謝す。比丘のいはく、〈恐るることなかれ、怖づることなかれ。あひ度せ P--1091 んと欲するのみ。なんぢ、父を害して国を奪へりやいなや〉と。対へていはく、 〈実にしかり。願はくは慈救せられよ〉と。比丘のいはく、〈大功徳をなすと も、おそらくはあひ及ばざらんか。王、まさに南無仏と称すべし。七日絶えず は、すなはち罪を免るることを得てん〉と。かさねて、これに告げていはく、 〈つつしみてこの法を忘るることなかれ〉と。すなはち飛びて去りぬ。王すな はち手を叉へて一心に〈南無仏〉と称説すること、昼夜に懈らず、七日ありて 命終して、〔王の〕魂神、泥梨の門に向かひて〈南無仏〉と称す。泥梨のなか の人、仏といふ音声を聞きて、みな一時に〈南無仏〉といひしかば、泥梨すな はち冷めにき。比丘、ために法を説きしかば、比丘の母、王、および泥梨のな かの人、みな度脱を得き。後に大きに精進して、須陀&M017421;道を得き」と。[以上諸 文、略して抄す。]『優婆塞戒経』にのたまはく、「善男子、われ本往、邪見の家 に堕ちたりき、惑網おのづからわれを蓋へり。われ、その時に名を広利といへ り。妻は名女にして、精進勇猛し度脱すること無量にして、十善をもつて化 導しき。われその時に、心に殺猟をなしき。酒肉を貪嗜し、懶惰懈怠にして、 精進することあたはざりき。妻時にわれに語らはく、〈その猟殺を止め、戒め P--1092 て酒肉を断ち、つとめて精進を加へて、地獄の苦悩の患ひを脱して、天宮に上 生して、一処に与することを得よ〉と。われその時においても殺心止まず、酒 肉の美味をも割捨することあたはず、精進の心も懶惰にして前まず、天宮は意 みを息め、地獄の分を受けたり。われその時に聚落のうちに居し、僧伽藍に近 くして、しばしば鍾を槌つを聞きき。妻われに語りていはく、〈事々あたはず は、健鍾の声を聞くとき、三たび弾指して一たび仏を称せよ。身を斂めてみづ から恭まり、驕慢を生ずることなかれ。その夜半のごときも、この法廃するこ となかれ〉と。われすなはちこれを用ゐて、また捨失することなかりき。十二 年を経て、その妻命終して、&M010305;利天に生れき。かへりて後三年ありて、われま た寿尽きて、断事に経至せしに、われを判じて罪に入れて、地獄の門に向かへ き。門に入る時に当りて、鍾の三声を声きしに、われすなはち住立して、心 に歓喜をなし、愛楽して厭はず。法のごとく三たび弾指して、長き声をもつて 仏を唱へき。声ごとにみな慈悲ありて、梵音朗らかに徹れりき。主事、聞きを はりて、心はなはだ愧感すらく、〈これ真の菩薩なりけり。いかんぞ錯りて判 ぜる〉と。すなはち遣追・還送して、天上に往かしめき。すでに往き、到りを P--1093 はりて、五体を地に投げて、わが妻を礼敬して、まうさく、〈大師、幸ひにし て大恩を義けて、いま済抜せらる。すなはち菩提に至るまで教勅に違はじ〉」 と。{以上}また震旦(中国)には、東晋よりこのかた唐朝に至るまで、阿弥陀仏 を念じて浄土に往生せるもの、道俗男女、合せて五十余人なり。僧二十三人、 尼六人、沙弥二人、在家男女合せて二十四人。『浄土論』ならびに『瑞応伝』 に出でたり。わが朝に往生せるもの、またその数あり。つぶさには慶氏の『日 本往生の記』にあり。いかにいはんや、朝市にありて徳を隠し、山林に名を逃 れたるもの、独り修して独り去る、たれか知ることを得んや。  問ふ。下下品の人と五百の釈子とは、臨終に同じく念じたるに、昇沈なんぞ 別なる。答ふ。『群疑論』に会していはく、「五百の釈子は、ただ父が教によ りて一たび仏を念ぜしかども、しかも菩提心を発し浄土に生るることを求めて、 慇懃に慚愧せざりき。またかれは心を至さず、またただ一念にして十念を具せ ざるがゆゑなり」と。{略抄} 【65】 第七に悪趣の利益を明かさば、『大悲経』の第二にのたまはく、「もし また人ありて、ただ心に仏を念じて一たびも敬信をなさば、われ説かく、この P--1094 人はまさに涅槃の果を得て、涅槃の際を尽すべし。阿難、しばらく人中の念仏 の功徳をば置きて、もし畜生ありて、仏世尊においてよく念をなすものをば、 われまた説かく、その善根の福報、まさに涅槃を得べし」と。  問ふ。なんらかこれなるや。答ふ。同経の第三に、仏、阿難に告げたまはく、 「過去に大商主ありき。もろもろの商人を将て大海に入りしに、その船、には かに摩竭大魚のために、来りて呑み噬らはれんとす。その時に、商主およびも ろもろの商人、心驚き毛竪ちて、おのおのみな悲しみ泣きて、嗚呼す。〈奇し きかな、かの閻浮提はかくのごとく楽しむべく、かくのごとく希有なり。世間 の人身、かくのごとく得がたし。われいままさに父母と離別しぬ。姉妹・婦 児・親戚・朋友にも別離して、われさらに見ざるべし。また仏・法・衆僧をも 見たてまつることを得まじくなりぬ〉と。きはめて大きに悲哭しき。その時に、 商主ひとへに右の肩を袒し、右の膝を地に着けて、船の上に住して、一心に仏 を念じ、掌を合せて礼拝して、声を高くして唱へていはく、〈南無諸仏、得 大無畏者、大慈悲者、憐愍一切衆生者〉と。かくのごとく三たび称する時に、 もろもろの商人、また同時にかくのごとく三たび称しき。時に摩竭魚、仏の名 P--1095 号、礼拝の音声を聞きて、大愛敬をなし、聞きてすなはち口を閉ぢてき。その 時に、商主およびもろもろの商人、みなことごとく安穏にして、魚の難を免る ることを得てき。時に摩竭魚、仏の音声を聞きて、心に喜楽をなし、さらに余 のもろもろの衆生をも食&M004299;せざりき。これによりて命終して人中に生るるこ とを得てき。その仏の所にして、法を聞き、出家して、善知識に近づきて、阿 羅漢を得てき。阿難、なんぢ、かの魚の、畜生道に生れて、仏の名を聞くこと を得、仏の名を聞きをはりて、乃至、涅槃せることを観ぜよ。いかにいはんや、 人ありて、仏の名を聞くことを得、正法を聴聞せんをや」と。{略抄}また『菩薩 処胎経』の「八斎品」にのたまはく、「竜の子、金翅鳥のために、頌を説きて いはく、   〈殺はこれ不善の行なり。寿命を減じて中夭あり。   身は、朝露の虫の、光を見てすなはち命終するがごとし。   戒を持ち仏語を奉ずれば、長寿天に生るることを得て、   累劫に福徳を積みて、畜生道に堕ちず。   いまの身は竜身たれども、戒徳清明にして行ず。 P--1096   六畜のなかに堕せりといへども、かならずみづから済度することを望ま   ん〉と。 この時に、竜の子、この頌を説く時に、竜子・竜女、心意開解して、寿終りて 後に、みなまさに阿弥陀仏の国に生るべし」と。[以上、八斎戒の竜の子なり。]余 趣の、仏語を信じて浄土に生るること、これに准へよ。地獄の利益は、前の国 王の因縁、ならびに下の粗心の妙果のごとし。諸余の利益は、下の念仏の功能 のごとし。 【66】 大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、 おのおの往生することを得てん。なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。答 ふ。いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。た だこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修 するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏に はしかじ。ゆゑに『木&M015381;経』にのたまはく、「難陀国の波瑠璃王、使ひを遣は して、仏にまうしてまうさく、〈ただ願はくは、世尊、ことに慈愍を垂れて、 われに要法を賜ひて、われをして日夜に修行することを得やすく、未来世のう P--1097 ちにもろもろの苦を遠離せしめたまへ〉と。仏告げてのたまはく、〈大王、もし 煩悩障・報障を滅せんと欲はば、まさに木&M015381;子一百八を貫きて、もつてつねに みづから随へて、もしは行、もしは坐、もしは臥に、つねにまさに心を至して 分散の意なくして、仏陀・達摩・僧伽の名を称しては、すなはち一の木&M015381;子を 過ぐすべし。かくのごとくして、もしは十、もしは二十、もしは百、もしは千、 乃至、百千万せよ。もしよく二十万遍を満てんに、身心乱れず、もろもろの諂 曲なくは、命を捨てて第三の炎摩天に生るることを得て、衣食自然にして、つ ねに安楽なることを受けん。もしまたよく一百万遍を満たさば、まさに百八の 結業を除断することを得て、生死の流を背きて、涅槃の道に趣き、無上の果を 獲べし〉」と。{略抄}いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつ て往生の業となせり。その文、はなはだ多し。略して十の文を出さん。一には、 『占察経』の下巻にのたまはく、「もし人、他方の現在の浄国に生れんと欲は ば、まさにかの世界の仏の名字に随ひて、意をもつぱらにして誦念すべし。一 心に乱れずして上のごとく観察せば、決定してかの仏の浄国に生るることを得、 善根増長して、すみやかに不退を成ぜん」と。[「上のごとき観察」とは、地蔵菩薩 P--1098 の法身および諸仏の法身と、おのが自身と、平等無二にして、不生不滅なり、常楽我浄な り、功徳円満せりと観ずるなり。また己身無常なること、幻のごとし、厭ふべしと観ずる 等なり。]二には、『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、し かも通じてみな「一向にもつぱら無量寿仏を念じたてまつれ」とのたまへり。 三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく (同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。 四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、 極楽に生ずることを得」と。五には、同経にのたまはく、「もし心を至して西 方に生れんと欲はば、先づまさに一の丈六の像の、池の水の上にましますと観 ずべし」と。六には、同経にのたまはく、「光明あまねく十方世界の念仏の衆 生を照らして、摂取して捨てたまはず」と。七には、『阿弥陀経』にのたまは く、「少善根の福徳因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。もし善 男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持して、もしは一日 {乃至}もしは七日すること、一心に乱れずは、その人命終の時に臨みて、阿弥 陀仏、もろもろの聖衆と現じて、その前にましまさん。この人終る時に、心、 P--1099 顛倒せずしてすなはち往生することを得てん」と。八には、『般舟経』にのた まはく、「阿弥陀仏ののたまはく、〈わが国に来生せんと欲はば、つねにわれ を念ぜよ。しばしば、つねに念をもつぱらにして休息あることなかれ。かくの ごとくせば、わが国に来生することを得ん〉」と。九には、『鼓音声経』にの たまはく、「もし四衆ありて、よくまさしくかの仏の名号を受持せば、この功 徳をもつて、終らんと欲する時に臨みて、阿弥陀、すなはち大衆とこの人の所 に往きて、それをして見ることを得しめ、見をはりて尋いで生ぜん」と。十に は、『往生論』(天親の浄土論・意)に、「かの仏の依正の功徳を観念するをも つて、往生の業となせり」と。{以上}このなかに、『観経』の下下品・『阿弥陀 経』・『鼓音声経』は、ただ名号を念ずるをもつて往生の業となせり。いかに いはんや、相好・功徳を観念せんをや。  問ふ。余の行に、いづくんぞ勧信の文なからんや。答ふ。その余の行法は、 ちなみにかの法の種々の功能を明かす。そのなかにおのづから往生の事を説く なり。ただちに往生の要を弁ずるに、多く「念仏」といふがごとくにあらず。 いかにいはんや、仏みづからすでにのたまへり、「まさにわれを念ずべし」と。 P--1100 また仏の光明、余の行人を摂取すとはいはず。これらの文、分明なり。なんぞ かさねて疑をなさんや。  問ふ。諸経の所説は、機に随ひて万品なり。なんぞ管見をもつて一の文を執 せんや。答ふ。馬鳴菩薩の『大乗起信論』(意)にいはく、「また次に、衆生は じめてこの法を学せんに、その心怯弱にして、信心成就すべきこと難きこと を懼畏して、意に、退しなんと欲せば、まさに知るべし、如来に勝方便ましま して、信心を摂護したまふ。随ひて心をもつぱらにして仏を念ずる因縁をもつ て、願に随ひて、他方の仏土に往生することを得るなり。修多羅に説くがごと し。〈もし人もつぱらにして西方の阿弥陀仏を念じて、所作の善業をもつて回 向して、かの世界に生れんと願求すれば、すなはち往生することを得〉」と。 {以上}あきらかに知りぬ、契経に、多く念仏をもつて往生の要となせり。もしし からずは、四依の菩薩はすなはち理尽にあらじ。 【67】 大文第九に、往生諸行を明かさば、いはく、極楽を求むるものは、か ならずしももつぱら仏を念ぜず。すべからく余の行を明かしておのおのの楽欲 に任すべし。これにまた二あり。初めには、別して諸経の文を明かす。次には、 P--1101 総じて諸業を結す。 【68】 第一に諸経を明かすといふは、『四十華厳経』の普賢願、『三千仏名 経』・『無字宝篋経』・『法華経』等の諸大乗経、『随求』・『尊勝』・『無垢浄 光』・『如意輪』・『阿&M004502;力迦』・『不空羂索』・『光明』・『阿弥陀』、および龍樹の 所感の往生浄土等の呪なり。これらの顕密の諸大乗のなかに、みな受持・読 誦等をもつて、往生極楽の業となせり。『大阿弥陀経』(下)にのたまはく、 「まさに斎戒し、一心清浄にして、昼夜にまさに念じて阿弥陀仏の国に生れ んと欲すべし。十日十夜、断絶せずは、われみなこれを慈愍してことごとく阿 弥陀仏の国に往生せしめん。たとひしかするにあたはずは、みづから思惟し、 よく校計せよ。身を度脱せんと欲するものは、まさに念を絶つべからず。愛を 去りて、家事を念ふことなかれ。婦女と床を同じくすることなかれ。みづから 身心を端く正しくして、愛欲を断じて、一心に斎戒清浄にして、至専に阿弥陀 仏国に生れんと念じて、一日一夜、断絶せずは、寿終してみなその国に往生し て、七宝の浴池の蓮華のなかにありて化生せん」と。[この『経』(大阿弥陀経) は持戒をもつて首となせり。]『十往生弥陀仏国経』(意)にのたまはく、「われいま、 P--1102 なんぢがために説く、十の往生あり。いかなるか十の往生。一には身を観じて 正念にして、つねに歓喜を懐きて、飲食・衣服をもつて仏および僧に施せば、 阿弥陀仏の国に往生す。二には正念にして、世の妙良薬をもつて一の病比丘 および一切衆生に施せば、阿弥陀仏の国に往生す。三には正念にして、一の生 命をも害せず、一切を慈悲すれば、阿弥陀仏の国に往生す。四には正念にして、 師の所に従ひて戒を受け、浄慧をもつて梵行を修し、心につねに喜びを懐けば、 阿弥陀仏の国に往生す。五には正念にして、父母に孝順し師長を敬重し、驕 慢の心を懐かざれば、阿弥陀仏の国に往生す。六には正念にして、僧房に往詣 し塔寺に恭敬し、法を聞きて一の義をも解れば、阿弥陀仏の国に往生す。七に は正念にして、一日一宿のうちに八戒斎を受持し、一日一宿のうちに受持して 一も破らざれば、阿弥陀仏の国に往生す。八には正念にして、もしよく斎月・ 斎日のうちに房舎を遠離してつねに善師に詣れば、阿弥陀仏の国に往生す。九 には正念にして、つねによく浄戒を持ち、勤修して禅定を楽ひ、法を護り悪口 せず、もしよくかくのごとく行ずれば、阿弥陀仏の国に往生す。十には正念に して、もし無上道において誹謗の心を起さず、精進して浄戒を持ちて、また無 P--1103 智のものを教へてこの経法を流布し、無量の衆を教化す。かくのごときもろも ろの人等、ことごとくみな阿弥陀仏の国に往生することを得」と。{以上}『弥勒 問経』にのたまはく、「仏の説きたまへるところのごとく、阿弥陀仏の功徳利 益を願じて、もしよく十念相続して、不断に仏を念ずるものは、すなはち往生 することを得。まさにいかんが念ずべし。仏ののたまはく、〈おほよそ十の念 あり。なんらをか十となす。一には、もろもろの衆生において、つねに慈心を 生じてその行を毀らざること、もしその行を毀ればつひに往生せず。二には、 もろもろの衆生において、つねに悲心を起して残害の意を除くこと、三には、 護法心を発して身命を惜しまざること、一切の法において誹謗をなさざること、 四には、忍辱のなかにおいて決定心を生ずること、五には、深心清浄にして 利養に染せざること、六には、一切智の心を発して日々につねに念じて、廃忘 あることなきこと、七には、もろもろの衆生において、尊重の心を起し、我慢 の心を除き、謙下して言説すること、八には、世の談話において味着をなさざ ること、九には、覚意に近づき、深く種々の善根の因縁を起し、&M011211;閙・散乱の 心を遠離すること、十には、正念にして仏を観じて諸想を除去することなり〉」 P--1104 と。『宝積経』の第九十二に、仏またこの十心をもつて弥勒の問に答へたま へり。そのなかの第六の心にいはく、「仏の種智を求めて、一切の時において 忘失する心なし」と。その余の九種は、文少し異なりといへども、意は前の 『経』(弥勒問経)に同じ。ただ『経』(宝積経)の文にのたまはく、「もし人、 この十種の心のうちにおいて、随ひて一心を成じて、かの仏の世界に往生せん と楽欲せんに、もし生ずることを得ずといはば、この処あることなからん」と。 {云々}明らけし、かならずしも十を具して往生の業となすにはあらざるなり。 『観経』にのたまはく、「かの国に生れんと欲はば、まさに三福を修すべし。 一には父母に孝養し、師長に奉事し、慈心をもつて殺せず、十善業を修するこ と、二には三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯せざること、三には菩提心 を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進することなり。かくのご とき三事を名づけて浄業となす。仏、韋提希に告げたまはく、〈なんぢいま知 るやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在の三世の諸仏の浄業の正因な り〉」と。またのたまはく(同・意)、「上品上生といふは、もし衆生ありて、 かの国に生ぜんと願ぜば、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三となす。 P--1105 一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具せるものはかな らずかの国に生る。また三種の衆生ありて、まさに往生することを得べし。な んらをか三となす。一には慈心にして殺せず、もろもろの戒行を具すること、 二には大乗方等経典を読誦すること、三には六念を修行して、回向発願して かの国に生れんと願ずることなり。この功徳を具すること、一日乃至七日にし て、すなはち往生することを得。上品中生といふは、かならずしも方等経典 を受持せざれども、よく義趣を解りて、第一義において心驚動せず、深く因果 を信じ大乗を謗ぜず。この功徳をもつて、回向して極楽国に生れんと願求する なり。上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗ぜず。ただ無上道の心を発 して、この功徳をもつて、回向して極楽に生れんと願求するなり。中品上生 といふは、もし衆生ありて、五戒を受持し、八戒斎を持ち、もろもろの戒を修 行して五逆を造らず、もろもろの過患なからん。この善根をもつて、回向して 願求するなり。中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜八戒斎 を受け、もしは一日一夜沙弥戒を持ち、一日一夜具足戒を持ち、威儀欠くるこ となし。この功徳をもつて、回向して願求するなり。中品下生といふは、もし P--1106 善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ずるなり。下品上生と いふは、あるいは衆生ありて、もろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せず といへども、かくのごとき愚人、多くもろもろの悪法を造りて慚愧あることな からん。終りに臨みて十二部経の首題の名字を聞き、および合掌して〈南無阿 弥陀仏〉と称するなり。下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八 戒および具足戒を毀犯せらん。かくのごとき愚人、命終らんと欲する時に、地 獄の衆火、一時にともに至らん。善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏 の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・知 見を讃ずるに遇はん。この人聞きをはりて八十億劫の生死の罪を除くなり。下 品下生といふは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作り、もろも ろの不善を具せん。かくのごとき愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕つべか らん。命終の時に臨みて、善知識に遇ひて、仏を念ずることあたはずといへ ども、ただ心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足して〈南無無量寿 仏〉と称せん。仏の名を称せんがゆゑに、念々のうちに八十億劫の生死の罪を 除くなり」と。『双巻経』(大経・下)の三輩の業もまたこれを出でず。『観経』 P--1107 には、十六観をもつて往生の因となせり。『宝積経』に説かく、仏前の蓮華 に化生するに、四の因縁ありと。偈(同)にのたまはく、   「華香をもつて仏および支提に散ずると、他を害せざると、ならびに像を   造ると、   大菩提において深く信解するとは、蓮華に処して仏前に生るることを得」   と。{以上} 余は繁く出さず。 【69】 第二に総じて諸業を結すといふは、〔浄影寺〕慧遠法師、浄土の因要を出 せるに、四あり。「一には観を修して往生すること、十六観のごときなり。二 には業を修して往生すること、三福業のごときなり。三には心を修して往生す ること、至誠等の三心なり。四には帰向して往生する、浄土の事を聞きて帰向 し、称念し、讃嘆すること等なり」(観経義疏・意)と。いまわたくしにいはく、 諸経の行業、総じてこれをいへば、『梵網』戒品を出でず。別してこれを論ず れば、六度を出でず。細しくその相を明かせば、その十三あり。一には財・法 等の施、二には三帰・五戒・八戒・十戒等の多少の戒行、三には忍辱、四には P--1108 精進、五には禅定、六には般若、[第一義を信ずること等これなり。]七には菩提心 を発すこと、八には六念を修行すること、[仏・法・僧・戒・施・天、これを六念と いふ。十六想観はまたこれを出でず。]九には大乗を読誦すること、十には仏法を守 護すること、十一には父母に孝順し師長に奉事すること、十二には驕慢をな さざること、十三には利養に染せざることなり。『大集』の「月蔵分」の偈に のたまはく、   「樹の菓繁ければ、すみやかにみづから害するがごとし。竹&M026736;の実を結ぶ   もまたかくのごとし。   任騾の懐すれば、自身を喪ぼすがごとし。無智にして利を求むるもまたし   かり。   もし比丘ありて、供養を得、利養を楽求し堅く着するものは、   世においてさらにかくのごとき悪はなし。ゆゑに解脱の道を得ざらしむ。   かくのごとくして利養を貪求するものは、すでに道を得をはりぬれども、   還りてまた失ふ」と。 また『仏蔵経』に、迦葉仏、記してのたまはく、「釈迦牟尼仏は多く供養を受 P--1109 けたまはんがゆゑに、法まさに疾く滅すべし」と。{云々}如来なほしかり。いか にいはんや凡夫をや。大象窓を出づるに、つひに一の尾のために礙へらる。行 人家を出でたれども、つひに名利のために縛せらる。すなはち知りぬ、出離の 最後の怨は、名利より大なるものはなし。ただ浄名大士(維摩詰)は、身は家 にあれども心は家を出で、薬王の本事は、塵寰を避りて雪山に居せり。いまの 世の行人もまたかくのごとくすべし。みづから根性を料りて、これを進止せよ。 もしその心を制することあたはずは、なほすべからくその地を避るべし。麻の なかの蓬、屠辺の廏、好悪いづれにかよれるや。[『仏蔵経』を見て是非を知るべし。] 【70】 大文第十に、問答料簡といふは、略して十の事あり。一には極楽の依正、 二には往生の階位、三には往生の多少、四には尋常の念相、五には臨終の念相、 六には粗心の妙果、七には諸行の勝劣、八には信毀の因縁、九には助道の資縁、 十には助道の人法なり。 【71】 第一に極楽の依正といふは、問ふ、阿弥陀仏の極楽浄土は、これいづれ の身、いづれの土ぞや。答ふ。天台(智&M043614;)のいはく(観経天台疏・意)、「応身 の仏、同居の土なり」と。遠法師(浄影寺慧遠)のいはく、「これ応身・応土な P--1110 り」と。綽法師(道綽)のいはく、「これ報仏・報土なり。古旧等、あひ伝へ て、みな〈化土・化身なり〉といふ。これを大きに失せりとなす。『大乗同性 経』によりていはく、〈浄土のなかにして成仏するものは、ことごとくこれ報 身なり。穢土のなかにして成仏するものは、ことごとくこれ化身なり〉と。ま たかの『経』(同)にのたまはく、〈阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如 来・宝徳如来等の、もろもろの如来の清浄の仏刹にして、現に得道するもの、 まさに得道すべきもの、かくのごとき一切はみなこれ報身の仏なり。何者か如 来の化身とならば、なほ今日の踊歩健如来・魔恐怖如来等のごときなり〉」と。 [以上『安楽集』(上・意)。]  問ふ。かの仏成道したまひて、すでに久如しとかせん。答ふ。諸経に「十 劫」とのたまひ、『大阿弥陀経』(上)には「十小劫」とのたまひ、『平等覚 経』(一)には「十八劫」とのたまひ、『称讃浄土経』には「十大劫」とのた まへり。邪正、知りがたし。ただ『双巻経』(大経)の憬興師の『疏』(述文賛) に、『平等経』を会していはく、「十八劫とは、それ小の字の、そのなかの点 を闕せるなり」と。 P--1111  問ふ。未来の寿はいくばくぞ。答ふ。『小経』に、「無量無辺阿僧祇劫」と のたまへり。『観音授記経』(意)にのたまへり、「阿弥陀仏の寿命、無量百 千億劫にして、まさに終極あるべし。仏涅槃の後に、正法の世に住すること、 仏の寿命に等しからん。善男子、阿弥陀仏の正法の滅して後に、中夜の分を過 ぐして明相の出づる時に、観世音菩薩、菩提樹下にして等正覚を成じ、普光功 徳山王如来と号せん。その仏の国土には、声聞・縁覚の名あることなからん。 その仏の国土を、衆宝普集荘厳と号せん。普光功徳如来涅槃したまひて、正 法の滅して後に、大勢至菩薩、すなはちその国にして成仏し、善住功徳宝王如 来と号せん。国土・光明・寿命、乃至、法の住すること、等しくして異なるこ とあることなからん」と。  問ふ。『同性経』には「報身」とのたまひ、『授記経』には「入滅」とのた まふ。二の経の相違、諸師いかんが会する。答ふ。綽禅師(道綽)、『授記経』 を会していはく(安楽集・上)、「これはこれ報身の、隠没の相を現ずるなり。 滅度にはあらず」と。迦才、『同性経』を会していはく(浄土論)、「浄土のな かにして仏になるを判じて報となすことは、これ受用事身なり。実の報身には P--1112 あらず」と。  問ふ。何者をか正となすや。答ふ。迦才のいはく(浄土論)、「衆生の起行に すでに千殊あれば、往生して土を見ることまた万別あるなり。もしこの解を作 らば、諸経論のなかに、あるいは判じて報となし、あるいは判じて化となすこ と、みな妨難なし。ただ諸仏の修行、つぶさに報化の二の土を感ずることを知 れ。『摂論』のごときには〈加行は化を感ず、正体は報を感ず〉といへり。も しは報、もしは化、みな衆生を成就せんと欲すなり。これすなはち、土は虚し く設けず、行は空しく修せず。ただ仏語を信じて、経によりて専にして念ずれ ば、すなはち往生することを得。またすべからく報と化とを図度るべからず」 と。{以上}この釈、善し。すべからくもつぱらにして称念すべし。労しく分別す ることなかれ。  問ふ。かの仏の相好、なにをもつてか不同なる。答ふ。『観仏経』に、諸仏 の相好を説きてのたまはく、「人の相に同ずるがゆゑに三十二と説き、もろも ろの天に勝れたるがゆゑに八十の好と説く。もろもろの菩薩のためには、八万 四千のもろもろの妙相好を説く」と。{以上}かの仏これに准へよ。 P--1113  問ふ。『双巻経』(大経・上)にのたまはく、「かの仏の道樹は高さ四百万里 なり」と。『宝積経』にのたまはく、「道樹の高さ十六億由旬なり」と。『十 往生経』にのたまはく、「道樹の高さ四十万由旬なり。樹下に獅子座あり、 高さ五百由旬なり」と。『観経』にのたまはく、「仏の身量、六十万億那由他 恒河沙由旬なり」と。{云々}樹と座と仏身と、なんぞあひ称はざる。答ふ。異解 不同なり。あるいは釈すらく、「仏の境界は大小あひ礙へず」と。あるいは釈 すらく、「応仏に寄せて樹量を説き、真仏に寄せて身量を説く」と。また多く の釈あり。つぶさに述ぶべからずと。  問ふ。『華厳経』(意)にのたまはく、「娑婆世界の一劫を極楽国の一日一夜 となす」と等いへり。{云々}これによりてまさに知るべし、上品中生の、宿を 経て華開くるは、この間の半劫に当れり。乃至、下下生の十二劫は、この間の 恒河沙塵数の劫に当れり。なんぞ極楽と名づけん。答ふ。たとひ恒沙劫を経て 蓮華開けずとも、すでに微しき苦なし、あに極楽にあらずや。『双巻経』(大 経・下)にのたまふがごとし、「その胎生のものの処するところの宮殿は、あ るいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快 P--1114 楽を受くること、&M010305;利天のごとし」と。{以上}ある師のいはく、「胎生は、これ 中品・下品なり」と。ある師はいはく、「九品に摂せざるところなり」と。異 説ありといへども快楽は別ならず。いかにいはんや、かの九品の経るところの 日時を判ずること、諸師不同なるをや。懐感・智憬等の諸師は、かの国土の日 夜劫数なりと許すは、まことに責むるところに当れり。ある師のいはく、「仏、 この土の日夜をもつて、これを説きて、衆生をして知らしめたまふ」と。{云々} いまいはく、後の釈、失なし。しばらく四の例をもつて助成せん。一には、か の仏の身量、そこばく由旬といふは、かの仏の指分をもつて、畳ねてかの由旬 となせるにあらず。もししからずは、須弥山のごとき長大の人の、一毛端をも つて、その指の節となさんに似たるべし。ゆゑに知りぬ、仏の指の量をもつて 仏身の長短を説かずといふことを。なんぞかならずしも、浄土の時剋をもつて 華の開くる遅速を説かんや。二には、『尊勝陀羅尼経』に説くがごとし。「&M010305;利 天上の善住天子、空の声の告ぐるを聞くに、〈なんぢ、まさに七日ありて死ぬ べし〉と。時に天帝釈、仏の教勅を承けて、かの天子をして七日勤修せしむ。 七日を過ぎて後に、寿命延ぶることを得たり」と。{取意}これはこれ、人中の日 P--1115 夜をもつて説けるなり。もし天上の七日によらば、人中の七百歳に当れり。仏 世の八十年のうちに、その事を決了すべきにあらず。九品の日夜もまたこれに 同じかるべし。三には、法護所訳の『経』にのたまはく、「胎生の人は、五百 歳を過ぎて仏を見たてまつることを得」と。『平等覚経』(三)にのたまはく、 「蓮華のなかに化生して、城のなかにあり。この間の五百歳にして、出づるこ とを得ることあたはず」と。{取意}憬興等の師、この文をもつて、この方の五百 歳なりといふことを証す。いまいはく、かの胎生の歳数、すでにこの間により て説く。九品の時剋、なんの別義ありてか、かれに同じからざらんや。四には、 もしかの界によりて九品を説けりとせば、上品中生の一宿、上品下生の一日 一夜は、すなはちこの界の半劫・一劫に当れり。もししかなりと許さば、胎生 の疑心のものすら、なほ娑婆の五百歳を経て、すみやかに仏を見たてまつるこ とを得るに、上品の信行のもの、あに半劫・一劫を過ぎて、遅く蓮華を開かん や。この理あるがゆゑに、後の釈は失なし。  問ふ。もしこの界の日夜の時剋をもつてかの相を説かば、かの上上品は、 かの国に生れをはりて、すなはち無生法忍を悟るべからず。しかる所以は、こ P--1116 の界の少時の修行をば勝れたりとなし、かの国の多時の善根をば劣なりとなす。 すでにしからば、上上品の人は、この世界にして、一日より七日に至るまで、 三福業を具足するに、なほ無生法忍を証することあたはざりき。いかんぞ、か しこに生れて、法を聞きてすなはち悟らんや。ゆゑに知りぬ、かの国土の長遠 の時剋を経て、無生忍を悟るなり。しかも、かしこに約して、すなはち悟ると 名づくるも、ここに望むれば、すなはち億千歳なり。あるいは上上の人は、 かならずこれ方便の後心の行、円満せるものなるべし。もししからずは、諸文 桙楯せん。答ふ。いまだ、かの国の多善は劣なり、この界の少善は勝れたりと いふことを知らず。  問ふ。『双巻経』(大経・下)に説かく、「ここにして広く徳本を殖ゑ、恩を 敷き恵を施し、道禁を犯することなく、忍辱し、精進し、一心し、智慧ありて、 うたたあひ教化して、善を立し、意を正しくし、斎戒清浄にして一日一夜す れば、無量寿仏の国にありて、善をなすこと百歳するに勝れたり。所以はいか ん。かの仏国土は無為自然にして、みなもろもろの善を積みて毛髪の悪もなし。 ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏の国のなかにして善を P--1117 なすこと千歳するに勝れたり」と。{以上}これその勝劣なり。答ふ。二界の善根 を剋対するにはしかるべし。しかも、値仏の縁勝れたれば、すみやかに悟るに 失なし。あるいはこの『経』(大経・下)は、ただ修行の難易を顕し、善根の勝 劣を顕すにはあらず。たとへば、貧賤なるものの一銭を施するをば、称美すべ しといへども、しかも衆事を弁ぜず、富貴の千金を捨つるは称すべからずとい へども、しかもよく万事を弁ずるがごとし。二界の修行もまたかくのごとし。 『金剛般若経』(意)にのたまへるがごとし。「仏世にして信解するをば、いま だ勝れたりとなすに足らず。滅後をば勝れたりとなす」と。あるいは余の義あ り。委曲することあたはず。  問ふ。娑婆の行因に随ひて、極楽の階位に別あるがごとく、所感の福報もま た別ありや。答ふ。大都は別なきも、細分は差あり。『陀羅尼集経』の第二に のたまふがごとし。「もし人、香華・衣食等をもつて供養せざるものは、かの 浄土に生れたりといへども、しかも香華・衣食等の種々の供養の報を得ず」と。 [この文は、かの仏の本願に違へり。さらにこれを思釈せよ。]玄一師・因法師、同じく いはく、「実に約して論ずれば、また勝劣あり。しかもその状相似せるがゆゑ P--1118 に好醜なしと説く」と。  問ふ。極楽世界は、ここを去ることいくばくぞ。答ふ。『経』にのたまはく、 「ここより西方に、十万億の仏土を過ぎて極楽世界あり」と。ある『経』(称 讃浄土経)にのたまはく、「これより西方に、この世界を去ること百千倶胝那由 他の仏土を過ぎて仏の世界あり。名づけて極楽といへり」と。  問ふ。二の経、なんがゆゑぞ不同なる。答ふ。『論』(浄土論)の智光の『疏』 の意にいはく、「倶胝といふは、ここには億となす。那由他といふは、この間 の垓の数に当れり。世俗にいはく、十の千を万といひ、十万を億といひ、十億 を兆といひ、十兆を経といひ、十経を垓といふ。垓はなほこれ大数なり。百千 倶胝はすなはち十万億なり。億に四の位あり。一には十万、二には百万、三に は千万、四には万万なり。いま億といふはすなはちこれ万万なり。この義を顕 さんがために那由他を挙ぐ」と。{以上}この釈思ふべし。  問ふ。かの仏の所化はただ極楽とやせん、また余ありとやせん。答ふ。『大 論』(大智度論)にいはく、「阿弥陀仏にもまた厳浄・不厳浄の土あること、釈 迦文のごとし」と。 P--1119  問ふ。なんらかこれなるや。答ふ。極楽世界はすなはちこれ浄土なり。しか も、その〔阿弥陀仏の〕穢土はいまだいづれの処なるかを知らず。ただし道綽等 の諸師、『鼓音声経』の所説の国土をもつてかの穢土となす。かの『経』(同) にのたまふがごとし。「阿弥陀仏は声聞とともなり。その国を号して清泰とい ふ。聖王の住むところなり。その城は縦広十千由旬なり。なかにおいて刹利の 種を充満せり。阿弥陀仏・如来・応・正遍知の父を月上転輪聖王と名づく。 その母を名づけて殊勝妙顔といふ。子を月明と名づく。奉事の弟子を無垢称 と名づく。智慧の弟子を名づけて攬光といふ。神足精勤のものを名づけて大化 といふ。その時の魔王を名づけて無勝といふ。提婆達多あり、名づけて寂とい ふ。阿弥陀仏、大比丘六万の人とともなり」と。  問ふ。かの仏の所化は、ただ極楽・清泰との二の国とのみやせん。答ふ。教 文は、縁に随ひてしばらく一隅を挙ぐ。その実処を論ずれば不可思議なり。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。   「菩薩もろもろの願海を修行して、あまねく衆生の心の所欲に随ふ。   衆生の心行広くして無辺なれば、菩薩の国土も十方に遍せり」と。 P--1120 またのたまはく(華厳経)、   「如来出現したまひて十方に遍し、一々の塵のなかに無量の土あり。   そのなかの境界また無量なるに、ことごとく無辺無尽の劫に住したまふ」   と。  問ふ。如来の施化は、事孤り起りたまはず。かならず機縁に対す。なんぞ十 方に遍する。答ふ。広劫に修行して無量の衆を成就したまへり。ゆゑにかの機 縁、また十方の界に遍せり。『華厳』の偈にのたまふがごとし。   「往昔に勤修したまふこと多劫海にして、よく衆生の深重の障を転じたま   へり。   ゆゑによく身を分つこと十方に遍して、ことごとく菩提樹王の下に現じた   まふ」と。 【72】 第二に往生の階位といふは、問ふ、『瑜伽論』(意)にいはく、「三地の 菩薩、まさに浄土に生る」と。いま地前の凡夫・声聞を勧むるに、なんの意か ある。答ふ。浄土に差別あるがゆゑに過あることなし。感師(懐感)の釈(群 疑論・意)にいふがごとし。「もろもろの経論の文に、浄土に生ずることを説く P--1121 に、おのおの一の義によれり。浄土すでに粗妙・勝劣あれば、生ずることを得 ることもまた上下階降あり」と。また道宣律師のいはく、「三地の菩薩、はじ めて報仏の浄土を見る」と。  問ふ。たとひ報土にあらずとも、惑業重きもの、あに浄土を得んや。答ふ。 天台(智&M043614;)ののたまはく(維摩経略疏・意)、「無量寿の国は果報殊勝なりとい へども、臨終の時に懺悔し念仏すれば、業障すなはち転じて、すなはち往生を 得。惑染を具せりといへども、願力をもつて心を持ちて、また〔浄土に〕居する ことを得」と。  問ふ。もし凡夫また往生することを得と許さば、『弥勒問経』をいかんが通 会せん。『経』(同)にのたまはく、「仏を念ずるは凡愚の念にあらず。結使を 雑せずして、弥陀仏国に生るることを得」と。答ふ。『西方要決』に釈してい はく、「娑婆は苦なりと知りて永く染界を辞するは、すなはち薄浅の汎にあら ず。当来に仏に作りて、意もつぱら広く、法界の衆生を度せんとす。この勝解 あるがゆゑに愚ならず。正念する時に結使眠伏す。ゆゑに結使の念を雑へずと いふ」と。{略抄}意のいはく、凡夫の行人の、この徳を具せるなり。 P--1122  問ふ。かの国の衆生はみな不退転なり。あきらかに知りぬ、これ凡夫の生処 にあらずといふことを。答ふ。いふところの不退とは、かならずしもこれ聖の 徳にあらじ。『要決』(西方要決)にいふがごとし。「いま不退を明かすに、そ の四種あり。『十住毘婆沙』にいはく、〈一には位不退、すなはち因を修する こと万劫ありて、また、悪律儀の行に退堕し生死に流転せざるなり。二には行 不退、すでに初地を得て、利他の行退せざるなり。三には念不退、八地以去は 無功用にして、意に自在を得るがゆゑに。四には処不退、文証なしといへども、 理に約してもつて成ず。いかんとならば、天のなかに果を得れば、すなはち不 退を得るがごとく、浄土またしかなり。命長くして病なく、勝れたる侶と提携 し、純正にして邪なく、ただ浄にして染なく、つねに聖尊に事へまつる、こ の五の縁によりてその処に退くことなし〉」と。{以上略抄}  問ふ。九品の階位、異解不同なり。遠法師(浄影寺慧遠)のいふがごとし。 「上が上生は四・五・六地なり。上が中生は初・二・三地なり。上が下生は 地前の三十心なり」と。力法師のいはく、「上上は行・向なり、上中は十解 なり、上下は十信なり」と。基師のいはく、「上上は十回向、上中は解行な P--1123 り、上下は十信なり」と。あるがいはく、「上上は十住の初心なり、上中は 十信の後心なり、上下は十信の初位なり」と。あるがいはく、「上上は十信 および以前の、よく三心を発して、よく三行を修するものなり。上中・上下 は、ただ十信以前の、菩提心を発して、善を修する凡夫を取る。起行の浅深に より、もつて二品を分つ」と。諸師の所判の不同なる所以は、無生忍の位の不 同なるをもつてのゆゑなりと。『仁王経』には、無生忍は七・八・九地にあり。 諸論には、初地にあるいは忍位にあり。『本業瓔珞経』には、十住にあり。 『華厳経』には、十信にあり。『占察経』には、一行三昧を修して相似の無生 法忍を得るものを説けり。ゆゑに諸師おのおの一の義によるなり。中品の三生 は、遠(浄影寺慧遠)のいはく、「中上はこれ前三果なり、中中はこれ七方便 なり、中下はこれ解脱分の善を種ゑたる人なり」と。力法師これに同じ。基法 師のいはく、「中上は四善根、中中は三賢、中下は方便の前の人なり」と。 あるがいはく、「次いでのごとく、忍・頂・煖なり」と。あるがいはく、「三 生はならびにこれ解脱分の善根を種ゑたる人なり」と。[以上六品にまた余の釈あ り。感禅師(懐感)の『論』(群疑論)、龍興の『記』(観無量寿経記)等に見えたり。] P--1124 下品の三生は別の階位なし。ただこれ具縛造悪の人なり。明らけし、往生の人 はその位限りあり。いかんぞ、なほこれわれらが分なりとは知るや。答ふ。上 品の人、階位たとひ深くとも、下品の三生、あにわれらが分にあらざらんや。 いはんや、かの後の釈に、すでに十信以前の凡夫を取りて上品の三となせるを や。また『観経』の善導禅師の「玄義」(玄義分)に、大小乗の方便以前の凡 夫をもつて九品の位を判じて、諸師の所判の深高なることを許さず。また経論 は、多く文によりて義を判ず。いまの『経』(観経)の所説の上の三品の業を、 なんぞかならずしも執して深位の行となさんや。  問ふ。もししからば、かしこに生じて、早く無生法忍を悟るべからず。答ふ。 天台には二の無生忍の位あり。もし別教の人ならば、歴劫修行して無生忍を 悟り、もし円教の人ならば、乃至、悪趣の身にしてまた頓に証するものあり。 穢土なほしかなり、いかにいはんや浄土をや。かの土の諸事をば、余処に例す ることなかれ。いづれの処にか、一切の凡夫、いまだその位に至らざるに、つ ひに退堕することなく、いづれの処にか、一切の凡夫、ことごとく五神通を得 て妙用無礙ならんや。証果の遅速、例してまたしかるべし。 P--1125  問ふ。上品生の人の、得益の早晩は一向にしかるか。答ふ。『経』(観経) のなかにはしばらく一類を挙ぐるなり。ゆゑに〔浄影寺〕慧遠和尚の『観経の義 記』(観経義疏)にいはく、「九品の人の、かの国に生れをはりて、益を得る劫 数は、勝れたるによりて説く。理またこれに過ぎたるものもあるべし」と。{取意} いまいはく、ひろく九品を論ぜば、あるいはまた少分これよりすみやかなるも のもあるべし。  問ふ。『双巻経』(大経)のなかに、また弥勒等のごとき、もろもろの大菩 薩の、まさに極楽に生ずべきあり。ゆゑに知りぬ、『経』(観経)のなかの九 品の得益は劣なるによりてしかも説けるなり。いかんぞ「勝れたるによる」と はいふや。答ふ。かの国に生れてはじめて無生を悟る、前後・早晩に約して、 これを「勝れたるによる」といふなり。さらにかの上位の大士をば論ぜず。し かも、かの大士、九品のなかにおいて摂と不摂とを、別に思択すべし。  問ふ。もし凡下の輩もまた往生することを得ば、いかんぞ、近代、かの国土 において求むるものは千万なるも、得ることは一二もなきや。答ふ。綽和尚 (道綽)のいはく(安楽集・上意)、「信心深からずして、存ぜるがごとく、亡ぜ P--1126 るがごときゆゑに。信心一ならずして、決定せざるがゆゑに。信心相続せずし て、余念間つるがゆゑに。この三、相応せざるものは、往生することあたはざ るなり。もし三心を具して往生せずといはば、この処あることなからん」と。 導和尚(善導)のいはく(礼讃)、「もしよく上のごとく念々相続して命を畢ふる を期となすものは、十はすなはち十生じ、百はすなはち百生ず。もし専を捨 てて雑業を修せんと欲するものは、百にして時に希に一二を得、千にして時に 希に三五を得」と。[「上のごとく」といふは、礼・讃等の五念門、至誠等の三心、長時 等の四修を指すなり。]  問ふ。もしかならず命を畢ふるを期となさば、いかんぞ、感和尚(懐感)の、 「長時・短時、多修・少修、みな往生することを得」(群疑論)といへるや。答 ふ。業類一にあらざるがゆゑに、二の師ともに過なし。しかも、命を畢ふるを 期となして、勤修して怠ることなくは、業をして決定せしむるに、これを張本 となす。  問ふ。『菩薩処胎経』の第二に説かく、「西方にこの閻浮提を去ること十二 億那由他して懈慢界あり。国土快楽にして、倡妓楽を作り、衣被・服飾・香華 P--1127 をもつて荘厳せり。七宝転開の床あり。目を挙げて東を視れば、宝床随ひて 転ず。北を視、西を視、南を視るにもまたかくのごとく転ず。前後に意を発せ る衆生の、阿弥陀仏国に生れんと欲するもの、みな深く懈慢国土に着して、前 進して、阿弥陀国に生るることあたはず。億千万の衆、時に一人ありてよく阿 弥陀仏の国に生ず」と。{以上}この『経』(菩薩処胎経)をもつて准ずるに、生ず ることを得べきこと難し。答ふ。『群疑論』に、善導和尚の前の文を引きて、 この難を釈して、またみづから助成していはく、「この『経』(菩薩処胎経)の 下の文にのたまはく、〈なにをもつてのゆゑに。みな懈慢によりて執心牢固な らず〉と。ここをもつて知りぬ、雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑ に懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これす なはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るる ものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に 別に説けり。実には相違せず」と。{以上}  問ふ。たとひ三心を具せずといへども、命を畢ふることを期せずといへども、 かの一たび名を聞くすら、なほ仏になることを得。いはんやしばらくも称念す P--1128 る、なんぞ唐捐ならんや。答ふ。しばらくは唐捐なるに似たれども、つひには 虚設ならず。『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたま ふがごとし。   「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、   劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。   [「大海」とは、これ竜界なり。] 釈していはく(探玄記・意)、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。前の信 によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。{云々}『華厳』を信ずるもの、すでにか くのごとし。念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作 りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生するこ とを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念 ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。ゆゑに『十疑』にいはく、 「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善 知識を得て十念成就するなり」と。{云々}感師(懐感)の意もまたこれに同じ。  問ふ。下下品の人、もし宿善によらば、十念生の本願(第十八願)、すなはち P--1129 名ありて実なからん。答ふ。たとひ宿善ありとも、もし十念なくは、さだめて 無間に堕ち、受苦窮まりなからん。明らけし、臨終の十念これ往生の勝縁なり。 【73】 第三に往生の多少といふは、『双巻経』(大経・下意)にのたまはく、「仏、 弥勒に告げたまはく、〈この世界より、六十七億の不退の菩薩ありて、かの国 に往生す。一々の菩薩は、すでにかつて無数の諸仏を供養して、次いで弥勒の ごとし。もろもろの小行の菩薩および少功徳を修せるものも、称計すべから ず。みなまさに往生すべし。他方の仏土もまたかくのごとし。その遠照仏国の 百八十億の菩薩、宝蔵仏国の九十億の菩薩、無量意仏国の二百二十億の菩薩、 甘露味仏国の二百五十億の菩薩、竜勝仏国の十四億の菩薩、勝力仏国の万四 千の菩薩、師子仏国の五百の菩薩、離垢光仏国の八十億の菩薩、徳首仏国の六 十億の菩薩、妙徳山仏国の六十億の菩薩、人王仏国の十億の菩薩、無上華仏国 の無数不可称計の不退のもろもろの菩薩、智慧勇猛にして、すでにかつて無量 の諸仏を供養したてまつり、七日のうちに、すなはちよく百千億劫の大士の所 修の堅固の法を摂取す。無畏仏国の七百九十億の大菩薩衆、もろもろの小菩薩 および比丘等は、称計すべからず。みなまさに往生すべし。ただこの十四仏の P--1130 国のなかのもろもろの菩薩等の、まさに往生すべきのみにあらず。十方世界の 無量の仏国より、その往生するものもまたかくのごとく、はなはだ多くして無 数なり。われ、ただ十方の諸仏の名号および菩薩・比丘のかの国に生るるもの を説かば、昼夜にして一劫すともなほいまだ竟ることあたはじ〉」と。{以上}こ の諸仏の土のなかに、いまの娑婆世界に少善を修して、まさに往生すべきもの あり。われら、いま幸ひに釈尊の遺法に遇ひて、億劫の時に一たびたまたま少 善往生の流に預かれり。務ぎて勤修すべし。時を失ふことなかれ。  問ふ。もし少善根また往生することを得ば、いかんぞ、『経』(小経)に「少 善根福徳の因縁をもつて、かの国に生るることを得べからず」とはのたまへる。 答ふ。これに異解あり、繁く出すことあたはず。いまわたくしに案じていはく、 大小は定まれることなし。相待して名を得。大菩薩に望むれば、これを少善と 名づくと。輪廻の業に望むれば、これを名づけて大となす。このゆゑに、二経 の義、違害せず。 【74】 第四に尋常の念相を明かさば、これに多種あり。大きに分ちて四となす。 一には定業、いはく、坐禅入定して仏を観ずるなり。二には散業、いはく、 P--1131 行住坐臥に、散心に仏を念ずるなり。三には有相の業、いはく、あるいは相 好を観じ、あるいは名号を念じて、ひとへに穢土を厭ひて、もつぱらにして浄 土を求むるなり。四には無相の業、いはく、仏を称念し浄土を欣求すといへど も、しかも身土すなはち畢竟空にして、幻のごとく夢のごとし、体に即して空 なり、空なりといへども有なり、非有非空なりと観じて、この無二を通達して、 真に第一義に入るなり。これを無相の業と名づく。これ最上の三昧なり。ゆゑ に『双巻経』(大経・下)に、阿弥陀仏ののたまはく、   「諸法の性は、一切空・無我なりと通達すれども、   もつぱら浄仏土を求めて、かならずかくのごとき刹を成ぜん」と。 また『止観』の常行三昧のなかに、三段の文あり。つぶさには上の別行のな かに引くがごとし。  問ふ。定散の念仏は、ともに往生するや。答ふ。慇重の心をもつて念ずれば、 往生せずといふことなし。ゆゑに感師(懐感)、念仏の差別を説きていはく(群 疑論・意)、「あるいは深、あるいは浅、定に通じ散に通ず。定といふはすなは ち凡夫より十地に終る。善財童子の、功徳雲比丘の所にして念仏三昧を請け学 P--1132 びしごとき、これすなはち甚深の法なり。散といふはすなはち一切衆生の、も しは行、もしは坐、一切の時処にみな仏を念ずることを得て、諸務も妨げず、 乃至、命終にまたその行を成ずるなり」と。{以上}  問ふ。有相・無相の業は、ともに往生することを得るや。答ふ。綽和尚(道 綽)のいはく(安楽集・上)、「もし始学のものは、いまだ相を破することあたは ず、ただよく相によりて専至せば、往生せずといふことなし。疑ふべからず」 と。また感和尚(懐感)のいはく(群疑論)、「往生すでに品類差殊なれば、修因 また浅深ありて各別なり。ただいふべからず、ただ無所得を修して往生するこ とを得、有所得の心は生ずることを得ず」と。  問ふ。もししからば、いかんぞ『仏蔵経』(意)に説かく、「もし比丘ありて、 余の比丘に教へて、〈なんぢまさに仏を念じ、法を念じ、僧を念じ、戒を念じ、 施を念じ、天を念ずべし。かくのごとき等の思惟をもつて、涅槃の安楽寂滅な ることを観じ、ただ涅槃の畢竟清浄なることを愛せよ〉と。かくのごとく教 ふるものを名づけて邪教となし、悪知識と名づく。この人を名づけて、われを 誹謗して外道を助くとなす。かくのごとき悪人は、われすなはち一飲の水をも P--1133 受くることを聴さず」と。またのたまはく(仏蔵経)、「むしろ五逆重悪を成就 すとも、我見・衆生見・寿見・命見・陰入界見等をば成就せざれ」と。{以上略抄} 答ふ。感師(懐感)釈していはく(群疑論・意)、「ある聖教(無上依経)にまた のたまはく、〈むしろ我見を起すこと須弥山のごとくにすとも、空見を起すこ と芥子ばかりのごとくもせざれ〉と。かくのごとき等の諸大乗経に、有を訶 し空を訶し、大を讃じ小を讃ずること、ならびにすなはち機に逗じて不同なり。 またある『経』(大集経)にのたまはく、〈いま阿弥陀如来・応・正等覚は、つ ぶさにかくのごとき三十二相・八十随形好まします。身色・光明は聚金の融け たるがごとし。かくのごとくおもひて、乃至、かの如来を念ぜず。またかの如 来を得ざれ、すでにかくのごとくして次第に空三昧を得〉と。また『観仏三昧 経』にのたまはく、〈如来にまた法身・十力・無畏・三昧・解脱、もろもろの 神通の事まします。かくのごとき妙処は、なんぢ凡夫の覚るところの境界にあ らず。ただまさに深心にして随喜の想を起すべし。この想を起しをはりて、ま さにまた念を繋けて仏の功徳を念ずべし〉と。ゆゑに知りぬ、初学の輩はかの 色身を観じ、後学の徒は法身を念ずるなり。ゆゑに、〈かくのごとくして次第 P--1134 に空三昧を得〉といへり。まさにすべからくよく経の意を会すべし、毀讃の心 をなすことなかれ。妙に知る、大聖(釈尊)は巧みに根機に逗じたまへること を」と。[以上、『観仏経』の第九に、仏の一毛を観じ、乃至、具足の色身を観ずること を説きをはりて、引くところの十力・無畏・三昧等の文あり。]  問ふ。念仏の行は、九品のなかにおいては、これいづれの品の摂ぞ。答ふ。 もし説のごとく行ずるは、理、上上に当れり。かくのごとくして、その勝劣 に随ひて九品を分つべし。しかも『経』(観経)の所説の九品の行業は、これ 一端を示すなり。理、実には無量なり。  問ふ。もし定散ともに往生することを得るがごとく、また現身にともに仏を 見たてまつるとせんや。答ふ。経論に多く、「三昧成就して、すなはち仏を見 たてまつることを得」と説けり。あきらかに知りぬ、散業は見たてまつること を得べからずといふことを。ただ別縁をば除く。  問ふ。有相・無相の観、ともに仏を見たてまつることを得るや。答ふ。無相 の、仏を見たてまつることは、理疑はざるにあり。その有相の観も、あるいは また仏を見たてまつる。ゆゑに『観経』等に色相を観ずることを勧めたり。 P--1135  問ふ。もし有相観また仏を見たてまつらば、いかんぞ『華厳経』の偈に、   「凡夫の諸法を見ること、ただ相に随ひて転ず。   法の無相を了せず、これをもつて仏を見たてまつらざるなり。   見ることあるをばすなはち垢となす。これはすなはちいまだ見るとなさず。   諸見を遠離し、かくのごとくしてすなはち仏を見たてまつる」 とのたまひ、また(同)、   「一切の法は自性無所有なりと了知する、   かくのごとく法性を解すれば、すなはち盧舎那を見たてまつる」 とのたまひ、また『金剛経』に、   「もし色をもつてわれを見、音声をもつてわれを求むるは、   この人は邪道を行じて、如来を見たてまつることあたはず」 とのたまへるや。答ふ。『要決』(西方要決)に通じていはく、「大師(釈尊) の、教を説きたまふことは、義に多門あり。おのおの時機に称ひ、等しくして 差異なし。〈般若経〉はおのづからこれ一門なり。『弥陀』等の経もまた一理 なりとなす。なんとならば、一切の諸仏にならびに三身まします。法仏には形 P--1136 体なく、色・声なし。まことに二乗および小菩薩の、三身不異なりと説きたま ふを聞きて、すなはち同じく色・声ありと謂ひて、ただ化身の色相を見て、つ ひに法身もまたしかなりと執するがためのゆゑに、説きて邪となす。『弥陀経』 等に、仏の名を念じ、相を観じ、浄土に生るることを求めよと勧めたることは、 ただ凡夫の障重くして、法身の幽微にして、法体縁ずること難きをもつて、し ばらく仏を念じ、形を観じ、礼讃せよと教へたまふなり」と。{略抄}  問ふ。凡夫の行者は、つとめて修習すといへども、心純浄ならず。なんぞた やすく仏を見ん。答ふ。衆縁合して見るなり。ただ自力のみにはあらじ。『般 舟経』に三の縁あり。上の九十日の行に引くところの『止観』の文のごとし。  問ふ。いくばくの因縁をもつてか、かの国に生るることを得る。答ふ。経に よりてこれを案ずるに、四の因縁を具す。一は自善根の因力、二は自願求の因 力、三は阿弥陀の本願の縁、四は衆聖助念の縁なり。[釈迦の護助は『平等覚経』 に出でたり。六方の仏の護念は『小経』に出でたり。山海恵菩薩等の護持は『十往生 経』に出でたり。] 【75】 第五に臨終の念相を明かさば、問ふ、下下品の人、臨終に十念して、す P--1137 なはち往生することを得。いふところの十念は、なんらの念ぞや。答ふ。綽和 尚(道綽)のいはく(安楽集・上)、「ただ阿弥陀仏の、もしは総相、もしは別相 を憶念して、所縁に随ひて観じ、十念を経て他の念想間雑することなき、これ を十念と名づく。また十念相続といふは、これ聖者の一の数の名のみ。ただよ く念を積み、思を凝らして、他の事を縁ぜざれば、すなはち業道成弁す。また いまだ労はしくこれが頭数をしも記せず。またいはく、もし久行の人の念は、 多くこれによるべし。もし始行の人の念は、数を記するもまた好し。これまた 聖教によれり」と。{以上}あるがいはく、「一心に〈南無阿弥陀仏〉と称念し て、この六字を経るあひだを一念と名づく」と。  問ふ。『弥勒所問経』の十念往生は、かの一々の念、深広なり。いかんぞ、 いま十声仏を念じて往生を得といふや。答ふ。諸師の所釈、不同なり。寂法師 (義寂)のいはく、「これは、心をもつぱらにして仏の名を称する時に、自然 にかくのごとき十を具足すと説くなり。かならずしも一々に、別に慈等を縁ず るにはあらず。またかの慈等を数へて十となすにはあらず。いかんぞ、別に縁 ぜざるに、しかも十を具足するとならば、戒を受けんと欲して三帰を称する時 P--1138 に、別に離殺等の事を縁ぜずといへども、しかもよくつぶさに離殺等の戒を得 るがごとし。まさに知るべし、このなかの道理もまたしかなり。また十念を具 足して〈南無阿弥陀仏〉と称すべしといふは、いはく、よく慈等の十念を具足 して〈南無仏〉と称するなり。もしよくかくのごとくすれば、称念するところ に随ひて、もしは一称、もしは多称、みな往生することを得」と。感法師(懐 感)のいはく(群疑論)、「おのおのこれ聖教にして、たがひに往生浄土の法 門を説けば、みな浄業を成ず。なにによりてか、かれをもつて是となし、これ を斥けて非といはん。ただしみづから経を解らず、またすなはちもろもろの学 者を惑はす」と。迦才師のいはく(浄土論)、「この十念は、現在の時になすな り。『観経』のなかの十念は、命終の時に臨みてなすなり」と。{以上}意、感 師(懐感)に同じ。  問ふ。『双巻経』(大経・下意)にのたまはく、「乃至一念するに、往生する ことを得」と。これ十念と、いかんが乖角せる。答ふ。感師のいはく(群疑論・ 意)、「極悪業のものは十を満てて生ずることを得、余のものは、乃至一念し てもまた生ず」と。 P--1139  問ふ。生れてよりこのかた、もろもろの悪を作りて一善をも修せざるもの、 命終の時に臨みてわづかに十声念ずるに、なんぞよく罪を滅して、永く三界 を出でて、すなはち浄土に生れん。答ふ。『那先比丘問仏経』(意)にのたまふ がごとし。「時に弥蘭王ありて、羅漢那先比丘に問ひていはく、〈人、世間に ありて悪を作ること百歳に至るまです。死の時に臨みて仏を念ぜば、死して後 に天に生るとは、われこの説を信ぜず〉と。またいはく、〈一の生命を殺さ ば、死して泥梨のなかに入るとは、われまた信ぜず〉と。比丘、王に問はく、 〈もし人、小さき石を持ちて、水のなかに置在かば、石は浮ぶや没むや〉と。 王のいはく、〈石没む〉と。那先のいはく、〈もしいま、百丈の大きなる石を 持ちて、船の上に置在かば、没しなんやいなや〉と。王のいはく、〈没まじ〉 と。那先のいはく、〈船のなかの百丈の大きなる石は、船によりて没するこ とを得ず。人、本の悪ありといへども、一時も仏を念ずれば、泥梨に没せずし てすなはち天上に生るること、なんぞ信ぜざらんや。その小さき石の没すると いふは、人の悪を作り、経法を知らずして、死して後にすなはち泥梨に入るが ごとし。なんぞ信ぜざらんや〉と。王のいはく、〈善きかな、善きかな〉と。 P--1140 比丘のいはく、〈両の人ともに死して、一人は第七の梵天に生れ、一人は&M028367;賓 国に生るるがごとき、この二人は、遠近異なりといへども、死すればすなはち 一時に到る。一双の飛鳥ありて、一は高き樹の上にして止り、一は卑き樹の上 に止らんに、両の鳥一時にともに飛ぶに、その影ともに到るがごときのみ。愚 人のごときは悪を作りて殃を得ること大なり、智人は悪を作りても殃を得るこ と小なるがごとし。焼けたる鉄を地に在けるを、一人は焼けたりと知れり、一 人は知らずして、両の人ともに取るに、しかも知らざるものは手を爛るること 大にして、知れるものは少し壊るるがごとし。悪を作ることもまたしかなり。 愚者はみづから悔ゆることあたはざるがゆゑに、殃を得ること大なり。智者は 悪を作れども不当なりと知るがゆゑに、日々にみづから悔ゆることをなせば、 その罪小なり〉」と。{以上}十念にもろもろの罪を滅して、仏の悲願の船に乗り て、須臾に往生することを得ることも、その理またしかるべし。また『十疑』 に釈していはく、「いま三種の道理をもつて校量するに、軽重は不定なり。 時節の久近・多少には在らず。いかなるをか三となす。一には心に在り、二に は縁に在り、三には決定に在るなり。〈心に在り〉といふは、罪を造る時はみ P--1141 づからの虚妄顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、善知識に従ひて阿弥陀仏の 真実の功徳名号を説くを聞く心より生ず。一は虚、一は実なり。あにあひ比ぶ ることを得んや。たとへば、万年の暗き室に日の光しばらくも至りぬれば、し かも暗たちまちに除こるがごとし。あに久しきよりこのかたの暗といひて、あ へて滅せざることあらんや。〈縁に在り〉といふは、罪を造る時には、虚妄痴 暗の心の、虚妄の境界を縁ずる顛倒の心より生ずるも、念仏の心は、仏の清浄 真実の功徳名号を聞きて、無上菩提を縁ずる心より生ず。一は真、一は偽なり。 あにあひ比ぶることを得んや。たとへば、人ありて毒の箭に中てられて、箭深 く、毒&M024438;ましくて、肌を傷り、骨に致るときに、一たび滅除薬の鼓の声を聞け ば、すなはち毒の箭除こるがごとし。あに深毒なるをもつてあへて出でざらん や。〈決定に在り〉といふは、罪を造る時は有間心・有後心をもつてす。仏を 念ずる時は無間心・無後心をもつてし、つひにすなはち命を捨つるまで善心猛 利なり。ここをもつてすなはち生ず。たとへば十囲の索は千夫も制せざれども、 童子剣を揮ひて須臾に両段するがごとし。また千年積める草に、大きさ豆ばか りの火をもつてこれを焚くに、小時にすなはち尽くるがごとし。また人ありて、 P--1142 一生よりこのかた、十善業を修して天に生るることを得べきに、臨終の時に一 念の決定の邪見を起さば、すなはち阿鼻地獄に堕するがごとし。悪業の虚妄な るすら猛利なるをもつてのゆゑに、なほよく一生の善業を排ひて悪道に堕せし む。あにいはんや、臨終に猛利の心に仏を念ずる、真実無間の善業をや。無始 の悪業を排ふことあたはずして、浄土に生るることを得ずといはば、この処あ ることなからん」と。{以上}また『安楽集』(上)に、七の喩へをもつてこの義を 顕せり。「一には少火の喩へ、前のごとし。二には、躄なるものも他の船に寄 載すれば、風帆の勢ひによりて一日に千里に至る。三には、貧人、一端の物を 獲てもつて王に貢るに、王慶びて重く賞するに、しばらくのあひだに、富貴、 望みに盈つ。四には、劣夫も、もし輪王の行に従へば、すなはち虚空に乗じ て、飛騰自在なり。五には十囲の索の喩へ、前のごとし。六には、鴆鳥水に入 れば魚蚌ことごとく斃ぬ。みな犀角をもつてこれに触るれば、死したるもの還 りて活る。七には、黄鵠、〈子安子安〉と喚べば、還りて活る。あに墳下の千 齢決めて甦るべきことなしといふことを得べけんや。一切の万法にみな自力・ 他力、自摂・他摂ありて、千開万閉無量無辺なり。あに有礙の識をもつて、か P--1143 の無礙の法を疑ふことを得んや。また五不思議のなかには仏法もつとも不可思 議なり。あに三界の繋業をもつて重しとなし、かの少時の念法を疑ひて軽しと なさんや」と。{以上略抄}いまこれに加へていはく、一には、栴檀の樹出成する時 に、よく四十由旬の伊蘭の林を変じて、あまねくみな香美ならしむ。二には、 獅子の筋を用ゐて、もつて琴の絃となせば、音声一たび奏するに、一切の余の 絃、ことごとくみな断壊しぬ。三には、一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて 金となす。四には、金剛堅固なりといへども、&M028450;羊の角をもつてこれを扣けば、 すなはち灌然として氷のごとく&M017323;けぬ。[以上、滅罪の譬へ。]五には、雪山に草あ り、名づけて忍辱となす。牛もし食すれば、すなはち醍醐を得。六には、沙訶 陀薬において、ただ見ることあるものは、寿を得ること無量なり。乃至、念ず るものは宿命智を得。七には、孔雀、雷の声を聞きてすなはち身あることを 得。八には、尸利沙、昴星を見てすなはち菓実を出生す。[以上、生善の譬へ。] 九には、住水宝をもつてその身に瓔珞とすれば、深き水のなかに入れども、し かも没み溺せず。十には、沙礫少なしといへども、なほ浮ぶことあたはず。磐 石大なりといへども、船に寄すればよく浮ぶ。[以上、総の譬へ。]諸法の力用、 P--1144 思ひがたきことかくのごとし。念仏の功力、これに准へて疑ふことなかれ。  問ふ。臨終の心念は、その力いくばくなればか、よく大事を成ずる。答ふ。 その力、百年の業に勝れたり。ゆゑに『大論』(大智度論)にいはく、「この心 は時のあひだ少なしといへども、しかも心力猛利なること、火のごとく毒のご とくなれば、少なしといへどもよく大事を成ず。これ死なんとする時の心も、 決定して勇健なるがゆゑに、百歳の行力に勝れたり。この後心を名づけて大心 となす。身およびもろもろの根を捨つるをもつて、事急なるがゆゑに。人の、 陣に入るに身命を惜しまざるを、名づけて健となすがごとし。阿羅漢のこの身 の着を捨つるがゆゑに阿羅漢の道を得るがごとし」と。{以上}これによりて『安 楽集』(上)にいはく、「一切衆生、臨終の時には、刀風形を解き、死苦来り逼 むるに、大怖畏を生じて、乃至、すなはち往生することを得」と。  問ふ。深き観念の力、罪を滅することはしかるべし。いかんぞ、仏号を称念 するに無量の罪を滅する。もししからば、指をもつて月を指すに、この指よく 闇を破すべし。答ふ。綽和尚(道綽)釈していはく(安楽集・上意)、「諸法は万 差なり。一概すべからず。おのづから名の法に即するあり。おのづから名の法 P--1145 に異するあり。名の法に即するといふは、諸仏・菩薩の名号、禁呪の音辞、修 多羅の章句等のごとき、これなり。禁呪の辞に、〈日出東方乍赤乍黄〉といは んに、たとひ酉亥に禁を行ずるも、患へるものまた愈ゆるがごとし。また人あ りて、狗に噛はるることを被るに、虎の骨を炙りてこれを熨せば、患へるもの すなはち愈ゆるがごとし。もし時に骨なくは、よく掌を&M012961;げてこれを磨りて、 口のなかに喚びて、〈虎来虎来〉といへば、患へるものまた愈えぬ。あるいは また人ありて、脚転筋を患はんに、木瓜の杖を炙りてこれを熨せば、患へるも のすなはち愈えぬ。もし木瓜なければ、手を炙りてこれを磨り、口に〈木瓜〉 と喚べば、患へるものまた愈えぬ。名の法に異するといふは、指をもつて月を 指すがごとき、これなり」と。{以上}『要決』(西方要決)にいはく、「諸仏は、 願行をもつてこの果名を成ずれば、ただよく号を念ずるに、つぶさに衆徳を苞 ねたり。ゆゑに大善を成ず」と。[以上、かの文に『浄名』(維摩経)・『成実』の文 を引けり。つぶさには上の助念方法のごとし。]  問ふ。もし下下品の五逆罪を造れるもの、十たび仏を念ずるによりて往生す ることを得といはば、いかんぞ、『仏蔵経』の第三にのたまはく、「大荘厳仏 P--1146 の滅後に四の悪比丘ありき。第一義・無所有・畢竟空の法を捨てて、外道尼健 子の論を貪楽しき。この人、命終して阿鼻地獄に堕ちて、仰ぎて臥し、伏き て臥し、左脇にして臥し、右脇にして臥すこと、おのおの九百万億歳、熱鉄の 上にして焼き燃かれ、&M019120;がれ爛れき。死しをはりて、さらに灰地獄・大灰地 獄・等活地獄・黒縄地獄に生れて、みな上のごとき歳数、苦を受く。黒縄より 死しては還りて阿鼻獄に生る。かの、家と出家にして親近せしもの、ならびに もろもろの檀越、おほよそ六百四万億の人、この四の師とともに生じともに死 して、大地獄にありてもろもろの焼煮を受けき。劫尽きては他方の地獄に転生 し、劫成じては還りてこの間の地獄に生る。久々にして地獄を免れて人中に生 れては、五百世、生れてより盲なり。後に一切明王仏に値ひて出家して、十万 億歳、勤修精進すること頭燃を救ふがごとくせしかども、順忍すら得ざりき。 いはんや、道果を得んや。命終しては還りて阿鼻地獄に生れにき。後に九十 九億の仏に値ひても、順忍すら得ざりき。なにをもつてのゆゑに。仏の、深法 を説きたまひしに、この人信ぜずして、破壊し違逆し、賢聖・持戒の比丘を破 毀して、その過悪を出せる破法の因縁もつて、法としてまさにしかるべし」と。 P--1147 [以上、略して抄す。「四の比丘」とは苦岸比丘・薩和多比丘・将去比丘・跋難陀比丘なり。] 十万億歳、頭燃を救ふがごとくせしも、なほ罪を滅せずして、還りて地獄に生 じき。いかんぞ、仏を念ずること一声・十声してすなはち罪を滅して、浄土に 往生することを得るや。答ふ。感師(懐感)釈していはく(群疑論)、「仏を念 ずるは、五の縁によるがゆゑに罪を滅す。一には、大乗の心を発す縁。二には、 浄土に生ぜんと願ずる縁。小乗の人は、十方の仏ましますと信ぜざるがゆゑ に。三には、阿弥陀仏の本願の縁。四には、念仏の功徳の縁。かの比丘は、た だ四念処の観をなせしがゆゑに。五には、仏の威力をもつて加持したまふ縁な り。このゆゑに、罪を滅して浄土に生ずることを得。かの小乗の人は、しか らざりき。ゆゑに罪を滅することあたはず」と。{略抄}  問ふ。もししからば、いかんぞ、『双巻経』(大経・上)に十念往生を説きて、 「ただ五逆と誹謗正法をば除く」とのたまへる。答ふ。智憬等の諸師のいはく、 「もしただ五逆を造れるものは、十念によるがゆゑに生ずることを得。もし逆 罪をも造り、また法をも謗れるものは、往生することを得ず」と。あるがいは く、「五逆の不定業を造れるものは往生することを得るも、五逆の定業を造れ P--1148 るものは往生せず」と。かくのごとく十五家の釈あり。感法師(懐感)、諸師の 釈を用ゐずして、みづからいはく(群疑論)、「もし逆を造らざる人は、念の多 少を論ずるにあらず、一声・十声ともに浄土に生る。もし逆を造れる人は、か ならずすべからく十を満つべし。一をも闕けつれば生ぜず。ゆゑに〈除く〉と いふなり」と。{以上}いま試みに釈を加へば、余処にはあまねく往生の種類を顕 すも、本願にはただ定生の人のみを挙ぐ。ゆゑにいへり、「しからずは、正 覚を取らじ」と。余人の十念はさだめて往生することを得、逆者の一念はさだ めて生ずることあたはず。逆の十と余の一とは、みなこれ不定なり。ゆゑに、 願(第十八願)にはただ余人の十念を挙げて、余処には、兼ねて逆の十と余の一 とを取れり。この義いまだ決せず。別に思択すべし。  問ふ。逆者の十念、なんがゆゑぞ不定なる。答ふ。宿善の有無によりて念力 別なるがゆゑに。また臨終と尋常と、念ずる時別なるがゆゑに。  問ふ。五逆はこれ順生の業なり。報・時ともに定まれり。いかんぞ滅する ことを得ん。答ふ。感師(懐感)、これを釈していはく(群疑論)、「九部の不了 の教のなかには、もろもろの不信業果の凡夫のために、密意をもつて説きて P--1149 〈定報の業あり〉といふ。もろもろの大乗の了義の教のなかには、〈一切の業 ことごとくみな不定なり〉と説きたまふ。『涅槃経』の第十八巻にのたまふが ごとし。耆婆、阿闍世王のために懺悔の法を説くに、〈罪滅することを得たり〉 と。またのたまはく(同)、〈臣、仏の説を聞くに、《一の善心を修すれば百種 の悪を破す》と。少しき毒薬のよく衆生を害するがごとし。少善もまたしかり。 よく大悪を破す〉と。また三十一にのたまはく(同)、〈善男子、もろもろの衆 生ありて、業縁のなかにおいて心軽んじて信ぜず。かれを度せんがためのゆゑ にかくのごとき説をなしたまふ。善男子、一切の作業は軽あり重あり。軽重 の二業にまたおのおの二あり。一には決定、二には不決定なり〉と。またのた まはく(同)、〈あるいは重業の、軽となし得べきことあり。あるいは軽業の、 重となし得べきことあり。有智の人は、智慧の力をもつて、よく地獄の極重 の業をして現世に軽く受せしむるも、愚痴の人は、現世の軽業を地獄に重く受 く〉と。阿闍世王は罪を懺悔しをはりて地獄に入らず。鴦掘摩羅は阿羅漢を得 たり。『瑜伽論』に説かく、〈いまだ解脱を得ざるを、決定業と説き、すでに 解脱を得たるを、不定業と名づく〉と。かくのごとき等のもろもろの大乗経 P--1150 論には、五逆罪等を説きてみな不定と名づけて、ことごとく消滅することを 得」と。[転重軽受の相は、つぶさに『放鉢経』に出でたり。]  問ふ。引くところの文にのたまはく、「智者は重きを転じて軽くして受す」 と。下品生の人は、ただ十念しをはりてすなはち浄土に生るるは、いづれの処 にしてか軽受する。答ふ。『双巻経』(大経・下)に、かの土の胎生のものを説 きてのたまはく、「五百歳のうちに三宝を見たてまつらず、供養したてまつり て、もろもろの善本を修することを得ず。しかもこれをもつて苦となす。余の 楽ありといへども、なほかの処をば楽はず」と。{以上}これに准ずるに、七七 日・六劫・十二劫、仏を見ず、法を聞かざる等をもつて、軽受の苦となすべき のみ。  問ふ。もし臨終に一たび仏の名を念ずるに、よく八十億劫のもろもろの罪を 滅するがごとし、尋常の行者もまたしかるべきや。答ふ。臨終の心、力は強く してよく無量の罪を滅す。尋常に名を称するは、かれがごとくなるべからず。 しかも、もし観念成ずれば、また無量の罪を滅す。もしただ名を称するのみな らば、心の浅深に随ひてその利益を得ること、差別あるべし。つぶさには前の P--1151 利益門のごとし。  問ふ。なにをもつてか、浅心の念仏もまた利益ありとは知ることを得る。答 ふ。『首楞厳三昧経』にのたまはく、「大薬王あり、名を滅除といふ。もし闘 戦の時に、もつて鼓に塗りつれば、もろもろの、箭に射られ刀・矛に傷られた るもの、鼓の声を聞くことを得つれば、箭出でて毒除こるがごとし。かくのご とく、菩薩の首楞厳三昧に住する時には、名を聞くことあるものは、貪・恚・ 痴の箭自然に抜け出でて、もろもろの邪見の毒みなことごとく除滅し、一切の 煩悩また発動せず」と。[以上、諸法の真如実相を観じ、凡夫の法と仏法と不二なりと 見る、これを首楞厳三昧を修習すと名づく。]菩薩すでにしかり、いかにいはんや仏 をや。名を聞く、すでにしかり、いかにいはんや念ずるをや。これによりて知 りぬべし、たとひ浅心の念も利益虚しからず。 【76】 第六に粗心の妙果といふは、問ふ、もし菩提のために、仏において善を なすは、妙果を証得すといふこと、理かならずしかるべし。もし人天の果のた めに善根を修せば、いかんぞ。答ふ。あるいは染、あるいは浄、仏において善 を修せば、遠近ありといへどもかならず涅槃に至る。ゆゑに『大悲経』の第三 P--1152 に、仏、阿難に告げてのたまはく、「もし衆生ありて、生死三有の愛果に楽着 して、仏の福田において善根を種うるもの、かくのごとき言をなさく、〈この 善根をもつて、願はくはわれ般涅槃することなからん〉と。阿難、この人もし 涅槃せずといはば、この処あることなからん。阿難、この人、涅槃を楽求せず といへども、しかも仏所にしてもろもろの善根を種ゑたれば、われ説く、この 人はかならず涅槃を得ん」と。  問ふ。所作の業は願に随ひて果を感ず。なんぞ、世報を楽ふに出世の果を得 ん。答ふ。業果の理は、かならずしも一同ならず。もろもろの善業をもつて仏 道に回向するは、これすなはち作業なれば、心に随ひて転ず。鶏狗の業をもつ て天の楽を楽求するは、これすなはち悪見なれば、業をして転ぜしめず。この ゆゑに、仏においてもろもろの善業を修せば、意楽は異なりといへどもかなら ず涅槃に至る。ゆゑにかの『経』(大悲経)に譬へを挙げてのたまはく、「たと へば、長者の、時によりて種を良田のなかに下し、時に随ひて漑ぎ灌ぎて、つ ねによく護持せん。もしこの長者、余の時のうちに、かの田所に到りてかくの ごとき言をなさく、〈咄なるかな、種子。なんぢ種となることなかれ、生ずる P--1153 ことなかれ、長ずることなかれ〉と。しかも、かれ、種を種ゑつれば、かなら ず果をなすべし、果実なきにあらざらんがごとし」と。{取意略抄}  問ふ。かれ、いづれの時においてか般涅槃を得ん。答ふ。たとひ、久々に生 死に輪廻すといへども、善根亡ぜずしてかならず般涅槃を得。ゆゑにかの『経』 (大悲経)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈捕魚の師、魚を得んが ためのゆゑに、大きなる池の水にありて、鉤餌を安置して、魚をして呑み食は しめつ。魚呑食しをはりて、池のなかにありといへども、久しからずしてまさ に出づべきがごとし。{乃至}阿難、一切衆生、諸仏の所にして敬信を生ずること を得、もろもろの善根を種ゑ、布施を修行し、乃至、心を発して、一念の信を も得れば、また余の悪・不善業のために覆障せられて、地獄・畜生・餓鬼に堕 在すといへども、{乃至}諸仏世尊、仏眼をもつてこの衆生の発心の勝れたるを観 見したまふがゆゑに、地獄よりこれを抜きて出さしむ。すでに抜き出しをはり て、涅槃の岸に置きたまふ〉」と。  問ふ。かくのごとき『経』(同)の意は、敬信せるをもつてのゆゑに、つひ に涅槃を得るなり。もししからば、ただ一たび聞くは、涅槃の因にあらざるべ P--1154 し。すでにしからば、いかんぞ『華厳』の偈にのたまふ、   「もしもろもろの衆生ありて、いまだ菩提心を発さざれども、   一たび仏の名を聞くことを得れば、決定して菩提を成ず」と。 答ふ。諸法の因縁は不可思議なり。たとへば、孔雀の、雷震の声を聞きてすな はち身あることを得、また尸利沙果の、先より形質なけれども、昴星を見る時 に、果すなはち出生して、長さ五寸に足るがごとし。仏の名号によりて、す なはち仏因を結ぶことまたかくのごとし。この微因よりつひに大果を著す。か の尼&M019980;陀樹の、芥子ばかりの種より枝葉を生じて、あまねく五百両の車を覆 ふがごとし。浅近の世法すらなほ思議しがたし。いかにいはんや、出世の甚深 の因果をや。ただ信仰すべし。疑念すべからず。  問ふ。染心をもつて如来を縁ずるものもまた利益ありや。答ふ。『宝積経』 の第八に、密迹力士、寂意菩薩に告げていはく、「耆域医王、もろもろの薬を 合集して、もつて薬草を取りて童子の形を作る。端正殊妙にして、世の希有 なり。所作安諦にして、所有究竟し、殊異なること比びなし。往来し、周旋し、 住立し、安坐し、臥寐し、経行するに、欠漏するところなく、顕変するとこ P--1155 ろの業あり。あるいは大豪の国王・太子・大臣・百官・貴姓・長者ありて、耆 域医王の所に来到するに、薬の童子を視て、ともに歌ひ戯れて、その顔色を相 るに、病みな除こることを得て、すなはち安穏寂静にして、無欲なることを致 す。寂意、しばらく、その耆域医王の、世間を療治するに、その余の医師の及 ぶことあたはざるところを観ぜよ。かくのごとく、寂意、もし菩薩、法身を奉 行すれば、たとひ衆生の、婬・怒・痴盛りにして、男女・大小、欲想をもつて 慕楽し、すなはちともにあひ娯楽すれども、貪欲の塵労はことごとく休息する ことを得」と。[陰種諸入なしと信解し観察するを、すなはち「奉行法身」と名づく。] 奉行法身の菩薩すらなほしかり、いかにいはんや法身を証得せる仏をや。  問ふ。欲想をもつて縁ずるに、この利益あるがごとく、誹謗し悪厭するもま た益ありや。答ふ。すでに婬・怒・痴といへり。明らけし、ただ欲想のみには あらず。また『如来秘密蔵経』の下巻にのたまはく、「むしろ如来において不 善業をば起すとも、外道・邪見のものの所において供養を施作せざれ。なにを もつてのゆゑに。もし如来の所において不善業を起さば、まさに悔ゆる心あり て、究竟してかならず涅槃に至ることを得べし。外道の見に随ふは、まさに地 P--1156 獄・餓鬼・畜生に堕つべし」と。  問ふ。この文は、すなはち因果の道理に違せり。また衆生の妄心を増す。い かんぞ、悪心をもつて大涅槃楽を得んや。答ふ。悪心をもつてのゆゑに三悪道 に堕つ。一たび如来を縁ずるをもつてのゆゑにかならず涅槃に至る。このゆゑ に因果の道理に違せず。いはく、「かの衆生、地獄に堕する時に、仏において 信を生じ、追悔の心を生ず。これによりて、展転してかならず涅槃に至る」と。 [『大悲経』(意)に見えたり。]染心に如来を縁ずる利益すらなほかくのごとし。 いかにいはんや、浄心にして一たびも称せんをや。仏の大恩徳、これをもつて 知りぬべし。  問ふ。諸文に説くところの菩提・涅槃は、三乗のなかにおいて、これいづれ の果ぞ。答ふ。初めには機に随ひて三乗の果を得といへども、究竟してはかな らず無上の仏果に至る。『法華経』にのたまふがごとし。   「十方仏土のなかには、ただ一乗の法のみあり。   二もなくまた三もなし。仏の方便の説をば除く」と。 また『大経』(大般涅槃経)に、如来の決定の説義を明かしてのたまはく、「一 P--1157 切衆生はことごとく仏性あり。如来は常住にして変易あることなし」と。ま たのたまはく(大般涅槃経)、「一切衆生は、さだめて阿耨菩提を得るがゆゑに、 このゆゑに、われ、一切衆生はことごとく仏性ありと説く」と。またのたまは く(同)、「一切衆生はことごとくみな心あり。おほよそ心あるものは、さだめ てまさに阿耨菩提を成ずることを得べし」と。  問ふ。なんがゆゑぞ、諸文の所説不同なる。あるいは「一たび仏の名を聞か ば、さだめて菩提を成ず」と説く。あるいは「勤修すること、頭燃を救ふがご とくすべし」と説く。また『華厳経』の偈にのたまはく、   「人の、他の宝を数ふるに、みづから半銭の分なきがごとく、   法において修行せざるは、多く聞くともまたかくのごとし」と。 答ふ。もしすみやかに解脱せんと欲はば、勤めずは分なきがごとし。もし永劫 の因を期せば、一たび聞くともまた虚しからず。このゆゑに、諸文は、理、相 違せず。 【77】 第七に諸行の勝劣といふは、問ふ、往生の業のなかには念仏を最となす も、余の業のなかにおいてもまた最となすや。答ふ。余の行法のなかにおいて P--1158 も、これまた最勝なり。ゆゑに『観仏三昧経』に六種の譬へあり。「一にはい はく、〈仏、阿難に告げたまはく、《たとへば、長者の、まさに死なんとする こと久しからずして、もろもろの庫蔵をもつてその子に委付す。その子、得を はりて、意に随ひて遊戯す。たちまちに一時に、王難あるに値ひて、無量の衆 賊、蔵の物を競ひ取る。ただ一の金あり。すなはちこれ閻浮檀那紫金にして、 重さ十六両なり。金&M040447;の長短また十六寸なり。この金の一両の価は、余の宝の 百千万両に直る。すなはち穢らはしき物をもつて真金を纏ひ裹みて、泥団の なかに置きつ。もろもろの賊見をはりて、これ金と識らずして、脚をもつて践 みてしかも去りぬ。賊去りて後に、財主、金を得て、心大きに歓喜せんがごと し。念仏三昧もまたかくのごとし。まさにこれを密蔵すべし》〉と。二にはい はく、〈たとへば、貧人、王の宝印を執りて、逃げ走りて樹に上りぬ。六兵こ れを追ふに、貧人、見をはりてすなはち宝印を呑みつ。兵衆疾く至りて、樹を して倒僻せしむ。貧人、地に落ちて、身体散壊しぬれども、ただ金印はあるが ごとく、念仏の心印も壊れざること、またかくのごとし〉と。三にはいはく、 〈たとへば、長者の、まさに死なんとすること久しからずして、一の女子に告 P--1159 ぐらく、《われいま宝あり。宝のなかに上れたるものなり。なんぢ、この宝を 得て、密蔵して堅からしめよ。王をして知らしむることなかれ》と。女、父が 勅を受けて、摩尼珠およびもろもろの珍宝を持ちて、これを糞穢に蔵す。室家 の大小、みなまた知らず。世の飢饉に値ひて、如意珠を持ちて、語に随ひて、 すなはち百味飲食を雨らす。かくのごとくして、種々に意に随ひて宝を得るが ごとし。念仏三昧の堅心不動なることまたかくのごとし〉と。四にはいはく、 〈たとへば、大きに旱して雨を得ることあたはず。一の仙人ありて呪を誦す。 神通力のゆゑに、天より甘雨を降らし、地より涌泉を出すがごとし。念仏を得 たるものは善呪の人のごとし〉と。五にはいはく、〈たとへば、力士、しばし ば王法を犯して囹圄に幽閉せらるるに、逃げて海辺に到り、髻の明珠を解きて、 持ちて船師を雇ひ、かの岸に到りて、安穏にして懼れなきがごとし。念仏を行 ずるものは大力士のごとし。心王の鎖を挽れて、かの慧の岸に到る〉と。六に はいはく、〈たとへば、劫尽きて大地洞然するに、ただ金剛山のみ摧破すべか らずして、還りて本際に住するがごとく、念仏三昧もまたかくのごとし。この 定を行ずるものは、過去の仏の実際の海のなかに住す〉」と。{以上略抄}また『般舟 P--1160 経』の「問事品」に念仏三昧を説きてのたまはく、「つねにまさに習持し、つ ねにまさに守りて、また余の法に随はざるべし。もろもろの功徳のなかに最尊 第一なり」と。{以上}また不退転の位に至るに、難易の二の道あり。易行道とい ふはすなはちこれ念仏なり。ゆゑに『十住婆沙』の第三にいはく、「世間の道 に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しき がごとし。菩提の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あ るいは信方便の易行をもつて、疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}阿弥陀等の 仏および諸大菩薩、名を称して一心に念ずれば、また不退転を得」と。{以上}文 のなかに、過去・現在の一百余の仏、弥勒・金剛蔵・浄名・無尽意・跋陀婆 羅・文殊・妙音・師子吼・香象・常精進・観世音・勢至等の一百余の大菩薩 を挙げたり。そのなかに広く弥陀仏を讃ぜり。もろもろの行のなかにおいて、 ただ念仏の行のみ修しやすくして、上位を証す。知りぬ、これ最勝の行なりと いふことを。また『宝積経』の九十二にのたまはく、「もし菩薩ありて、多く 衆務を営み、七宝の塔を造ること、三千大千世界に遍満せんに、かくのごとき 菩薩は、われをして歓喜をなさしむることあたはず。またわれを供養し恭敬す P--1161 るにもあらず。もし菩薩ありて、波羅蜜相応の法において、乃至、一の四句の 偈を受持し、読誦し、修行して、人のために演説せん。この人は、すなはちわ れを供養しつとなす。なにをもつてのゆゑに。もろもろの仏の菩提は、多聞よ り生ず。衆務よりはしかも生ずることを得ず。{乃至}もし一閻浮提の、営事の菩 薩は、一の読誦・修行・演説の菩薩の所において、まさに親近し供養し承事す べし。もし一閻浮提の、読誦・修行・演説のもろもろの菩薩等は、一の勤修禅 定の菩薩において、またまさに親近し供養し承事すべし。かくのごとき善業を ば、如来随喜し、如来悦可したまふ。もし勤修智慧の菩薩において承事し供養 せば、まさに無量の福徳の聚を獲べし。なにをもつてのゆゑに。智慧の業は無 上最勝にして、一切の三界の所行に出過すればなり」と。{云々}『大集』の「月 蔵分」の偈にのたまはく、   「もし人、百億の諸仏の所にして、多くの歳数においてつねに供養せんに、   もしよく七日、闌若にありて、根を摂して定を得ば、福かれよりも多し。   {乃至}   閑静無為なるは仏の境界なり。かしこにおいてよく浄菩提を得。 P--1162   もし人、かの住禅のものを謗らば、これをもろもろの如来を毀謗すと名づ   く。   もし人、塔を破ること多百千、および百千の寺を焚焼せんに、   もし住禅のものを毀謗することあらば、その罪はなはだ多きこと、かれよ   り過ぎたり。   もし住禅のものに、飲食・衣服および湯薬を供養することあらば、この人   無量の罪を消滅して、また三悪道に堕せじ。   このゆゑにわれいまあまねくなんぢに告ぐ、仏道を成ぜんと欲はばつねに   禅にあれ。   もし阿蘭若に住することあたはずは、まさにかの人を供養すべし」と。{以上} 汎爾の禅定すら、なほすでにかくのごとし。いはんや、念仏三昧はこれ王三昧 なるをや。  問ふ。もし禅定の業は読誦・解義等に勝れたらば、いかんぞ、『法華経』の 「分別功徳品」に、八十万億那由他劫の所修の前五波羅蜜の功徳をもつて、『法 華経』を聞きて一念信解する功徳に校量して、百千万億分の一分なりとする。 P--1163 いかにいはんや、広く他のために説かんをや。答ふ。これらのもろもろの行に、 おのおの浅深あり。いはく、偏円の教、差別あるがゆゑに。もし当教にて論ぜ ば、勝劣は前のごとし。もし諸教を相対せば、偏教の禅定は円教の読誦事業に 及ばず。『大集』と『宝積』とは一教に約して論じ、『法華』の校量は偏円相 望す。このゆゑに諸文の義、相違せず。念仏三昧もまたかくのごとし。偏教の 三昧は当教に勝れたりとなす。円人の三昧はあまねく諸行に勝れたり。また定 に二あり。一は慧相応の定。これを最勝なりとなす。二は暗禅。いまだ勝れた りとなすべからず。念仏三昧はこれ初めの摂なるべし。 【78】 第八に信毀の因縁といふは、『般舟経』にのたまはく、「独り一仏の所 にして功徳を作るのみにあらず。もしは二、もしは三、もしは十においてせる にもあらず。ことごとく百仏の所にしてこの三昧を聞き、かへりて後世の時に この三昧を聞くものなり。経巻を書学し誦持して、最後に守ること一日一夜す れば、その福計るべからず。おのづから阿惟越致に致り、願ずるところのもの を得ん」と。  問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くと P--1164 いへども、信じ信ぜざるものある。答ふ。『無量清浄覚経』(四)にのたま はく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、 身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世 宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、 みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざ るなり」と。{略抄}また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、す でに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの 如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人 は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得と も、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}まさに知るべし、生死の因縁は 不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。烏豆聚 に一の緑き豆あらんがごとし。ただしかれ聞くといへどもしかも信解せず。こ れはすなはち薄徳の致すところなるのみ。  問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を 聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 P--1165 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。答ふ。この義、知りがたし。 試みにこれを案じていはく、衆生の善悪に四の位の別あり。一には、悪用偏増 なり。この位には法を聞くことなし。『法華』(意)にのたまふがごとし、「増 上慢の人、二百億劫つねに法を聞かず」と。二には、善用偏増なり。この位に はつねに法を聞く。地・住以上の大菩薩等のごときなり。三には、善悪の交際。 いはく、凡を捨てて聖に入らんとする時なり。この位のなかには、一類の人あ りて法を聞くことはなはだ難し。たまたま聞きつればすなはち悟る。常啼菩薩、 須達が老女等のごとし。あるいは魔のために障へられ、あるいはみづからの惑 ひのために障へられて、聞見を隔つといへども、久しからずしてすなはち悟る。 四には、善悪容預なり。この位には、善悪は同じくこれ生死流転の法なるがゆ ゑに、多く法を聞くこと難し。悪増にあらざるがゆゑに、一向に無聞なるにあ らず。交際するにあらざるがゆゑに、聞くといへども巨益なし。六趣・四生に 蠢々たる類、これなり。ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、 凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。後賢、取捨せよ。  問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。答ふ。『称揚諸仏功徳経』の下巻 P--1166 にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざること ありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろ もろの苦を受くべし」と。  問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。答ふ。ま つたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、 また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、「もし衆 生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じ て、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、こ のもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習 して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、 寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見た てまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏 の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の 悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下 P--1167 輩の人となせり。しかも諸師の所釈、繁く出すことあたはず。  問ふ。仏智と等いふは、その相いかんぞ。答ふ。憬興師は、『仏地経』の五 法をもつて、いま五智と名づけたり。いはく、清浄法界を仏智と名づけ、大 円鏡等の四をもつて、次いでのごとく不思議等の四に当つるなり。玄一師は、 仏智は前のごとくなるも、後の四智をもつて、逆に成事智等の四に対するなり。 余の異解あるも、これを煩はしくすべからず。 【79】 第九に助道の資縁といふは、問ふ、凡夫の行人はかならず衣食を須ゐる。 これ小縁なりといへども、よく大事を弁ず。裸・&M044236;にして安からずは、道法い づくんぞあらん。答ふ。行者に二あり。いはく、家と出家となり。その在家の 人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げん。『木&M015381;経』の 瑠璃王の行のごとし。その出家の人にまた三類あり。もし上根のものは、草 座・鹿皮、一菜・一菓なり。雪山の大士のごとき、これなり。もし中根のもの は、つねに乞食・糞掃衣なり。もし下根のものは、檀越の親施なり。ただ少し 得るところあれば、すなはち足るを知る。つぶさには『止観』の第四のごとし。 いはんやまた、もし仏弟子にして、もつぱら正道を修して、貪求するところな P--1168 きものは、自然に資縁を具す。『大論』(大智度論)にいふがごとし。「たとへ ば、比丘の貪求するものは供養を得ず、貪求するところなきはすなはち乏しく 短なきところなきがごとく、心もまたかくのごとし。もし分別して相を取れば、 すなはち実法を得ず」と。また『大集』の「月蔵分」のなかに、欲界の六天・ 日月星宿・天竜八部、おのおの仏前にして誓願を発してのたまはく、「もし 仏の声聞の弟子にして、法に住し、法に順じ、三業相応して修行するものをば、 われらみなともに護持し養育し、所須を供給して、乏しきところなからしめん。 もしまた世尊の声聞の弟子にして、積聚するところなからんをば護持し養育せ ん」と。またのたまはく(大集経)、「もし世尊の声聞の弟子にして、積聚に住 し、乃至、三業と法と相応せざるものをば、またまさに棄捨すべし、また養育 せじ」と。  問ふ。凡夫はかならずしも三業相応せず。もし欠漏あらば、依怙なかるべし。 答ふ。かくのごとき問難は、これすなはち懈怠にして道心なきものの致すとこ ろなり。もしまことに菩提を求め、浄土を欣ふものは、むしろ身命をば捨つと も、あに禁戒を破らんや。一世の勤労をもつて、永劫の妙果を期すべし。いは P--1169 んやまた、たとひ戒を破るといへどもその分なきにあらず。同経に、仏ののた まふがごとし。「〈もし衆生ありて、わがために出家して、鬚髪を剃除し袈裟 を被服せば、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに涅槃の印のた めに印せられたり。もしまた出家して、戒を持たざるものを、非法をもつて悩 乱をなし、罵辱し毀&M035344;し、手に刀杖をもつて打ち縛り斫き截りて、もしは衣鉢 を奪ひ、および種々の資生の具を奪ふことあるものは、この人はすなはち三世 の諸仏の真実の報身を壊り、すなはち一切の天・人の眼目を挑るなり。この人 は、諸仏の所有の正法、三宝の種を隠没せんと欲するがためのゆゑに、もろも ろの天・人をして、利益を得ずして地獄に堕せしめんがゆゑに、三悪道を増長 し盈満せしむるがためのゆゑに〉と。{云々}その時に、また一切の天・竜、乃至、 一切の迦&M003302;富単那・人・非人等ありて、みなことごとく合掌して、かくのごと き言をなさく、〈われら、仏の一切の声聞の弟子において、乃至、もしはまた 禁戒を持せずとも、鬚髪を剃除し袈裟の片を着たるものをば、師長の想をなし て護持し養育して、もろもろの所須を与へて、乏少なることなからしめん。も し余の天・竜、乃至、迦&M003302;富単那等の、その悩乱をなし、乃至、悪心にして眼 P--1170 をもつてこれを視ば、われらことごとくともに、かの天・竜・富単那等の、所 有のもろもろの相をして欠減し醜陋ならしむ。かれをして、またわれらととも に住しともに食することを得ざらしむ。また同処にして戯笑することを得じ。 かくのごとくにして擯罰せん〉」と。{以上取意}またのたまはく(大集経)、「その時 に、世尊、上首弥勒および賢劫のうちの一切の菩薩摩訶薩に告げてのたまはく、 〈もろもろの善男子、われ、昔、菩薩の道を行ぜし時に、かつて過去の諸仏如 来においてこの供養をなし、この善根をもつてわがために三菩提の因となせり。 われ、いまもろもろの衆生を憐愍するがゆゑに、この果報をもつて分ちて三分 となし、一分は留めてみづから受け、第二の分をば、わが滅後において、禅解 脱三昧と堅固に相応する声聞に与へて、乏しきところなからしめ、第三の分を ば、かの破戒にして、経典を読誦し、声聞に相応して、正法・像法に、頭を剃 り袈裟を着たるものに与へて、乏しきところなからしめん。弥勒、われ、いま また三業相応のもろもろの声聞衆、比丘・比丘尼、優婆塞・優婆夷をもつて、 なんぢが手に寄付す。乏しく少なく孤独にして終らしむることなかれ。および、 正法・像法に、禁戒を毀破して、袈裟を着たるものをも、なんぢが手に寄付す。 P--1171 かれらをして、もろもろの資具において、乏少にして終らしむることなかれ。 また旃陀羅王ありて、ともにあひ悩害し、身心に苦を受けしむることなかれ。 われ、いままたかのもろもろの施主をもつて、なんぢが手に寄付す〉」と。{以上} 破戒すらなほしかり。いかにいはんや、持戒をや。声聞すらなほしかなり。い かにいはんや、大心を発してまことに念仏せんをや。  問ふ。もし破戒の人もまた天・竜のために護念せられなば、いかんぞ『梵網 経』(意)に、「五千の鬼神、破戒の比丘の跡を払ふ」とのたまひ、『涅槃経』 (意)に、「国王・群臣および持戒の比丘は、まさに破戒のものを苦治し駆遣し 呵嘖すべし」とのたまふや。答ふ。もし理のごとく苦治せば、すなはち仏教 に順ず。もし非理にして悩乱せば還りて聖旨に違す。ゆゑに相違せず。「月蔵 分」(大集経)に、仏ののたまへるがごとし。「国王・群臣は、出家のものの、 大罪業たる大殺生・大偸盗・大非梵行・大妄語および余の不善をなすを見ては、 かくのごとき等の類をば、ただまさに法のごとく、国土・城邑・村落を擯出し て、寺にあることを聴さざれ。また僧の事業を同ずることを得しめじ。利養の 分、ことごとくともに同ぜしめざるべし。鞭打することを得じ。もし鞭打せば、 P--1172 理、応ぜざるところなり。また口に罵辱すべからず。一切、その身に罪を加ふ べからず。もしことさらに法に違して、罪を&M036091;めば、この人はすなはち解脱に おいて退落し、必定して阿鼻地獄に帰趣せん。いかにいはんや、仏のために出 家して、つぶさに戒を持つものを鞭打せんをや」と。{略抄}  問ふ。人間の擯治は、差別しかるべし。非人の行は、なほいまだ決了せず。 『梵網経』には一向に跡を払ふ、『月蔵経』には一向に供給す。なんぞたちま ちに乖角せる。答ふ。罪福の旨を知らんがために、かならずすべからく人の行 を決すべし。かならずしも非人の所行を決すべからず。もしは制、もしは開、 おのおの巨益をなす。あるいはまた、人の意楽の不同なるがごとく、非人の願 楽もまた不同なるのみ。学者、決すべし。  問ふ。論のちなみに論をなさん、かの犯戒の出家の人において供養し悩乱せ ば、いくばくの罪福を得るや。答ふ。『十輪経』の偈にのたまはく、   「恒河沙の仏の、解脱幢相衣を被たり、   これにおいて悪心を起さば、さだめて無間獄に堕ちなん」と。[袈裟を名づけ   て「解脱幢衣」となす。] P--1173 「月蔵分」(大集経)にのたまはく、「もしかれを悩乱せば、その罪万億の仏身 より血を出す罪よりも多し。もしこれを供養せば、なほ無量阿僧祇の大福徳聚 を得ん」と。{取意}  問ふ。もししからば、一向にこれを供養すべし。なんぞこれを治して大きな る罪報を招くべけんや。答ふ。もしその力ありてこれを苦治せずは、かれまた 罪過を得。これ仏法の大きなる怨なり。ゆゑに『涅槃経』の第三にのたまはく、 「持法の比丘は、戒を破り正法を壊することあるものを見ば、すなはち駆遣し、 呵嘖し挙処すべし。もし善比丘、壊法のものを見て、置きて、呵嘖し駆遣し挙 処せずは、まさに知るべし、この人は仏法のなかの怨なり。もしよく駆遣し、 呵嘖し挙処せば、これわが弟子なり、真の声聞なり。{乃至}もろもろの国王およ び四部の衆は、まさにもろもろの学人等を勧励して、増上の戒・定・智慧を得 しむべし。もしこの三品の法を学せずして、懈怠破戒にして正法を毀るものあ らば、王者・大臣、四部の衆、まさに苦治すべし」と。またのたまはく(同)、 「もし比丘ありて、禁戒を持すといへども、利養のためのゆゑに、破戒のもの と坐し起し行じ来し、ともにあひ親附して、その事業を同じくせば、これを破 P--1174 戒と名づく。{乃至}もし比丘ありて、阿蘭若処にありて、諸根利ならず、闇鈍&M032592; &M023653;にして少欲にして乞食し、説戒の日および自恣の時に、もろもろの弟子を教 へて清浄に懺悔せしめ、弟子にあらざるもの、多く禁戒を犯せるを見ては、 教へて清浄に懺悔せしむることあたはずして、すなはちともに説戒し自恣す る、これを愚痴僧と名づく」と。{以上略抄}あきらかに知りぬ、もしは過ぎ、もし は及ばざるは、みなこれ仏勅に違しぬ。そのあひだの消息すべて意を得るにあ り。 【80】 第十に助道の人法といふは、略して三あり。一には、すべからく明師の、 内外の律に善くして、よく妨障を開除するに、恭敬し承習すべし。ゆゑに『大 論』(大智度論)にいはく、「雨の堕つるに、山の頂に住まらずしてかならず下 れる処に帰するがごとし。もし人、驕心をもつてみずから高くすれば、すなは ち法水入らず。もし善師を恭敬すれば、功徳これに帰す」と。二には、同行の、 ともに嶮を渉るがごときを須ゐる。すなはち臨終に至るまで、たがひにあひ勧 励せよ。ゆゑに『法華』にのたまはく、「善知識はこれ大の因縁なり」と。ま た「阿難のいはく、〈善知識はこれ半の因縁なり〉と。仏ののたまはく、〈し P--1175 からず、これ全の因縁なり〉」(付法蔵因縁伝・意)と。三には、念仏相応の教文 において、つねに受持し披読し習学すべし。ゆゑに『般舟経』の偈にのたまは く、   「この三昧経は真の仏語なり。たとひ遠方にこの経ありと聞かば、   道法を用ゐるがゆゑに往きて聴受し、一心に諷誦して忘捨せざれ。   たとひ往きて求むるに聞くことを得ずとも、その功徳の福は尽すべからず。   よくその徳義を称量することなからん。いかにいはんや聞きをはりてす   なはち受持せんをや」と。[四十里・百里・千里をもつて「遠方」となす。]  問ふ。なんらの教文か、念仏に相応する。答ふ。前に引くところの、西方の 証拠のごときは、みなこれその文なり。しかも、まさしく西方の観行ならびに 九品の行果を明かすことは、『観無量寿経』[一巻、&M021895;良耶舎の訳。]にはしかず。 弥陀の本願ならびに極楽の細相を説くことは、『双巻無量寿経』[二巻、康僧鎧 の訳。]にはしかず。諸仏の相好ならびに観相の滅罪を明かすことは、『観仏三 昧経』[十巻あるいは八巻、覚賢の訳。]にはしかず。色身・法身の相ならびに三昧 の勝利を明かすことは、『般舟三昧経』[三巻あるいは二巻、支婁迦の訳。]『念仏 P--1176 三昧経』[六巻あるいは五巻、功徳直、玄暢とともに訳す。]にはしかず。修行の方法 を明かすことは、上の三の経ならびに『十往生経』[一巻]『十住毘婆沙論』 [十四巻あるいは十二巻、龍樹の造、羅什の訳。]にはしかず。結偈総説は、『無量寿 経優婆提舎願生の偈』[あるいは『浄土論』と名づく。あるいは『往生論』と名づく。 世親の造、菩提留支の訳、一巻。]にはしかず。日々の読誦は、『小阿弥陀経』[一巻 五紙、羅什の訳。]にはしかず。修行の方法は、多く『摩訶止観』[十巻]および 善導和尚の『観念法門』ならびに『六時の礼讃』[おのおの一巻。]にあり。問答 料簡は、多く天台(智&M043614;)の『十疑』[一巻]道綽和尚の『安楽集』[二巻]慈恩 (窺基)の『西方要決』[一巻]懐感和尚の『群疑論』[七巻]にあり。往生の人 を記することは、多く迦才師の『浄土論』[三巻]ならびに『瑞応伝』[一巻] にあり。その余は多しといへども、要はこれに過ぎず。  問ふ。行人みづからかのもろもろの文を学すべし。なんがゆゑぞ、いま労し くこの文(往生要集)を著すや。答ふ。あに前にいはずや。予がごときものは、 広文を披きがたし。ゆゑにいささかにその要を抄すと。  問ふ。『大集経』(意)にのたまはく、「あるいは経法を抄写するに、文字を P--1177 洗脱し、あるいは他の法を損壊し、あるいは他の経を闇蔵す。この業縁により て、いま盲の報を得たり」と。{云々}しかるをいま経論を抄するに、あるいは多 くの文を略し、あるいは前後を乱る。これ生盲の因なるべし。なんぞ自害する ことをなさんや。答ふ。天竺(印度)・震旦(中国)の論師・人師、経論の文を 引くに、多く略して意を取る。ゆゑに知りぬ、経の旨を錯乱するはこれ盲の因 たるも、文字を省略するはこれ盲の因にあらず。いはんや、いま抄するとこ ろは、多くは正文を引き、あるいはこれ諸師の所出の文なり。繁文を出すこと あたはざるものに至りては、注して、あるいは「乃至」といひ、あるいは「略 抄」といひ、あるいは「取意」といへり。これすなはち学者をして本文を勘へ やすからしめんと欲してなり。  問ふ。引くところの正文はまことに信を生ずべし。ただしばしばわたくしの 詞を加す。いかんぞ人の謗りを招かざらんや。答ふ。正文にあらずといへども、 理をば失せず。もしなほ謬ることあらば、いやしくもこれを執せず。見るもの、 取捨して正理に順ぜしめよ。もしひとへに謗りをなさば、またあへて辞せず。 『華厳経』の偈にのたまふがごとし。 P--1178   「もし菩薩の、種々の行を修行するを見て、   善・不善の心を起すことあるを、菩薩みな摂取す」と。{以上} まさに知るべし、謗りをなすもまたこれ結縁なり。われもし道を得ば、願はく はかれを引摂せん。かれもし道を得ば、願はくはわれを引摂せよ。すなはち菩 提に至るまで、たがひに師弟とならん。  問ふ。論のちなみに論をなさん、多日、筆を染めて身心を劬労す。その功な きにあらじ。なんの事をか期するや。答ふ。   このもろもろの功徳によりて、願はくは命終の時に、   弥陀仏の無辺の功徳の身を見たてまつることを得ん。   われおよび余の信者、すでにかの仏を見たてまつりをはらば、   願はくは離垢の眼を得て、無上菩提を証せん。 往生要集 巻下 P--1179 【81】 永観二年甲申冬十一月、天台山延暦寺首楞厳院にして、この文を撰集 す。明くる年の夏四月に、その功を畢ふ。一の僧ありて夢みらく、毘沙門天、 両の丱童を将て、来り告げていはく、「源信が撰せるところの『往生集』は、 みなこれ経論の文なり。一見・一聞の倫は、無上菩提を証すべし。すべからく して一偈を加へて、広く流布せしむべし」と。他日に夢を語る。ゆゑに偈を作 りていはく、   すでに聖教および正理によりて、   衆生を勧進して極楽に生ぜしむ。   乃至展転して一たびも聞くもの、   願はくはともにすみやかに無上覚を証せん。 P--1180